うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『十七歳の硫黄島』秋草鶴次 ――自分の体にたかる蛆虫を食べて生き延びた高校生

 

 海軍通信科員として硫黄島の戦いに参加した人物の手記。

 戦闘の具体的な経過、実際の様子を詳しく記録している。

 秋草氏は悲惨な戦況のなかで自らも負傷するが、絶対に生き延びるという強い意志を持っていた。このことは、回想録の各所で伺える。玉砕を選ぶのではなく、生きる意志を保持し続けたことで、かれは運よく生還することができた。

 大多数の人間はまったくの確率や運によって戦死・餓死した。

 これだけの壮絶な戦闘で死んだ人びとを、無意味な犠牲とするのか、現在の安定の基盤とするのか、どのように位置付けるかというの問題は解決不能である。

  ***

 1

 著者の秋草氏は昭和17年に海軍に入隊した。当初予科練飛行兵を志望したが第2希望の通信科になった。横須賀通信学校での教育後、南方航空艦隊司令部への配属が決まった。

 この任地が硫黄島であるとわかったのは行く直前だったが、数日間の休暇をもらったことで、おそらく激戦地なのだろうと予見できた。

 1月下旬には、米軍の大艦隊が硫黄島を包囲しており、毎日課業時間にあわせて砲撃を行った。あわせてB29による爆撃、艦載機による射撃も行われた。

 秋草氏は南方空司令部の通信部署担当となり、はじめ司令部壕の地下でモールス信号の送受信を行った。他には暗号部署などがあった。

 司令部壕には士官室、会議室、他の兵科の執務室、便所、安置所(屍体を積み上げるだけ)、ポケット(見張りや避難のための小さな穴)があった。

 すさまじい熱気と臭気が充満していた。

 かれらは横にしたドラム缶の上で寝なければならなかった。

 日々の砲撃や消耗により傷病者が増えたが、看護婦などはいなかった。

 

 2

 ――全島の各部隊に戦傷病者がいる。すべての病院、医務機関はすでに溢れている。蟻が寄ってくると、次はかれの番かと死期を暗示させた。逝く者からは蚤も別れてくる。それまで群がっていたかれらは音を立てていっせいに次の獲物に飛びかかる。

 

 ――壕内は血塗られていて歩きにくい。血潮に染まった生存者と、屍体が添い寝している現実の中にあっても、自分だけは生きるんだという執念が、片時も俺を捕えて離さない。

 

 ――老廃物、排泄物、なまぐさい血潮など、あらゆる臭気が混ざって、地熱に醸し出される。

 

 2月に入り、秋草氏は米軍上陸予定地点である摺鉢山に近い玉名山送信所に移動した。

 6時間シフト勤務の明けには、島内を散策した。地表は艦砲射撃により一変しており、地獄のような光景だった。

 陸軍はひたすら穴掘りをしており、それに比べれば、作業を免除された自分たち通信員は楽だったろうとコメントしている。

 通信科は偵察も行った。米艦船の数が増加し、島の南側海岸から上陸するのは間違いないと思われた。皆、硫黄島をスルーしてくれればいいのに、と祈っていたという。

 

 3

 2月19日に米軍の上陸が始まった。

 送信所勤務員である秋草氏は攻撃手段を持たなかったため、トーチカの中から様子を観察した。上陸部隊と守備隊との激戦が始まった。

 

 ――彼我の距離1キロメートル足らずの地に、双方、併せて5万を超す人間の殺戮戦が繰り広げられた。10時間に及ぶ膠着戦であった。

 

 ――米軍海兵隊は、重火器等の執拗な補充、艦砲支援射撃、航空機の掩護射撃、それらの緻密な連携攻撃が相まって、しだいに侵攻してきた。

 

 夜間はロケット弾と斬り込み肉弾攻撃が行われた。

 

 ――夜陰を背景に、オレンジ色の爆発光源が逆円錐形に鋭く広がり、種々雑多な破片が舞い上がる。それとわかる人体の一部も舞っている。

 

 4

 摺鉢山に海兵隊星条旗を掲げた後も、日本軍は壕に潜み、夜間に日章旗と取り換えた。この行為は2度行われたという。

 

 ――するとそこには星条旗ではない、まさしく日章旗が翻っていた。よくやった。日本軍は頑張っているのだ。この島のどこよりも攻撃の的になっている場所なのに。

 

