うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『ふしぎな部落問題』角岡伸彦

 『はじめての部落問題』の著者による続編。

 部落問題の矛盾点や、メディアによる偏見や誤情報の拡散、近年の新しい事象(ネットでの情報氾濫など)にも触れている。

 同時に部落解放運動の新しい形も紹介しており、現状を知る助けとなる。

  ***

 

 近年の部落問題は、部落解放運動が抱える矛盾から生まれている。

 部落解放運動は、部落民部落民であることを前提にした運動だった。例えば障害者差別反対運動であっても、障害者を健常者にすることが目的ではなく、障害者であることを前提にかれらに対する差別を撤廃することが目的である。

 

 ――部落解放運動は、部落民としての解放を志向しながら、「どこ」と「だれ」を暴く差別に対して抗議運動を続けてきた。……部落民としての解放を目指しながら、部落民からの解放の道を歩まざるを得なかった。

 

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 1 歴史

 部落民の特殊性は、身体的・民族的差異がなく、差別の歴史によってのみ存在する点にある。

 1871年の賤民廃止令以後も、差別意識は強く残り、またかれらを指す言葉も残った……新民、新平民、特殊部落など。

 賤民廃止に反対して西日本の農村では一揆がおこった。岡山では農民が特殊部落を襲撃し18人を殺害し焼き討ちする事件があった。

 1922年、全国水平社が設立された(同年、日本共産党も創設された)。水平社の理念は自らの出自を明確にし、「えた」であることに誇りを持ち、集団で対抗するというものだった。

 その実際の闘争とは、差別語を発した人間のもとに集団で押しかけ謝罪状を要求するというもので、各地で騒乱に発展した。

 戦後は部落解放同盟として再編成された。

 国の同和行政は、住宅事情、インフラや教育の立ち遅れた被差別部落を公共事業によって改善するものであり、2002年までにのべ15兆円が投入された。

 同和行政は、同和地区、被差別部落を公式に認定したため(拒否した部落もあった)、後に問題を残すことになった。

 この時期、学校では生徒が部落民宣言を行い、身近な存在として向きあうという教育方針がとられた(この方針は90年代に廃止された)。

 著者は、インターネットの勃興により、戦前(内務省)や戦後の政府調査資料が掘り返され、部落地名総監が出回っている現状を嘆く。

 部落民であることを本人が誇るのはいいが、それを第三者が暴き立てるのには問題がある。

 現在でも差別は残っており、インターネットは誤解や偏見の温床となっていると指摘する。

 

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 2 メディアと出自

 橋下徹の出自をめぐり、ライターや記者がこぞって偏見と事実誤認に満ちた記事を掲載した事件について。

 2012年、『週刊朝日』誌上に掲載された佐野眞一の「ハシシタ・奴の本性」は被差別部落に対する偏見に満ちており、会社役員が辞職する筆禍事件となった。

 佐野は、ある人物・犯罪者の人格や行為が、家系や血統からくるものだと考える傾向を持っていた。

 橋下徹は父親が被差別部落出身であるために出自に関して共産党系ライターの一ノ宮氏に様々な記事を書かれ(本人は東京出身だが八尾出身と誤認された)、また同和行政をめぐって共産党および解放同盟自体からも批判を受けた。

 実際は、橋下が同和地区に住んだことはなく、また暴力団員の父親とはほとんど一緒に暮らしたことがない。

 事実誤認の記事は、その後森功氏、上原善広氏が検証せずに引用した。

 上原氏は著者と対談したときに間違いを指摘され激怒し、対談掲載を拒否したという。

 

 ――出自や血脈は所与のもので、変更することはできないのだから、それをあしざまに書くのは、陰湿ないじめである。

 

 取材対象の出自に触れることは重要だが、その取材や推論が杜撰であれば非難は免れない。また、出自を暴くことは本人やその親族に悪影響を及ぼすことが必ずある。

 部落民であることを否定的な血脈として捉えるのは当人たちも同様である。

 

