うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『ハイラスとフィロナスの三つの対話』バークリ

 1713年に出版された本。

 バークリは経験論者の立場から、「知覚の原因物質が外界に存在することを否定し」、非物質主義哲学を提示し、懐疑主義者その他に反論する。

 自分の論文をわかりやすく説明するため、学生ハイラスと学者フィロナスの会話をとおして、なぜ知覚の外に別の物質が存在しないかを議論する(素朴実在論の否定)。

 

 すべてのものは、知覚(視覚、聴覚、嗅覚その他)を通して感知される。これを可感的事物という。感官で認識するもの、すなわち世界のあらゆるものは可感的事物であり、知覚できないものを認識する、もしくは、感覚にあらわれる現象のむこうに、ほんものの「物質」が存在する、と仮定するのはあやまりである。

 知覚によってあらわれるものが世界のすべてであり、また、知覚と、知覚が集まってつくられる観念とは、すべて心のなかにある。よって、「一切は心のなかの観念」である。

 知覚をよびおこすのが、可感的事物の背後に存在する、という形而上学者やロックの考えは、あきらかに非合理的である。

 可感的事物は存在しない、と考えると、デカルト懐疑主義にいたるが、バークリはこれも否定する。バークリは、一切を心のなかの観念としながらも、それが確固として存在する点を強調する(懐疑主義の否定)。

 かれは常識はずれの考え(外的事物は存在しない)から、さいごは常識的、また信心深い結論にたどりつく。

 

 ――ほら、ごらんなさい! 原っぱが喜ばしいほどの新緑でおおわれていませんか? 森や木立に、川や清らかな泉に、魂を和らげ、喜ばせ、高ぶらせるものがないですか? 広大で、深い大海を、そして、頂が雲に隠れている巨大な山々を、あるいは古い鬱蒼たる森林を見渡すと、私たちの心は心地よいおののきで満たされませんか? 岩地や砂漠でさえ、愉快な野性味があるのではないですか? ……この高貴で、喜ばしい風景からすべての実在性を奪ってしまう哲学者たちは、どんな処置に価するでしょうか? 目に見える創造のすべての美しさを、誤った想像の輝きだと私たちに思わせる哲学者たちの原理を、どのように扱えばいいのでしょうか? 率直に言って、君は君自身のこの懐疑主義が、すべてのまともな人びとによってとんでもない不合理だとは思われないだろうなんて期待できるのですか?

 

 可感的事物が心のなかに存在する、という前提から、バークリは次のように説を進める。ここで、なじみの薄い「神」が登場する。

 ――それらが実在しないと結論付けるのではなく、それがわたしの思考に依存しておらず、わたしが知覚することから別に存在しているのがわかるので、それらが存在する何か別の心がなければならないと結論付けるのですよ。だから、可感的世界が本当に存在しているのと同じくらい確かに、その世界を含み、支えている無限で偏在する精神が存在するのですよ。

 世界は神の心のなかにあり、そのなかにわたしたちの心がある、という結論になる。神はすべてのものを、無限の心によって知覚している。よって神は存在する。

 マルブランシュは、神をとおしてものを見る、と考えたが、バークリはこの説にも反対する。神をとおしてものを見るのではなく、もの自体が神の心のなかにある。わたしたちによって知覚されているものは、「無限なる精神の知性によって知られているのであり、その意志によって生み出されている」。

 これが、バークリの考える、もっとも平明であきらかなことである。

 すべては神の精神そのものであり、事物の延長とか、機会因とか、余計な道具は必要ないとかれは考えた。

 よって、これまで日常的なことばのなかで、また、哲学者によってつかわれてきた「物質」ということばは、認識のミスである。

 ――……神のなかで、わたしたちは生き、うごき、存在するのです。

  ***

 神の心のなかにわたしたちが生きている場合、いくつか注釈をつける点が生じる。

 罪は、「外面的で物理的な行動やうごきにあるのではなく、理性や宗教の法則から、意志が内面的に逸脱することにある」。神を、罪の作者とすることはできない。

 ――……思考する合理的な存在者が運動を生み出すときに、究極には実際に神に由来するのでしょうが……かれらに行動のすべての罪を負わせるのに十分でしょう。

 知覚が不明瞭であいまいで、よく認識をまちがえることについては、「現実に知覚している観念について間違っているわけではなく、そのときの知覚からおこなっている推論で間違っている」。

 わたしたちの知覚は、形体的事物の運動に結び付けられており、またわたしたちは限定的で依存する精神であるので、苦痛を感じる。神はどちらの制限ももたないので苦痛をもたない。

 事物はいつも神の知性に存在し、神の心についてははじまりもおわりもない。『創世記』は「完全に有限の精神についてのもの」であり、「感官にあきらかなものの創造」を語っている。

  ***

 バークリは、非物質主義の利点をつぎのようにあげる。「物質」ということばは科学や哲学において多くの誤りを生んできた。

 ――言うまでもないことですが、神が遠くにいると理解することは、人びとを道徳的行動における怠慢へ自然と仕向けるのです。そして、道徳的な行動について、人びとが、物質や思考しない第2原因の仲介なしに、神を、直接に現前しかれらの心に働きかけるものと考える場合には、もっと慎重になるものなのです。

  ***

 物質ということばは矛盾をひきおこすものなので、普通の会話では失われることはないだろうが、哲学の議論では、「それを完全にやめてしまうのがもっともいい」。

 ――……はじめ懐疑主義へ導くように見えたのと同じ原理が、ある点まで追求されると、人びとを常識へと立ち返らせるのです。

  ***

 ことばは日常のなかでつかわれるもので、あきらかで平明なものである。しかし、誤ったことばはあやまった議論、認識を生み出してしまう。 

ハイラスとフィロナスの三つの対話 (岩波文庫)

ハイラスとフィロナスの三つの対話 (岩波文庫)