うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『野中広務 差別と権力』魚住昭 ――ある政治の現実

 ◆メモ

 著者によれば野中は弱者に対する気遣いを持った政治家だという。

 しかし、政治家としての業務の上では、賄賂や買収、新聞記者への食事振る舞いによる世論統制などを行っている。

 こうした汚い行為が政治の現実であり、今も昔も変わっていないという事実は非常に残念である。

 本書における政治家たちの視野に映っているのは身内や土建業者、創価学会である。政治家の半生をたどった本のなかに、名もない国民の姿はほとんど登場しない。わたしのような、業者でも団体の長でもない国民など、代議士は眼中にない。

 

 政治家が我々の方向を向かず、逆撫でするような言動ばかりとっているというのは、我々がまず国民として認識されていないからだろう。

 弱者であろうと何であろうと、統治者に認識されないうちは、存在しないのと同じである。

 

 

  ***

 1

 野中広務京都府南丹市(旧園部町)の大村という被差別部落の出身である。

 この部落民泉州岸和田市周辺)の小出家が移転とともに連れてきた皮革職人たちだったとされる。

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 2

 野中広務が生まれた1925年当時は、内務省主導の「宥和運動」と、それに対抗し被差別民自身の糾弾行動を進める水平社運動とに分裂していた。

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 野中の家は小作農ばかりの部落では数少ない自作農で、長男である広務のために両親はかれを幼稚園や旧制中学に通わせた。

 当時、行政予算による生活環境改善を中心とした宥和運動と、水平社の糾弾闘争により、表立った差別・暴力は減っていた。しかし、広務らに対する差別意識は根強く残っていた。

 広務の両親は、部落差別と、被差別民側の身勝手や狡猾を通観し、正直・公正の大切さを認識していた。

 

 

 3

 当時は同和教育がなかったため、野中は自身の出自を同級生の陰口で知った。他にも台湾人、朝鮮人などが「たーやん、ちょーやん」と呼ばれていた。

 野中は中学卒業後、大阪鉄道局のに就職し、職員の不正を監視する審査課となった。このときの局長は佐藤栄作だったという。

 

 1945年1月、赤紙が届き召集された。

 

 ――この国のために、天皇陛下のために死ぬんが、われわれの人生の一番の誇りだと教育されてきたし、またそう思ってきたんですよ。そういう恐ろしい軍国主義の流れの中でわれわれよりもっと若い特攻隊の皆さんやら、多くの優秀な人材が亡くなった。だからいまだに再び戦争に巻き込まれるようなことだけは命がけで止めなきゃいけないという気持ちが強いんです。

 

 戦後、有能だった野中は急速に昇進したが、それをねたんだ後輩に部落出身であることをばらされ、噂を広められた。野中は鉄道局を退職し京都に帰った。

 

 

 4

 1950年、野中広務園部町議となった。

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 それまでは地元出身の代議士田中好(自由党・旧士族)の秘書を務め、同時に運送会社で働き生計を立てていた。

 当時、園部町議たちは予算を宴会に使い込んでいたため、野中はこれを糾弾する運動を開始し、町長・議長を辞任させた。

 その後、支持を得て議長となり、続いて町長となった。

 

 

 5

 野中は町長として赤字財政を解消するなど功績を挙げた。また、園部町への予算執行を早めるため、当時蔵相の田中角栄に取り入った。

 新潟の寒村出身の田中と、被差別部落出身の野中は通じ合うものがあった。

 

 一方、野中は知人の建設会社社長を使って町議や中央の役人を買収し、見返りに仕事を与えた。

 また、新聞記者を集めて食事を振る舞い世論を味方につけた。

 

 

 6

 京都府知事選では、田中角栄の指令の元、野中(府町村会理事)、京都新聞が共産系蜷川知事に対する攻撃キャンペーンを行った(結果は失敗し蜷川が当選した)。見返りに京都新聞はテレビ電波をもらった。

 また、共産系の部落解放同盟と内紛を起こし、かれらを監禁し反省文を書かせた。

 これを共産党系の府に持っていき暴れることで、見返りに土木工事発注を増加させた。

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 7

 園部町長を2期務めたあと、府議を目指し立候補した。友人の土建会社社長は戸別訪問(違法)や接待に2000万以上費やした。

 演説はうまかったが、非部落での演説では、部落解放同盟を批判し喝さいを浴びる等して支持を集めた。

 

 府議に当選した野中は自民党に戻り蜷川知事に対して闘争を始めた。

 

・共産系蜷川知事との戦い

共産党系土建業者と解放同盟系土建業者との対立

 

 ――……野中が行政に求める同和対策事業は部落民と周辺住民の「融和」をはかるもので、部落民だけを特別扱いする事業ではない。そんなことをすれば、部落民は周辺住民の妬みの対象となり、地下に潜っていた差別意識が一気に噴き出してくるというのである。

 

 

 8

 1978年、府知事選で自民党は林田候補を立て勝利した。野中は副知事となり、府庁から共産党系勢力を追い出した。

 その後、衆院選に立候補し、谷垣禎一と闘い2位当選した。

 

 