 ――しかし私は橋下氏に問いたい。では、日本で最も血脈主義が貫徹されている天皇制はどうなんですか? と。私が言いたいのは、日本社会では、よくも悪くも血脈が大きな意味を持ち、だからこそ天皇制と部落差別が残ったのではないか、ということである。

 ――意識するしないにかかわらず、私たちは血縁信仰の中で生きているのである。

 

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 3 映画「にくのひと」をめぐる問題

 加古川市の食肉センターを舞台にしたドキュメンタリーは、解放同盟の一部の反対により上映中止となった。

 かれらの反対理由は、賤称語の使用や住所の明示だった。

 本来、水平社は、部落民であることを宣言し差別と闘うという理念のもと結成されたが、一部の解放同盟職員は、こうした明示に反対していた。

 差別からの解放を訴える一方で、出自を隠そうとする動きもある。

 

 ――けっきょくは、部落であることを知られたくない、屠畜場の存在を隠しておきたいというコンプレックスが、上映阻止の動機ではないのか――。

 

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 4 被差別部落の未来

 1部 勃興期

 大阪府箕面市北芝地区における同和対策事業をたどる。同体事業を進めるためには各地域の受け皿組織が必要であるため、地元有力者や自治会役員が組織のトップについた。

 この組織トップがあまり熱心でなかったり、「寝た子を起こすな」主義者である場合、事業に支障が出ることがあった。

 奨学金説明会で部落民であることを知らされた高校生の話。

 

 ――はあ? と思って。ぼくはそれまで部落民と障害者と朝鮮人は嫌いやったんです。差別する側、差別者だったんです。

 

 当初差別に無関心だった部落民が、差別に直面し問題に向き合うようになる例をあげる。

 当時、同和対策事業により住宅・道路などが改善され、また多数の部落民が市職員になった。このため周辺住民からの妬みの対象となった。

 行政にすべてを依存する問題は解放同盟においても取り上げられた。子供の学力は低く、高校・社会人になってすぐにつまづく例が多くなった。

 

 ――部落解放運動をやってたら公務員になれるって、そんなんでほんまにええんかな、ちょっと違ううんちゃうかって、80年代後半くらいに思い始めました。

 

 ――解放運動がさほどの努力を必要とせず、安定した公務員に就ける道をつけたとすれば、自立を促すどころか行政依存を深めただけではないか――。

 

 以後、井上氏らによる、行政に頼らない同体事業の紹介が続く。

 

 2部 転換期

 差別をなくし部落を残すという方針のもと、北芝地区では、若者や他県出身者などを巻き込んだ町おこしが行われている。

  ***

 

 ――部落差別は、なくさなければならない。しかし、その営為は、必ず部落を残すことを伴う。要はどんな部落を残すかが重要であろう。

 

ふしぎな部落問題 (ちくま新書)

ふしぎな部落問題 (ちくま新書)

 

 

 

 

『社会変動の中の福祉国家』富永健一

 本書の主張……

福祉国家の新しい定義は、解体しつつある家族を国家が支える制度、というものである。

・かつて福祉の中心的な担い手であった家族も地域社会も、それができなくなったため国家が引き受けなければならなくなった。

 本書の焦点は、高齢化=介護の不足をどう解決するかにある。

 

 ◆感想

 家族の機能縮小の1要因である女性の社会進出を停止した場合どうなるのか。

ナチスドイツのように、女性を家に待機させておくことは全体の経済活動の低下に結びつく。

・性別によって差別されないとする憲法理念に反する。

 また、人口に占める高齢者の割合を減らすにはどうすればいいのか。これも現実的な選択肢は限られてくる。

 

  ***
 1

 福祉国家概念は近代産業社会を基盤として戦後成立した概念である。

 近代産業社会は次の要素からなる。

 

・家族……愛情、育児、介護機能

・組織……官庁、企業、病院、学校

・市場……消費、労働、金融

・地域社会

国民国家

・社会階層……階級、身分は、不平等の構造化、結果である。

 

 著者は、こうした要素は相互に交流しているが、福祉の担い手となる核は家族と国家であると考える。

 

 2

 政府により策定されたゴールド・プラン、新ゴールド・プラン、介護保険は、これまで家族が担ってきた高齢者介護が、もはや成り立たなくなったことを国が認めた点で革新的だった。