 壕で出会った耳の悪い日本兵は、耳が遠く迷惑がかかるために、何度も決死突撃を命じられ壕から追い出されていた。

 持久戦の実相は次のようなものだった。

 

 ――前線基地からの情況連絡員が来た。……弾薬がない。素人の手も借りたい。悲痛な訴えであった。その連絡員を見れば、両手首から先がない。

 

 ――……撃て撃て、といくら掛け声をかけても、怒鳴り散らして無用な軍刀を振りかざしても、弾丸がない。運ぶ者がいない。射手がいない。

 

 ――(屍体から銃を手に入れたところ)しかし、この手に持ってみると、交戦したい感情などみじんもわいてこない。あんなにほしいと思っていたのに、どうしてかわからない。

 

 下手に一発撃てば自分たちの居場所を教えることになり、艦砲射撃や陣地からの砲撃を受け、仲間に迷惑をかけることになった。

 秋草氏は通信所員として敵情視察し情報を北の司令部に送るものの、どこまで届いているかは不明だった。

 

 5

 艦砲射撃を受け、右手の指数本を失い、左足に貫通破片創を受けた話。

 

 6

 3月6日、玉名山地区壕で治療を受けていた秋草氏は竹槍を渡された。その2日後に、総攻撃が行われることが決まった。栗林兵団長は総攻撃をしないよう指示したが、南方空は従わず、南地区隊のみが突撃することになった。

 

 7

 南方空の壕に飛行兵らしき将校があらわれ、総攻撃後、軍紀の消滅した壕を指揮すると宣言した。

 

 ――指揮官を名乗った男は、何ら自己紹介するでもなく、また職務分担を決めるわけでもない。ただ、「勝手な行動は許さない」ということだった。

 

 水を求めてドラム缶にホースをさしては吸い込んだが、ほとんどは重油軽油だった。

 司令部の霊安室では、屍体の山から燐が分泌され、暗闇の中で青く明滅していた。

 

 ――足元にあるのはかつて人の身体だったものであろう。足が触れると、腐った甘藷やかぼちゃを踏んだときのような感触が伝わってくる。中心の骨だけが固く、まわりのものはずるっとそげて骨が裸になる。……燐が飛び出すのを、かろうじてへばりついた肉片が抑えているような屍体があった。その泥んこのような肉片がずり落ちたら、ものすごい数の燐が噴き出しそうだとわかる。

 

 ――さっき見たあのたくさんの燐の主は、死んでしまうと、自由のないこんな姿になるんだよと教えているように思えてくる。だからみんなが言った、命を粗末にするな、短気を起こすな、と。生きるための努力を俺もする。ただできることをするしか、生かされる道は転がってこないと思った。

 

 米軍の掃討作戦……催涙弾、ガス、水責めとガソリン火責め。

 

 8

 運よく火責め壕から逃げ出した秋草氏は島内を彷徨した。

 かれは自分にたかった蚤や虱を食べた。

 

 ――疼く傷口を見た。丸々と太った真っ白い蛆が出てきた。……口中に入れると、ブチーッと汁を出してつぶれた。すかさず汁は吸いこんだが、皮は意外に強い。一夜干しでもあるまいに。しばらくその感触を味わった。

 

 9

 正体不明の指揮官は米軍の呼びかけに応じて投降したが、著者はその様子に反感を抱いた。

 

 ――……その指揮官は、……どんな指揮もとらなかった。点呼など一度もない。この壕に何人いるか、などということにも興味はなかったようだ。いつだれが死んでも自決しても、頓着も関心も示さなかった。だから俺は、いまさらついていく気にはなれない。

 

  ***

 捕虜になり米本土を転々としたあと故郷に帰ってきたとき、自分自身の葬式が行われていた。

 

 ――耐久試験だ、これは。人間の……。でも頑張るんだ、このことを誰かに言うんだ、と思った。だから俺は生きなくちゃなんない。……そういう気持ちだった。

 

 ――死んでね……。意味があるんでしょうかねえ。どうでしょうねえ。だけど、無意味にしたんじゃ、かわいそうですよね。それはできないでしょう。「おめえ、死んで、意味なかったなあ……」っていうのでは、酷いですよね。……どんな意味があったか、それは難しい。でもあの戦争からこちら60年、この国は戦争をしないですんだのだから、おめえの死は無意味じゃねえ、と言ってやりたい。

 

十七歳の硫黄島 (文春新書)

十七歳の硫黄島 (文春新書)

 

 