 9

 田中角栄は影から派閥を操り、自分も再び総理になろうとたくらんでいたが、腹心の竹下に裏切られ飲んだくれとなり脳梗塞になった。竹下は新しい派閥を作り、金丸信小沢一郎、野中もこれに加わった。

 

 野中は土建業者に便宜を図ることで集票マシンを作り上げた。京都の土建業者は野中事務所の情報を頼りに公共工事を落札し、見返りに見舞金を届けた。

 

 日朝国交正常化が議題に上がると、副知事時代に在日朝鮮人の陳情(畜産悪臭問題等)を受け付けていた野中は金丸の参謀となり、訪朝議員団の1人となった。

 

 

 10

 NHK幹部の多くは政治家と深くつながっており政争にも関与している。またNHK国会対策スタッフは次のように説明される。

 

 ――日ごろから自民党郵政族接触して外遊の世話や、子弟の就職のあっせんをしたりして親密な関係を築き、NHK予算の承認や受信料値上げの際などに根回しに動くのが彼らの役目である。

 

 

 逓信委員会に所属していた野中は、当時のNHK会長島に目を付け、かれの虚偽答弁を暴き辞任させた。その後野中はNHKを掌握し、また郵政族をコントロールするようになった。

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 11、12、13

 野中は細川内閣をつぶすために、細川をはじめとした閣僚のスキャンダル情報を収集し国会・マスメディアで追及した。

 この内閣は実質、小沢一郎がコントロールしていた。

 

 その後、村山内閣の成立に奔走した。

 自社さ政権である村山内閣は、社会党が従来の綱領を変えて日米同盟維持、自衛隊容認を打ち出すなど、社会党議員にとっては厳しい選択を迫るものだった。

 野中は村山と意気投合し、自治相としてかれを補佐した。

 

 社会党的な政策……村山談話水俣病補償、大震災被災者補償など、自民党がやりたがらない政策では、野中が調整役を務めた。

 

 ――京都時代から野中は保守・革新という政治的区分のはざまで生きてきた政治家である。いや、戦時中の体験に基づいた反戦平和主義や、社会的弱者への目配りでは社会党議員よりも社会党らしい政治家といっていい。かれが同年代の村山富市と意気投合したのも当然のことだったろう。

 

 

 同時に、かれが身に着けた政治家のノウハウとは、スキャンダル攻撃や買収、利益供与、メディア統制である。

 

 続いて、小渕派に所属していた野中は橋本龍太郎の総裁擁立に動いた。そのためにはハト派で評判の悪い河野洋平を追い落とす必要があった。

 野中は創価学会山口組後藤忠政とのつながりを見つけ出し、以後創価学会とのパイプを築いていった。

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 14

 野中、亀井は当時、反創価学会の急先鋒だった。

 創価学会は70年代以降、闇社会とのトラブル解決のため後藤組と関係を持つようになった(仲介は当時の警視総監)。

 

 野中は後藤忠政と藤井都議(池田大作の腹心)が密会したビデオや、創価学会の隠し資産等を調べ上げ、公明を自民に取り込むことに成功した。

 

 

 15

 橋本内閣に続く小渕内閣では、野中が官房長官を務めた。小沢一郎公明党と交渉し自自公連立となり、重要法案が次々に通過した。

 

 普天間問題では創価学会に指示を出し移転賛成派を勝たせた。

 

 ――……野中さんは今日言ったことと明日やることが極端に違う。たたき上げだからそこまでしないと実力者になれないのか。そうまでして自分の立場を強化しなければならないのか。やはり日本の政治はそんな形でしか成り立たないんだろうかと愛想が尽きるような気がしました。

 

 

 16

 

 ――1945年の敗戦以来、この国の外交・安全保障政策の大枠は米国政府によってきめられている。その枠内で個々の政策を打ち出していく権能の大半は事実上、霞が関の官僚集団が握っているから、政治の主導権が発揮されるケースはきわめて少ない。自民党の一党支配が崩壊した後、政権がめまぐるしく交代しても国家の方向性に大きな変化が見られないのはそのためだ。

 

 野中は空気を読み調整する能力はあったが大きな構想は持っていなかった。そのためかれの政策には、差別に対する信念を除いて、一貫性がない。

 同和問題については、利権や不正の温床となる優遇措置を厳しく批判し、部落が自立できるような政策を目指した。

 

 森内閣の支持率低迷に伴い加藤の乱が発生したが、野中はこれを鎮圧した。そのため国民の不満が蓄積し、後に小泉フィーバーにつながった。

 総裁選では野中は立候補を固辞したが、これは政治家たちの間に残る差別意識を懸念してのことではないかと著者は考えている。

 小泉が首相になってから野中の影響力は低下した。

 

 

 エピローグ

 差別発言をした麻生を、野中が公の場で糾弾した話。

総務大臣に予定されておる麻生政調会長。あなたは大勇会[* 3] の会合で『野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ』とおっしゃった。そのことを、私は大勇会の三人のメンバーに確認しました。君のような人間がわが党の政策をやり、これから大臣ポストについていく。こんなことで人権啓発なんかできようはずがないんだ。私は絶対に許さん!」

野中の激しい言葉に総務会の空気は凍りついた。麻生は何も答えず、顔を真っ赤にしてうつむいたままだった。

 

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