 福祉国家とは、医療・年金・福祉という社会保障制度を通して、国家が家族の中に入っていく制度である。

 核家族化が進むにつれて、親世代をその子供が扶養することは当然ではなくなった。その理由は次の3つである。

 

・高齢者の増加

核家族、単身世帯の増加

・女性の就労増加

 

 社会学者や、保守派のなかには、日本はイエ制度を持つ特殊な国であり、家制度により社会保障は解決できると主張する者もいるが、それは誤りである。

 近代産業社会の発展に伴い……子供の数は少なく、高齢者の数は多く、その寿命は長く、家族は小さく、単身者は多く、専業主婦は少なく、女性の発言力は大きくなった。

 家族の機能縮小……「家族の失敗」により、国家が福祉の範囲を増大させた。

 では、新保守主義にみられる「小さな政府」志向は、どう評価すればいいのか。

 

 ――……介護サービスを市場メカニズムにゆだねることは、ごく少数の高所得家族を除いて、一般の人びとの介護サービスへのアクセスを不可能にする。医療サービスや年金サービスにおけると同様、介護サービスに国家・自治体が乗り出さざるを得なくなった理由は、ここにある。これが、介護の分野に社会保険が登場するにいたった事情である。

 

 3

 福祉国家形成の歴史……独、英、米

 ドイツ:史上初の福祉国家政策を実行した国であり、ビスマルクは、労働者がマルクス主義に吸収されるのを防ぐため、各種保険制度を整備した。

 戦後の西ドイツは、アルマックが「社会的市場経済」を唱え、社会的に制御された市場経済の中に福祉を位置づけた。

 イギリス:1911ロイド・ジョージの時代に国民保険法を成立させ、戦後、ケインズ経済学を基盤として福祉制度が整備された。これは「ケインズ―べヴァリッジ主義的福祉国家」と呼ばれる。

 マーシャルはシチズンシップを市民権(市民としての権利と自由)、政治権(政治参加の権利)、社会権(最低限の所得保障の権利)とに分けた。

 社会権を達成するための政策(社会保障、保健医療、住居教育等)が、社会政策である。

 アメリカ:個人責任主義が根強く、福祉国家ではない。しかし、研究は行われていた。80年代からは、福祉国家の危機が叫ばれるようになった。

 

 4

 70年代に入り、経済成長の鈍化とスタグフレーションが起こり、ケインズ経済学は影響力を失った。代わって、ハイエクフリードマンらの新自由主義が登場した。

 福祉国家の危機に対し、論者たちはどのように対応したか。

 

・ミュルダール:ノルウェーの経済学者であり、福祉国家思想の提唱者。

・コーポラティズム福祉国家:墺、スウェーデン

エスピン―アンデルセンの研究:福祉国家の型は各国の歴史により異なる。

 リベラル型(アメリカ)、保守主義型(ドイツ、オーストリア、フランス、イタリア)、社会民主主義型(北欧)

 北欧福祉国家の理論家ミュルダールと、エスピン―アンデルセンによる研究について。

 

 5

 日本の産業化は西欧より遅れてやってきたが、福祉については、必ずしも遅れをとったとはいえない。

 戦前には、官民それぞれの健康保険、年金保険、農民の健康保険の制度枠組みが成立していた。

 1961年に国民皆保険、国民皆年金が施行された。

 1973年「福祉元年」、給付額や制度の大幅拡大。

 1982年、石油危機以降のスタグフレーションと不況に対応できず、福祉見直しが始まった。

 日本は、リベラル型、コーポラティズム型、社会民主主義型のいずれにもあてはまらない。著者は、これを主体性や長期的な目標の欠如と考え、日本が各国に影響を受けながら行き当たりばったりの福祉政策を続けてきた結果とみる。

 よって、現状を再認識し、どのような福祉国家制度をつくるか考えなければならないと著者は書く。ここでは、具体的にどのような方策をやれという提案はない。

 ただし、変質した家族形態を補完できるのは(市場や地域社会、自助努力ではなく)国家しかないというのが著者の考えである。

 

