うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『大江戸死体考』氏家幹人

 江戸時代、人びとと屍体とが近い距離にあった。本書は、特に試し斬りの専門芸者である山田家を中心に、屍体にまつわる制度や風習を紹介する。

 

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・江戸では身投げが多く水死体がひんぱんに浮かんだ。数が多いので、汐入で発見された屍体は海に突き流せと通達が出された。

・井戸への身投げ、男性の場合は首吊りが多かった。

・検死は「検使」と呼ばれ、屍体を調査するための文献が豊富にあった。

・情死の数が多いため、検使は処理しきれなかった。このため、もみ消し、示談等が横行した。

・試し斬りを専門とする、据物師山田浅右衛門は先祖代々この仕事を受け継いできた。

 将軍家の御道具(刀剣)の試し斬りを務める「御試御用」は、山田家の重要任務である。試し斬りには罪人の胴(首なし死体)が使われるが、これは伝統と古式に則った行事だった。

 

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 試し斬りは世界各地で見られた風習だが、日本では19世紀になっても残っていた。

 生きたまま斬られる場合は「生胴」といった。

 江戸初期には辻斬りが多かった。また、会津藩など試し斬りのさかんな地域では、道端や河原の変死体を持ち帰って主人の試し斬りに供する例があった。しかし、屍体の無断回収はやがて禁止された。

 試し斬りは観客のつめかける一大イベントだった。

水戸光圀……縁の下の非人をひきずりだして試し斬りにした。

 

 戦国時代から遠ざかるにつれて、試し斬りは不浄のものとして敬遠され、一部の専門芸者に託されるようになった。

 試し斬りの山田家と、蘭学者たちは、屍体をめぐって業務でのかかわり(いさかい)があった。

 

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 人斬り山田浅右衛門について。

 徳川幕府成立時、試し斬りや首斬り(処刑)を生業とする武士はほかにもいた。当時は、生きたまま執行することが多かったという。

 やがて、罪の意識からくる引退や、技術の伝承の問題から、山田家だけが試し斬りの家として生き残った。浪人の身分だったが、幕府や大名家からの試し斬り依頼、また製薬販売の副業で裕福だった。

 「人斬り浅右衛門」、「首切り浅右衛門」の異名は、江戸時代から伝わるものである。

 

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 人間の肝や人肉、脂肪が薬になるという民間療法信仰が古くから存在する。中国はその本場だが、日本でも行われていた。

 浅右衛門は、屍体から採取した肝や脳、人肉を貯蔵し、販売することで蓄財した。

 

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 天保の時代には、江戸において切腹がおこなわれることはまれになっていた。いざ、罪を犯した武士が切腹することになると、介錯人が見つからないということで、臨時に山田浅右衛門の高弟である後藤為右衛門が雇われた。

 山田家の弟子は、レギュラーとして登録されている15人~18人以外にも、多くの練習者を抱えていたと思われる。

 ある弟子父子は川越藩から処刑業務の外注を受け、そのたびに出張した。

 弟子たちは各藩から処刑の依頼を安価で引き受け、その屍体で練習をすることができた。

 

 ――「浪人」という曖昧な身分で将軍家の御様御用を代々務めるのみならず、依頼があれば大名家にも人斬りの人材派遣をしていた山田浅右衛門。しかも彼の弟子たちは、それぞれ異なる藩に所属していたのです。