『非公認版聖書』フォックス その2 ――だれもイエスが何を言ったか知らない

・追加と削除

 

 ――……キリスト教のテクストは、それが誕生した最初の100年間は、いわばテクストの入れ替えと書き直しの戦場のようなものだった。

 

 ――こうした問題はたしかに、ある人たちを除けばそれほど重要ではないのかもしれない。ある人たちとはどんな人たちなのかというと、聖書は神の言葉であるために、そこには一点のあやまちもないとなお言い張っている人たちである。

 

 しかし、中には信仰そのものに関わる例もある。

 イエスは本来「新約聖書」のなかで、一度も「神」と呼ばれたことがないのではないか。

 

・巻物から書物へ

 ユダヤ教における巻物(スクロール)の使用に対抗し、キリスト教徒ははじめパピルスを、その後写本(コデックス)の使用を進めた。

 「新約聖書」の正典が定められたのは3、4世紀以降とされる。「旧約聖書」に至ってはさらに後世である。

 

  ***
 3

・歴史

 ヘロドトストゥキディデスは、本人は意識していなかったが、事実の相互関係を明らかにするという歴史学者の姿勢を持っていた。

 旧約聖書の「事実」には、そういった観点はあるのだろうか。

 編纂される前の伝承部分には、当時のユダヤ人王朝の歩みを批判的に記述した箇所がみられる。しかし、モーセ五書編纂者(D)によって、このような歴史的な視点は消されてしまった。

 

ダビデからパウロ

 Dの記述する「列王記」から、ダビデは理想化され、事実は後退していく。

 

 ――われわれの目に映るユダヤ人は、あやまった歴史をたくさん書いたほどには、それほど頻繁に正確な歴史は書かなかった。しかし、事実ではないその物語が圧倒的な効力をもったのだ。

 

 「使徒言行録」の作者もまた、神のはからいという世界観に従って物語を作り上げている。

 

・発掘と探査

 イエスの死後、ペトロ、ヨハネパウロが布教を進めた時代には既に、聖地の名所旧跡を巡る旅行が行われていた。

 ただし、福音書には洞窟の記載は存在せず、イエスベツレヘム出身ではない。当時の人びとはカフィー(頭巾)をかぶっていなかった。

 聖書考古学の進展により、聖書の物語を証明することはできなかったが、聖書の起源や成立を検証することが可能になった。

 

・第五の福音書

 聖書の物語と現実に発掘された遺物との交点はごくわずかである(一部の都市の移転や、下水道整備の記述など)。

 ソロモン王の財宝や、黄金神殿の証拠は探しても見つからない。

 新約聖書ギリシア語で書かれているが、イエスやその信徒たち、ユダヤ人たちがギリシア語を話したという記録は残っていない。

 

・異教徒たち

 「列王記」等のユダヤ人史と、同時代の他民族の歴史(アッシリア人バビロニア人、ペルシア人)とを比較することで、聖書がどの程度史実に基づいているかを判断できる。

 「列王記」は、史料をもとに編纂しているだろうが、事実は「神の恩と報復」という世界観によって歪められている。

 「エズラ記」、「ネヘミヤ記」は、ほぼ同時代人が書いたため史実に近いが、編纂者は2書の前後を間違った。

 「エステル記」はペルシアの慣習や文化に詳しいが、内容は完全なフィクションである。

 

・イエス

 イエスが実在の人物である限り、それは史学、考古学の対象となる。

 屍体の埋葬場所はこれまでに何度も探索されてきたが見つかっていない。トリノの聖骸布は、14世紀につくられたものである。

 ローマの歴史資料(ヨセフス)によれば、人心を惑わしたとして磔刑にされた人物の記録が残っている。

 イエスユダヤ人によって死に追いやられたとされているが、史料ではユダヤ教のサンヘドリン(最高法院)がイエスを罰した可能性は低い。また、ポンティウス・ピラトは実際は粗暴な人物だった。

 マルコ、マタイ、ルカの福音書は、ユダヤ人がイエスを殺そうとしてピラトに圧力をかけたことが強調されている。一方、ヨハネ福音書では、イエスは捕らえられる前から既にお尋ね者である。

 ヨハネはもっとも事実に近いだろうが、それでもイエス処刑の原因を明らかにはしてくれないという。

 

預言者

 預言者は当時の中東のあらゆる宗教において存在した。

 現在、我々は預言者のことを急進主義者、反体制派とみなしがちだが、実際は、体制側……祭祀階級や律法・伝統に近い位置に立っていた。

 