 

『元禄時代』児玉幸多 その2

 6 殉死の禁

 家綱の代は、江戸時代には珍しい集団指導体制が敷かれた。保科正之松平信綱らの死後は、酒井忠清が権勢を誇った。

 政治的には安定していたが、火事や災害が絶えなかった。

 

・家綱はあまりものをいわず、老中らの言いなりだったため「さようせい様」といわれた。家綱は病身で、幸若舞平家琵琶などを好んだ。

・家康の時代に殉死が流行したため、幕府は厳しく弾圧した。殉死は美徳ではなくなりやがてすたれた。

 殉死の3種……義腹(純粋に義によって切腹)、論腹(殉死しないととやかくいわれるので切腹)、商腹(殉死しておけば子孫は安泰)

・証人……各大名の人質制度の廃止

・役料……旗本貧困救済策

 

 7 東廻りと西廻り

 幕府は全国から年貢を徴集しなければならない。このため角倉了以は河川を開発し、また河村瑞賢は東廻り航路(東北太平洋から江戸へ)と西廻り航路(東北日本海から江戸へ)を開拓・整備した。

 かれは商才にも長けており明暦の大火後は木曽の山を買い占め材木販売により巨額の富を得た。

 海運の発達により日本は全国規模の経済ネットワークを確立した。

・菱垣廻船と樽廻船

北前船

 

 8 天下の台所、大坂

 

 ――……大坂の中之島・北浜こそ、全国の経済の心臓であった。諸国の産物は多くこの地に集まり、ここの問屋の手を通して、また諸国へ流通した。

 

 大坂城には大番と呼ばれる警備当番があり旗本の最上級職だった。しかし、大番衆は幕府の権力を振りかざし道中で庶民を苦しめたため嫌われていた。

 江戸が武士・幕府権力と結びついた商人の都だったのに対し、大坂はより町民の才覚に基づいていた。このため、経営がつまづけば没落も早かった。

 

 9 犬公方

 1860年、家光の第4子、綱吉が5代将軍となった。将軍は奢侈を禁じ、農民の負担を軽くしようと努めた。

 綱吉は当初、自らを推挙した大老堀田正俊を重用したが、堀田はやがて疎んじられるようになった。正俊の死後(かれは若年寄稲葉正休ともめて刺殺された)、その一門は排除された。

 綱吉は気まぐれかつ偏執的なところがあり、越後のお家騒動(越後騒動)では厳しい処分を科した。他にも、改易などの厳罰を頻発したため、下々はおびえるようになった。

 

 ――これによってみれば、封建専制君主には、偏執狂になりうる条件が存していたとみることもできよう。

 

 老中が城内で力を失い、代わって御側や御側用人が実権を握った。有名な人物は柳沢吉保、牧野成貞である。

 綱吉には3代家光と同様同性愛の傾向があった。

 生類憐みの令は何度か改正され、徐々に厳格、偏執的になっていった。なぜ綱吉がこの法令にこだわったのかにはいくつかの説がある。1つは、綱吉に子ができず、その原因が前世で動物を殺生したため、ととある仏僧(隆光僧正)に言われたからというもの。

 

・頬についた蚊をはたいた小姓が流罪となった。

・病馬を捨てた者、犬を斬った者が流罪

 

 ――犬目付という役人が諸所をまわって歩き、犬を打つとか、邪険にあつかう者があれば、その者をしらべ、そのために所払や牢に入れられる者もでた。

 

・野良犬を世話すると捨てることができないので放置したところ、飢えた犬が江戸を徘徊し人を噛み捨て子を食い殺すようになった。犬を叩くと処分されるので水をかけるようになり、その水を番する者は「犬」と描かれた羽織を着た。

・その後、幕府は税を徴収し江戸内に1000か所を超える犬小屋を建てた。

 

 ――綱吉は死ぬまでこの悪法をやめようとはしなかった。人間は生類のうちに入っていなかったのかもしれない。

 

