工場が閉鎖し、また食料配給も止まったため、労働者たちの不満が蓄積した。市から逃亡しようとする工場長や幹部たちを労働者がとらえ、車両や荷物を破壊し、市内に連れ戻した。
市内の恐慌を知らされたスターリンは外出禁止令を発し、また工場や商店を通常通り営業させた。NKVDや自警団、警察の取り締まりによりモスクワの秩序が戻った。
ベリヤはこのとき、多数の囚人を射殺した。数百人以上が処刑された。
一方で、党幹部、科学者や理系学生、作家、芸術家たちの疎開は早くから始まっていた。アルマ・アタ、サマルカンド、アシハバード等、職能ごとに疎開が行われた。
モスクワにはドイツ人が多数住んでおり、市民から尊重されていた。独ソ戦が始まると、かれらは強制移住させられた。
11月までには200万人ほどがモスクワを離れた。
秋が深まるにつれてドイツ軍の状況が悪化した。
11月、スターリンは地下鉄において演説を行った。また、アルテミエフ(モスクワ軍管区司令官)、シニロフSinilovらモスクワ防衛の指揮官に対し、例年どおり11月7日革命記念パレードを行うよう命じた。パレードは成功し、市民と兵士は一体感を味わった。
劇場や音楽会も、爆撃を恐れず平常通り実施された。こうした士気高揚は成功し、やがてソ連軍反撃の起点となった。
本書においてジューコフは、スターリンの顔色を伺う狭量な指揮官として描かれている。
STAVKAの高級軍人たちは、スターリンに歯向かうよりも、部下に無謀な命令を下すほうを選んだ。
12月にはドイツ軍は完全停止し、赤軍の抵抗が始まった。それでも、全面的な反撃にはまだ戦力が不足していた。
軍とNKVDによってパルチザン部隊の訓練が行われ、敵の後方、占領地で活動をおこなった。ゾーヤ・コスモデミヤンスカヤはドイツ軍に処刑されたパルチザンの英雄として、ソ連社会で度々取り上げられた。
多くの成人が前線や工場に働きに出たため、1941年の犯罪の4割が子供によるものとなった。
1942年初めのスターリンによる反撃命令はほぼすべて失敗した。しかし、ドイツ軍の進軍は停止した。その後、スターリングラード、セバストポリ、クルスク、バグラチオン作戦と、赤軍はドイツ軍に対し勝利を重ねた。
ドイツ軍の死者の7割以上が東部戦線だった。第2次世界大戦はソ連の勝利だったとスターリンらが考えてもおかしくはない。
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モスクワの戦いは、ドイツ軍が無敵ではないことを証明した。
スターリングラード、レニングラード、オデッサ、セバストポリが、英雄の街として名誉を与えられたのに対し、モスクワは、初戦の敗北、つまりスターリンの失敗と結びついていたため、その後も冷遇された。1965年、ようやくモスクワは英雄の街となった。
ジューコフはスターリンに危険視され、冷遇された。フルシチョフ時代に一度復権するが、またしても追放された。
ロコソフスキーはポーランドの出自に目をつけられ、ポーランド統治を担当した。
大戦におけるロシア人とフランス人との違いとして、マルク・ブロックは指導者を原因にあげた。フランスの指導者たちはパリを死守するという意欲に欠けていた。一方、スターリンは無慈悲な命令によってモスクワ死守を貫いた。
本書によれば、「ロシア人たちは社会主義のためではなくロシアのために戦っているのだ」と、スターリンも認識していたという。
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ドイツ軍の侵攻と、スターリンの支配に苦しみながら生き延びたロシア人たちの災難は想像を絶するものである。
それでも、かれらの一部は、独ソ戦時代が最も輝いていたとコメントする。
ソ連崩壊まで生きた老人は、「われわれはみな勝利を信じていた。(ソ連の崩壊する)今日ほど、辛く、孤独に感じたことはない」と嘆いた。
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◆メモ
ヒトラーの失策(作戦に口を出す)も有名だが、スターリンも負けず劣らず、間違った戦争指導を連発している。それでも最終的に勝利したのは、何が原因だろうか。
・動員能力、生産量
・同盟国からの支援
・気候
・赤軍の能力
・ドイツ側の失敗
※ コーカサス史に関する本『The Ghost of Freedom』では、同民族であるグルジア人のひとりが、スターリンに関して次のようにコメントしている……「スターリンにコーカサス人らしさはない。かれは家族や友人を大切にしないし、自己の責任から逃げ、失策を人に押し付ける恥知らずだからだ。またかれはコーカサスに何の利益ももたらさなかった」
Moscow 1941: A City & Its People at War
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