・「旧約」と「新約」との照応

 「旧約聖書」がイエスの出現を予言しているという考えは広く支持されているが、多くはこじつけである。

 「ヨハネの黙示録」は、成立当時のネロやドミティアヌス帝治世を描いたものであるという。黙示録は、「堕落した現世の権力と天の完全なイメージ」を表そうとしている。

 

  ***

 4

・物語としての聖書

 

 ――したがって聖書は、実際に起きた出来事をならべて記したものではない。しかしそれはなお書物の形態をしていて、読む人びとに深い影響を与え、新しい読者をさらに獲得していく。事実の問題として、聖書が真実であろうとなかろうとそれにかかわりなくである。

 

 聖書は、イスラエルの作者とその自称後継者である教会が、神についての信念を書き記したものだった。

 果たして、聖書はつくり話と歴史と文学が混ざったものなのだろうか。

 

 ――物語のもつ力はその神性にあるのではなく、むしろ人間性にあるといってよいのではないだろうか。

 

 沈黙……説明・描写の省略が、聖書の物語に力を与えている。読者は、書かれなかった空白について深く考えるようになる。

 聖書の多くは物語でありフィクションだが、そこから人びとの物の見方を知ることができる。

 物語の中では、多くの人間が神の幻を見たり、声を聴いたりする。

 神の顕現……アブラハムは神に食事をふるまった。ソドムの挿話では、付き人を連れた神の姿が目撃される。一部の高位の人間が神に会うことがあった。

 神の御使い=天使は様々な場面で登場する。

 旧約から新約まで、「あらゆるところで神と出会える」世界観が貫かれている。

 

・神の文書

 古代には、聖書と文学(ラテン語による異教徒たちの古典)とが峻別されていた。聖書のスタイルはあまりに粗野でぶっきらぼうに思われた。

 文学として聖書を読むこともまた解釈の1つである。

 

・人間の真実

 聖書において、女性は明らかに低い地位に置かれている。当時のユダヤ教における認識を反映したものである(そしてこれは後世の教会が原始キリスト教の男女平等志向を改変したものである)。

 神の名のもとに、異民族を虐殺することがよしとされている。異教徒の作品であるギリシア悲劇ホメーロスにはない感覚である。

 聖書の出来事はほぼすべてが必然であり、神の意志・意図である。

 律法と、律法では解決できない事柄に関する善悪を提示する(タマルと義父ユダの話)。

 ヘブライ聖書において、人びとは自分たちの神が必ずしも正義を行うわけではないこと、攻撃性を持っていることを認識していた。

 聖書は、人間のあやまちと邪悪さを記した本である。そして、神はジェノサイドを推進する存在である。

 

 ――(聖書の真理とは)……イスラエルの人びとや最初のキリスト教徒たちが、あれやこれやをこんなふうに信じていたのだという真理である。

 

非公認版聖書

非公認版聖書

 

 

『非公認版聖書』フォックス その1 ――だれもイエスが何を言ったか知らない

 「旧約聖書」および「新約聖書」を歴史家の視点から検証した本。

 

 聖書の成り立ちや、そこに含まれる事実誤認、フィクション、改変の要素について大変細かく説明する。聖書を通読したことがないと、個々のエピソードの検討を完全に把握するのは難しい。

 元々、聖書の内容に詳しい人間であればもっと理解できるだろう。

 

 本書の結論は次のようなものである。

 聖書は正確な歴史や事実を並べたものではなく、その多くの出来事や言行はフィクションか、後世の追加である。しかし、聖書を読むことで、ユダヤ人と原始キリスト教の世界観を知ることができる。

 

  ***

 1

・創世記と、キリスト生誕について

 創世記は複数の異なるテクストから成り立つ。

 7日間の天地創造物語は紀元前6世紀に書かれたが、その焦点は安息日の存在である。アダムとイブの物語はより古い紀元前8世紀由来である。

 創世記をめぐる言説の多くは、後世に定着したものである。アダムと原罪を結び付けたのはアウグストゥスである。

 アダムとイブは性欲を認識したためではなく、生命の実(永遠の命)から遠ざけるために追放された。元々、土から生まれた人間は死にゆく存在だった。

 創世記とエデンとの矛盾を解消するため、アダムとイブの子孫がユダヤ人、それ以外は別の人間の子孫であるという説が流行した。

 キリスト生誕の物語は4つの福音書で差異があり、生誕年と歴史的事実が食い違っている。おそらくヘロデ王は既に死んでいた。

 イエスはおそらく定説よりも年をとっており、50歳手前で布教を始めた。

 東方三博士はおそらく創作された存在である。正確には占星術師(マギ)の人数は定かではない。

 

