うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『アメリカ外交50年』ケナン

 20世紀の前半に外交を指揮した人間はみな優秀だった。しかし、冷戦の時代にまで下ると、アメリカの安全はおびやかされるようになった。アメリカ外交にはある欠陥、国民性的欠陥がみられる。

 ――……他国との関係において、現実的でそして切実な必要となっている成果を達成することよりも、むしろわれわれ自身についての自己満足的イメージを増幅させるために、他の国々に対する政策を形成しようとする相変わらずの傾向である。

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 米西戦争から、本書の書かれた1951年、つまり冷戦のさなかまでの、アメリカ外交の歴史をふりかえる。1898年当時、アメリカ人は「イギリスの海軍とその大陸外交によって庇護されているアメリカの地位を、旧世界の浅ましい争いに干与しないというアメリカの優れた知性と徳性の結果であると誤解していた」。

 アメリカ人は、本国の安定がイギリスおよびヨーロッパの勢力均衡に依存していることを忘れていた。

 米西戦争は、キューバの叛乱に介入する宗主国スペインが、米軍艦「メーン」を撃沈させたことが直接のきっかけとなって勃発した。デューイ提督はフィリピンを占領し、またキューバからスペインを追い出した。この戦争、およびフィリピン占領の理由は、著者によれば「帝国主義的野心のあらわれ」である。また、米国は、この戦争によって、市民ではない単なる被支配者を抱えるというあやまちをおかした。ケナンによれば、米国は市民でない人間の保護責任を担うべきではないし、植民地や被支配者を抱えることは建国理念にも反するのである。

 ジョン・ヘイの門戸開放は、主にイギリスにむけて、中国への経済的関与の機会均等を提唱したものである。著者は通説を否定し、この宣言の効果や意義に疑問を付す。理想主義的な内容だが、実態は、なんら具体的成果をもたらさず、ヘイや他の関係者も幻滅し、強制力もなく、また米国自身が後にこの政策を捨てた。

 東洋、とくに日本との外交については、次のように批判する。自身の与える勧告や主張が、他国にどのような影響を与えるのかを、米国が理解していたかどうかは疑わしい。満州の特殊権益が、日本にとって深刻な問題であることを、米国は認識していなかった。また、日本から満州を奪うことが、日本にどのような結果をもたらすかについても無責任だった。にもかかわらず米国は強硬に、満州からの日本排除を推し進め、これが日本の感情を傷つけることになった。

 第一次大戦の被害は甚大で、いかなる政治的取引もこのコストを取り返すことができなかった。アメリカはヨーロッパの対立、事情を軽視し、単なる嫉妬心と敵愾心によるものと断定した。アメリカの経済的発展は、欧州の勢力均衡とイギリスの海軍力に支えられていたのだが、アメリカ国民の多くは、このことに気がつかなかった。そのため、参戦の際にイギリスの援助ではなく、理想主義的な「反民主主義の根絶」を掲げねばならず、早期休戦への道を閉ざしてしまった。

 第一次大戦から、われわれは、苦難が人びとをよくするわけではないこと、世論が道を誤ること、単純な愛国主義の前に複雑穏健な声は屈服させられること、を学ばなければならない。

 第二次大戦の起源は戦間期の政治家よりももっと古いところにある。著者によれば、第二次大戦は第一次大戦からくるほぼ必然の結果である。この大戦におけるアメリカの戦争目的はあいまいである。「自由と民主主義の擁護」は、ソ連の加入によって雲散霧消した。

 ――……民主主義国の戦争努力は、利害得失よりも本質的に懲罰を加えるという調子を帯びるのである。……われわれが実力を行使する場合、感情的なまた合理的限界を見出し難いような目的より、合理的なまた限定された目的のためにこれを用いるほうが困難であるという事情をよく説明しているからである。

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 「世論というものは、容易に感情主義と主観主義の弊に堕し得るのであり、それゆえに、これを国家的行動の指針とするには、あまりに貧弱かつ不十分なものなのである」。

 外交を担うべきなのは、訓練された専門家である。

 また、アメリカ外交の最大の過誤は、「いわゆる国際問題に対する法律家的・道徳家的アプローチ」である。

 国家間を法の下の秩序に置くことができるという考えは、合衆国が連邦制によって諸州間の闘争を無害な程度まで抑えることができた歴史から発している。法律家的アプローチは、諸国がみなはっきりした国境をもっており、自立しており、国民も不満を抱いていない場合にはじめて成立する。

 さらに、法律家的アプローチは必然的に道徳家的アプローチにつながる。法律に違反した国に対して、われわれは懲罰をおこなう。

 しかし、現実的、限定的な目的とは異なるこの「懲罰」は、全面戦争や完全勝利、総力戦といった危険な戦争形態へとわれわれを導くものである。この傾向は第一次大戦ではじめて出現した。

 国家間関係に善悪の観念を持ち込むことの危険を知り、「宥和」の重要性を再認識する必要がある。

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 本書は50年代初頭に書かれたため、対ソ外交、つまり冷戦について一部が割かれている。ソ連との外交において常に念頭に置いておくべきなのは、硬直した体制であるソ連にたいして、彼らが自ら態度や国家目的を軟化させることは期待すべきでない、という点である。

 同時に、アメリカの自由主義・民主主義が政治体制を評価する絶対の基準でないことも理解しなければならない。ド・トクヴィルが指摘するように、政治体制はその国の歴史と社会構造に深く依存している。

 ケナンが何度も繰り返すのはアメリカ人の「国民的なナルシシズム――集団的自己讃美」である。

 対日政策については、否定的な見解を示している。

 ――日本をアジア大陸で占めていた地位から排除しようとしながら、もしわれわれがそれに成功した場合そこに生ずる空白を埋めるものは、われわれが排除した日本よりもさらに好みに合わない権力形態であるかもしれないという大きな可能性について、われわれはなんら考慮しなかったのだと私には思われた。そしてこれは実際に起こったことなのである。

 核兵器を主武装とした軍拡はあきらかな失敗であり、財政赤字軍需産業集団の出現の原因である。

 海外の共産主義政権の成立が、「アメリカ政権の怠慢」の結果である、というような錯覚を、アメリカ国民はマッカーシズム以来抱いてしまった。

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 最後は外交と関係のない、大衆文化への苦言も出てくる。

 「……テレビ・メディアが知性を衰退させ、矮小化し、冒涜するような番組をあまりにしばしば撒き散らしている今日の状況を改善し、テレビ・メディアを国民の知的精神的向上に役立てるようにする能力があることを証明しようではないか」。

 

アメリカ外交50年 (岩波現代文庫)

アメリカ外交50年 (岩波現代文庫)