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the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『Forging Stalin's Army』Sally W. Stoecker

 赤軍の近代化と革新について説明する本。年代としては1928年から1933年にかけてが該当する。
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 1 導入:赤軍改革
 これまでの定説や先行研究を批判しつつ、新出の要素を述べる。
 赤軍は1918年、レフ・トロツキーによって創設された。以来、スターリン体制下において、トハチェフスキーのような独創的な指導者の力によって変化と近代化を続けてきた。
 この本は工業化初期(1928年から1933年)における赤軍の政策的、技術的革新及び武器の革新を題材とする。
 スターリン全体主義の文脈で論じられることが多いが、本書が対象とする時期においては、スターリンの権限も完全ではなく、軍隊においては軍隊の自治が働いていた。また、五か年計画は当初軍事よりも民生と産業を優先させるものだった。軍事優先の政策が進められるのは満州事変によりソ連本土への危機が具体化してからのことである。
 著者は赤軍において革新が生まれた要因を、自由な研究と意見表明を尊重する雰囲気だとする。こうした環境の醸成によって、ドイツにおいてはゼークトが、赤軍においてはトハチェフスキーが、軍隊を革新と改革へ導いた。やがてスターリンによる検閲が強まると環境は変質していった。
 軍隊は保守的な官僚組織であるとして、革新とは相容れないという意見もあるがそれは一面的である。赤軍帝政ロシアの軍隊と訣別し、また第1次大戦の敗北から立ち直るため、積極的に新しい施策を試みた。
 第1次大戦の教訓は戦争準備容量の不足だった。スターリンは以後軍需産業の拡大に努めた。
 文民の介入、すなわち政治委員や党の軍への介入にはプラスとマイナスの両面がある。

 

 2 政治と軍事の優先度:予算獲得の道
 あらゆる官僚組織は自らの予算を最大化しようとするが赤軍も例外ではない。トハチェフスキーやヴォロシーロフは予算獲得のために奮闘した。
 五か年計画において軍事への投資はほぼ最下位の優先度に過ぎなかった。スターリンやその他セクターの意見は産業及び農業の重視に偏っていた。このため軍人は戦争の危機や軍備の必要性を訴えた。
 1927年、1928年になり、スターリンは政敵攻撃の道具として戦争の危機と軍備増強を唱え始める。また、その後の英国との関係悪化、1931年の満州事変により、党の方針は軍備増強に傾いた。それまでは、軍人たちによる必死の予算獲得活動が行われていた。


 3 極東の脅威
 1929年、中国国境鉄道をめぐる国民党との紛争(中ソ紛争)、そして1931年関東軍による満州事変を経て、国境への軍備はスターリン及び党の政策の中でも最重要の課題の1つとなった。


 4 独ソ秘密協力
 ドイツとソ連はヨーロッパの「はずれ者」としてお互いに秘密軍事協定を結び、開発と生産、交換留学等を行った。この影響は決して小さなものではない。
 赤軍将校はドイツ軍の学校に留学し軍事学を学んだ。またソ連領内に飛行機学校、戦車学校、化学学校がつくられ、ドイツ軍がやってきて実験や訓練、開発を行った。ソ連の技士や機械工たちは新しいタイプの兵器に触れる機会ができ、またドイツ軍は自国でできない検証を行った。
 空軍戦略ははじめソ連独自のものが主流だったが、あくまで陸上攻撃を補助する意味合いが強かった。ドイツ軍との交流により、やがてドゥーエの提唱する独立空軍戦略が優勢となった。


 5 海外モデルの調達と適用:戦車の発展の場合
 スターリン時代の研究開発を、戦車の開発過程を例に分析する。赤軍は英国と米国から戦車またはその部品を購入したが、最終的に模倣をやめて独自の設計によって製造を行った。
 しかし、西洋諸国の戦車を購入し研究する以前に、ソ連独自の戦車開発が進められていことはあまり知られていない。
 赤軍はドイツとの協力、英米からの調達を通じて、研究開発を効率的に進めた。


 6 トハチェフスキー将軍
 軍の革新を主導した人物として、米海軍原潜の父リコーヴァ―と比較する。リコーヴァ―は原潜計画を強行して推し進めた人物である。
 トハチェフスキーは帝国軍人から赤軍に移り内戦で活躍した後、軍の近代化と機械化を指導した。かれは自分の目的を党のイデオロギーに上手く合致させる政治的能力に秀でており、また自分の敵を批判する際にもイデオロギーを武器として利用した。はじめ再軍備を主張しスターリンの反感を買ったが、満州事変後はスターリントハチェフスキーの正しさを認めた。
 かれもリコーヴァ―も意志の強い人物であり、組織の馴れ合いや現実をはねつけたためよく人に疎まれた。このため、両者とも度々出世コースから外された。
 トハチェフスキーの手腕が最も発揮されたのは参謀本部時代ではなく、装備の開発部署の長についたときである。


 7 エジョフシチナと革新の終わり
 1937年、トハチェフスキーは逮捕され、その後拷問と自白を経て銃殺される。トハチェフスキー失脚の原因は解明されていないが、次の理由が推定される。
(1)出張時にドイツ軍人やフランス軍人と会ったことをNKVDが監視しており、体制転覆計画の疑いを招いた。
(2)トハチェフスキーはドイツによる侵攻の危機をさかんに唱えていた。このためドイツ諜報機関が工作を行いトハチェフスキーのスパイ容疑をでっちあげた。
(3)スターリントハチェフスキーは内戦時、ワルシャワの戦いにおいて関わりがあった。トハチェフスキースターリンの指揮を批判し、これをレーニンも認めた。スターリンはこのことを覚えており、トハチェフスキーを抹殺する必要を感じた。
 大粛清はソ連将校を大量に消し去ったため、独ソ戦初期の失敗を招いた。のみならず、トハチェフスキーを粛清したことによりソ連の技術革新の潮流は完全に停止した。


 8 結論
 赤軍トハチェフスキーらの指導により近代化し、その影響は冷戦を通じて残った。また、ヴォロシーロフについてはスターリンの単なる走狗ではなく独立の思考を持っていたと評価する。

 

Forging Stalin's Army: Marshal Tukhachevsky And The Politics Of Military Innovation

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