 ――聖書とは、ふたつの相矛盾する物語や、ときと場所を偽った物語ではじまる異常な本といってよいだろう。何百年のあいだ、この本は信仰の源泉、信仰の基準、それに「聖典」として読まれてきた。

 

ファンダメンタリズム

 聖書を「精霊が書いたもの」と考える見方はかつて主流であった。内容の矛盾を無視できない人びと……オリゲネス等は、聖書は何かを象徴していると考えた。

 聖書が科学的・歴史的に事実に他ならないと主張する人びと……ファンダメンタリストが、現代の西洋において増加している。

 著者は、こうした聖書理解を歴史家の観点から評価することを義務と考える。

 

  ***
 2

旧約聖書の起源

 聖書は、紀元前8世紀から2世紀のあいだに作られたテクストをつなぎ合わせたものである。また、各テクストは後世の改変を受けている。

 われわれは「正典」、すなわち、聖書は特別な本であるという概念から脱して、個別のテクストを歴史的事実によって検討していかなければならない。

 

 最初のモーセ五書(創世記、出エジプト記レビ記民数記申命記)は、J(「ヤハウェ」という言葉を使う者)やE(「エロヒム」という言葉を使う者)等、別人たちの制作物がまとめられて成立した。

 

 ※ 文書仮説(Documentary hypothesis)

 モーセ五書の4種の原資料は、J(ヤハウィスト資料)、E(エロヒスト資料)、D(申命記史家)、P(祭司資料)からなるとする説。

 

 聖書の時代には、ヤハウェは唯一の神ではなく、ユダヤ人たちは実際には他の神をも信仰していた。

 「旧約聖書」の特徴……ヤハウェによる約束、契約、選択といった概念。一神教の特徴である「契約」……ヤハウェに忠誠を誓い、ほかの神を認めないこと……の概念が登場するのは、紀元前7世紀になってからである。

 北のイスラエル王国が滅亡したことで、ヤハウェの信徒たちは危機感を抱いた。間もなく、神からイスラエル人への戒律である「申命記」(=律法)の元となる資料が生まれた。

 

 ――自分が選んだ神からすべての愛を要求する、この嫉妬深い唯一の神学は、はっきりとした現世的な価値観をもっていた。……自分の民を愛するヤハウェは不信心な隣人に対して皆殺しの指令を発した。

 ――神は気まぐれで身勝手である。

 

 紀元前539年、ペルシア王キュロスがバビロニアを攻略し、ユダヤ人たちのバビロン捕囚が終わった。亡命していた過激な司祭たちは、ユダヤ人を他の民族から分離する強力な教義を広めようとした。

 ユダヤ人の教義や生活様式を強く規定したのは「レビ記」である。

 食べ物に関する禁忌は、現在と同じく、かれらの文化的な好みや嫌悪感に基づく(蹄があり、反芻する動物は食べていい。豚は汚い。鳥は、死肉や禁忌動物を食べないものなら食べてよい。虫はイナゴだけは食べてよい)。

 

 モーセ五書(「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」)はばらばらの作者によって作られたものであるため、首尾一貫していない。

 紀元前4世紀から、「ヨブ記」、「コヘレトの言葉」、「ダニエル書」等が徐々に書かれた。その過程で除外された書物が多数あり、聖書の整理が行われていた。

 

・匿名の作者

 ユダヤ教の展開……パリサイ派エッセネ派サドカイ派の成立。

 ヤハウェエルサレムの神殿でのみ犠牲を捧げて礼拝されなければならなかった。このため、紀元前250年ごろから、エジプト在住ユダヤ人たちはシナゴーグををつくりそこで祈りの礼拝を始めた。

