うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『文学と哲学のあいだ』照屋佳男

 ◆オーウェルの文学について

 かれは人間の自立性を重んじた。自分の感情が、自律のための原動力であるとオーウェルは考え、追い詰められたときにこそ、自分の我を貫きたいという欲求が生じる、と述べた。

 また、彼によれば作家のための前提として3点の心的態度をあげる。その第1が「純然たるエゴイズム」である。

 ――中心にあるのは自分自身の生をとことんまで生きようと決心しているという一事であるということを、我々は忘れてはならない。……三十歳を過ぎると、彼らは個人であろうとする意欲を喪い、主として他人のために生きるか、単調な仕事で窒息させられるかするようになる。

 第2は「美への熱狂」、ことばの配置や響きに対するよろこびの感覚である。ほか、歴史的衝動や政治的目的も並べられている。オーウェルの文学は告発、注意喚起の信念によって書かれた。

 オーウェルキプリングを評価する。「キプリングは「正しくない」世界観の持ち主であったのに、読み継がれているという事実は、自らを科学的に正しいとする世界観の持ち主達がどこか根底的に間違っている事を証明するのではないか」。

 キプリングもイエイツも当時の思想潮流に与しなかったが、その点をオーウェルは認めている。

 ――作家にとって本当に大事なものは何なのか。たとえ反動と呼ばれようと、過去を振り返り、過去にいかりを下ろす事ではないか。

 「世界を現実に形づくるエネルギーは感情――民族的誇り、指導者崇拝、宗教的信条、尚武の精神――から生じるのだが、そういう感情を進歩的知識人はアナクロニズムとして機械的に抹消し、たいていの場合、自分の内面からも完全に消し去ったので、いまでは彼らは行動する力を悉く失ってしまっている」

 1930年代のイギリスにおいては「大きな問題」が若者の頭を占領し、彼らのほとんどは左翼化した。オーウェルは、失業、飢餓、戦争、内乱といった大きな問題への関心は、「政治による文学の侵害」を引き起こすと考えた。党派意識や良心の呵責によって、「ある種の政治的思考やある党派に味方しなければならないという意識が作家の全幅を領し、作家は非文学的な忠誠心によって毒される危険にさらされてしまう」。

 平穏の、個人の生活を捨てて、「大きな問題」にコミットすることは、徳性をマヒさせ、世論と世間に屈従し、無気力、疲労感に襲われることである。

 崇高な問題を口にし、立派なことを語っていれば、「己の内面の静謐や最上の状態、過去をも含めて一般に対象との生き生きした関係、そしてそれと不可分離の関係にある技法の問題などは等閑に付しても構わない」という態度が蔓延していた。

 

 ――我々が作家にまず第一に求めるのは嘘をつくな、自分が本当に考えている事、自分が本当に感じている事を語れ、という事である。

 

 オーウェルと著者が重視する歴史意識、過去とのつながりとはどういうものだろうか。

 ――いかなる時代においても間違っている、愚劣であると判定されるより他はない世界観の持ち主でありながら立派な作品を書いた作家はあまたいる。

 その例としてポーがあげられる。

 ――ところで、気違いが書いたのではないかと思われかねないポーの作品に虚偽の影がまったくさしていないのはなぜか。「なぜならそれらはある枠組の中で真であり、日本の絵のように、独自の世界の規則をまもっているからである」。

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 ◆自然と人為

 現代は情報爆発の時代であり、情報に追われるまま、内発的に摂取できない状態は、外国の影響を浴び、消化することなくそのまま受け入れるしかなかった、明治時代の文明開化のときと重なる。

 エリオットは当時主流であったヒューマニズムを批判し、宗教、特にキリスト教が精神の根幹となる必要を説いた。著者は、このエリオットの主張を用いて現代のマスメディア、情報の氾濫を批判する。

 小林秀雄はリアリズムを超えた作品について次のように書いた。

「実世間を参照しなければ言葉は死ぬであろうが、一方、実世間のあるがままの姿などというものは、箸にも棒にもかからぬものだと知って置くがよい。現実の実相を、小説にどこまで表現できるか、というような言い方が、無反省に濫用されすぎている」。

 彼によれば、井伏鱒二の作品は「原物再現とは凡そ異なったリアリズムを実践している」。

 著者は、情報爆発によって、我々が知識を内面化し智慧として体得する方法を失いかけている、と論じる。

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 ◆文化摩擦

 国家や民族は皆固有の文化を持っており、これは<特殊>と定義することができる。一方、<普遍>的要素を持つとされる世界文化や、国際化に対して、著者は懐疑的である。人間は特殊の中からしか生まれない。はじめから普遍を目指すというのは不可能である。

 西欧の著述家には、キリスト教文明を世界文化とみなす者が多いが、著者はこれに反対する。

 ――「世界文化」は理念なのであり、どのような文化も理念に対しては<特殊>たらざるを得ないからである。……理念としての「世界文化」は実在化、実体化され得ない。理念としての「世界文化」が重要性を持つのは、民族文化が限界を超えて暴走するのを防ぐ基準として、すなわち統制的原理として働く場合である。

 この本は日米間の貿易摩擦の時代に書かれた。著者は内村鑑三を参考に、文化と文化の関わりがどうあるべきかを提案する。

 ――彼が言おうとしているのは、「文化摩擦」を覚悟せよ、という事に他ならない。……最初にあるのは摩擦であり、摩擦が持ち堪えられることを通じて互いに相手の文化の<特殊>の底に<普遍>を感得するようになる。その時はじめて文化の多様性を認め、これを喜び、異なった文化に対する尊敬の念も生じるようになる。

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 照屋佳男はコンラッドの小説についても評論を出しており、昔読んだところおもしろかった。

文学と哲学のあいだ (学際レクチャーシリーズ)

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