 紀元前2世紀頃、最古のヘブライ聖書のギリシア語訳である「七十人訳聖書」(セプトゥアギンタ、LXX)が成立した。

 物語や預言の作者は長い間伏せられてきたが、これは偽予言が当時は死罪とされていたからである。書物に権威を与えるため、偽りの作者名が与えられた。

 イザヤ書の後半部分はイザヤより数世紀後の無名の作者によってつくられている。「雅歌」、「コヘレトの言葉」は、ソロモン王の手によるように偽装された。

 かつては、1000年ごろ成立した「レニングラード写本」……「マソラ(伝統)本」が最も権威あるヘブライ聖書であるとされていた。

 しかし、死海文書の発見から始まる研究によって、聖書のテクストは多様性をもっていたことが明らかになった。ギリシア語訳聖書は、翻訳によって歪められたのではなく、そもそも当時から無数のヘブライ語文書が存在していた。

 ユダヤ人たちはギリシア哲学とは反対の方向、つまり、テクストを批判的に検討するのではなく、より宗教的な方向を選んだ。かれらは解釈や発見を行ったが「ほとんどすべては完全ないつわり」だった。

 

 ――(こうした行為は)ユダヤ人たちの、テクストを聖なるものとして尊敬する心からなされたことだった。

 

 YHWHヤハウェ)の文字は次第に隠されるようになった。

 イエスの生まれる前には、22(ヘブライ文字の数)の特別な文書が定められ、それぞれ「律法(モーセ五書)」、「預言者」、「諸書」に分類された。

 しかし、この時代にはまだ「正典」、「公認版」という概念はなかった。

 

・イエスと聖書

 イエス自身や、その弟子たち、またイエスの死後……紀元100年以降の人びとは、皆好き好きに「旧約聖書」を引用した。そのときは、ユダヤ人が定めた22の特別文書という概念は考慮されず、偽書外典も引用された。

・偽名のキリスト教

 4つの福音書はいずれもその当人が書いたものではない。

 偽の手紙の出現は、パウロの生きていた時代から認識されていた。

 「テモテへの手紙」の作者がパウロであるというのは疑わしい。「ペトロの手紙1、2」はおそらくペトロ作ではないだろう。

 手紙の作者が伝承どおりなのか、そうでないのかは、ギリシア語の文体、歴史観、史実との比較等により検討される。

 [つづく]

 

非公認版聖書

非公認版聖書

 

 

『シベリア出兵』麻田雅文 その2 ――ゲリラ討伐に失敗しても撤退できない日本軍

  3 赤軍の攻勢、緩衝国家の樹立

 イギリス:チャーチル戦争相はデニーキンに肩入れしたが、デニーキン軍がモスクワ総攻撃に失敗するとイギリス軍は撤兵を開始した。

 干渉戦争の発端となったチェコ軍団は、チェコスロヴァキア成立後も英仏の駒として使われ、内戦に巻き込まれていた。しかしチェコ軍団は反旗を翻し、コルチャークをイルクーツクのソヴィエト政権に引き渡した。軍団はその後ソ連と休戦し、1920年9月に帰還した。

 

 アメリカも撤兵を進めるなか、日本は権益確保のために1920年1月、さらに半個師団(5千人程度)の増派を決定する。一方、議会では将来的な撤兵を考えていると答弁した(原首相と田中陸相)。

 

 ――原内閣は……沿海州ならびに中東鉄道沿線に軍を駐留し続けることを、3月2日に正式に閣議決定した。これらの地域に「過激派」の影響が及ぶのは、「自衛上黙認し難き」という理由である。日本が自衛したいのは「帝国と一衣帯水」のウラジオストク、「接壌地」の朝鮮、北満州である。 

 

 日本軍は中立を命じられていたが、1920年2月、3月にかけてウラジオストクハバロフスクハルビンに次々と革命政権が樹立した。

 ところが4月に大井成元率いるウラジオ派遣軍は沿海州を武力制圧し、沿海州臨時政府と停戦協定を結んだ。

 南ロシア軍やポーランドとの戦争に苦しんでいたレーニンは、日本との対決を避けるため、ザバイカル州に、緩衝国家として極東共和国を樹立した。7月、原内閣はセミョーノフへの支援を打ち切りザバイカルからの撤退を決定した。

 ポーランドと共闘したウランゲリの白軍は1920年秋には支援を失って敗北し、ウランゲリは亡命した。セミョーノフは極東共和国の攻撃により3日で拠点チタを失い、満州を経由し沿海州に逃亡した。

 セミョーノフは1945年に大連で逮捕され処刑された。

 

 4 北サハリン、間島への新たな派兵

 日本は撤退を進める一方、北サハリンに出兵するという不可解な行動を行った。

 1920年1月、アムール河口の金鉱・漁業拠点であるニコラエフスク(尼港)を、トリャピーツィン率いる4千名のパルチザンが包囲した。

 白軍やロシア人がパルチザンに処刑されるのをみて、日本軍は武器の引き渡しを拒否、3月に戦闘が発生した。

 しかし、日本軍が航行を妨害していると考えていた中国艦隊、また多数居住していた朝鮮人パルチザンに味方したため、日本人は全滅した。

ja.wikipedia.org

 

 ――尼港事件は、現地の日本軍が、パルチザンのみならず、周辺の諸民族を敵に回したなかで起きた惨劇であった。それだけに、事件は日本の国際的な孤立を際立たせていた。

 

 国内では尼港虐殺への怒りが盛り上がり、また北洋漁業権益者による世論の操作も行われた。与謝野晶子や憲政会の加藤高明石橋湛山は報復政策に反対したが、原内閣はサハリン州派遣軍による占領を決定した。

 元々日本には北サハリンの石油資源に対する野心があり、この事件を機に保障占領しようと考えたのだった。

 北サハリンでの軍政が始まり、さらに北のカムチャッカ半島に対しても、漁民保護のため艦船派遣を始めた。

 山縣はシベリアからの撤退を提案するが原は拒否した。原はウラジオストク権益の重要性を主張した。

 

 ――……ウラジオストクに日本軍が駐留していればこそ、ロシアの過激主義者と朝鮮人運動家が結びつくようなことを防ぐことができる。

 

 1920年秋、日本は中朝露国境の間島(かんとう)地方に軍を派遣していた。これは、朝鮮人運動を鎮圧するためである。

 日本軍は400名弱を射殺したが、間島地方での討伐は中国の非難をあびた。日本は、中国政府ではなく満州軍閥張作霖と協調する方針をとっていたため意に介さなかった。

 

 5 沿海州からの撤兵

 世間では出兵への非難が強まるが、原は権益保護、自衛、過激派からの防衛を理由に決心しなかった。

 1921年11月、原は尼港事件を恨む中岡昆一に東京駅で刺殺された。間もなく裕仁が摂政に就任、翌年山縣は病死した。

 ワシントン会議で日本は撤兵の圧力にさらされた。高橋内閣に続く首相加藤友三郎は無条件での撤兵に合意した。加藤は撤兵と軍縮を断行した人物として、英米では非常に評価の高い人物である。

 このときウラジオ派遣軍と極東共和国軍が交戦しており、全面衝突間近だった。10月に派遣軍は撤退を行った。

 

 6 ソ連との国交樹立へ

 その後、後藤新平を中心にソ連との協調路線が模索された。

 1923年8月、政府は在中ソ連大使ヨッフェを日本に招待し交渉を行った。この交渉は決裂し、また直後の関東大震災で日ソ交渉も停滞した。

 1925年10月、加藤高明内閣のものとで日ソ基本条約が締結された。日本は北サハリンの開発権を獲得し、また同地からの撤兵を約束した。

 一方、共産主義の脅威に備え、同年、治安維持法を施行した。

 

・シベリア出兵犠牲者について……靖国神社によれば正式な軍人の戦死は2643人、病死690人、計3333人である。

 

 ――しかしここには、尼港事件の民間人犠牲者は含まれていない。……民間人でも在郷軍人は、日本軍の指揮下で行動して戦死した証拠があるので合祀されたい、との請願があったものの、認められなかった。ほかにも義勇兵として戦闘に参加したものや、巻き込まれた民間人の事例も含めれば、その犠牲者数は増えるだろう。

 

・病死の割合は日露戦争を上回った。

ソ連側の死者は8万人に上るという。

・シベリア出兵の教訓は生かされなかった。出兵に関する資料を、陸軍は秘密文書扱いにした。

 

 終章 なぜ出兵は7年も続いたのか

 長期における派兵の原因について著者は次のとおり推測する。

統帥権の独立

親日政権樹立に失敗……ソ連を交渉相手として認めていなかったため、交渉相手がいない。

・死者への債務……「出兵しても何も得ずでは兵を引けないという、指導者たちの負い目」

 

 ジョン・ダワーの言葉。

 

 ――人が死ねば死ぬほど、兵は退けなくなります。リーダーは、決して死者を見捨てることが許されないからです。この『死者への債務』は、あらゆる時代におきていることです。犠牲者に背を向けて、『我々は間違えた』とはいえないのです。

 

・敵と戦闘地域の拡散