 ――綱吉が死ぬと、中野その他の犬は分散させられたが、数万頭の犬が追い放たれて、どういうことになったか、はっきりしたことはわからない。犬小屋の管理にあたっていた御徒や小人も用がなくなり、犬医者が失業したことは事実である。

 

 ――見渡せば犬も病馬もなかりけり御徒小人のひまの夕暮

 

 10 湯島の聖堂と貞享暦

 綱吉は学問振興に熱心だった。

 家康の代に藤原惺窩が招聘され、門人林羅山が儒官となる。

 徳川義直による上野孔子堂建設

 1688年、綱吉は孔子堂を神田台に移転、儒学と仏教を切り離し朱子学を興す
 学者……池田光政保科正之徳川光圀大日本史』(朱子学の名分論、水戸学・尊王思想の起源)、前田綱紀(室鳩巣、木下順庵など招く、尊経閣(そんけいかく)文庫本)

朱子学

 武功が用をなさなくなり、学問が出世の近道となった。朱子学は徳川政権の正当性を支えるイデオロギーとなった。

 

 ――朱子学者はことにその立場をとるが、これは、幕府権力が安定を失って崩壊に向かうときに弱点をあらわすようになる。権力の交代や社会の変革を天命として認めるときには、現状を支える力となることができない。

 

 松永尺五……在野の儒家だが、その門下に新井白石、室鳩巣、雨森芳洲

 谷時中の南学……野中兼山、小倉三省、山崎闇斎

 闇斎の門下……浅見絅斎、佐藤直方、三宅尚斎

 闇斎は後に神道に転換し垂加神道を創始した。

陽明学……中江藤樹、熊沢蕃山、

 陽明学は幕府の御用学者からは疎まれた。蕃山は、貨幣経済の抑制と自給自足世界を理想として掲げた。

 

 ――朱子学者のように、帝王となるのは天命と考え、ただそれに従順であるというのではなくて、帝王が徳を積み、仁政を施すことをなすべきであるという主張をするのである。

 

 荻生徂徠(町人無用説)、山鹿素行(『聖教要録』にて朱子学を否定、『中朝事実』での日本第一主義)、伊藤仁斎

・活字は日本語の特性のため普及せず、木版印刷が主流となった。書籍、仏書、儒書、国文学や浮世絵版画の発展を促した。

・碁家……本因坊、井上、安井、林

 碁は天平時代にやってきた。碁家の業務は将軍家の指南、碁士の統制など。

・将棋……室町時代の小将棋が今日の将棋の原型となった。

 大橋宗桂、伊藤宗看、

 詰将棋、盤上心得の出版

 将棋や碁は日本人の娯楽でももっとも息の長いものの1つである。

・貞享暦の採用……安井算哲は日食の予測が外れたのを証拠として当時の宣明暦(せんみょうれき)を廃し授時暦採用を主張したが却下された。

 今度は大統暦が用いられたがこれも反対した。最終的に1685年、算哲の作成した貞享暦が採用となった。

 中国は臣下の国に自らの暦を授けたので、日本が独自の暦を採用することは政治的な意味もあった。

・時間

 1日を日没と日の出で分割し、さらに6分割したため、時間の長さが一定でなかった。

 洋式時計は使えず、日本式時計(昼間用振り子と夜用振り子)を使用した(和時計)。

 老中や若年寄も正確な時刻を計れないので、面倒な方法で登庁時間を調整した。

 

 11 忠臣蔵

 1701年、江戸城内における、浅野内匠頭長矩による、吉良上野介義央への斬りかかり事件が発生した。

 吉良上野介は傲慢さから嫌われており、浅野内匠頭はかれから侮辱されたのだという。

 浅野内匠頭切腹を命じられ、赤穂城は明け渡しとなった。浅野家の再興もないようなので、城代家老大石内蔵助良雄は敵討ちを決心した。

 赤穂浪士たちは12月14日、吉良の屋敷に討ち入りし首を打ち取った。かれらはその後切腹となった。

 

・処分案:

 内匠頭家来は、忠孝は守ったが「徒党を組み、誓約を成す」に違反しているのではないか。

・賛成と反対

 激賞:室鳩巣、浅見けいさい、伊藤東涯など

 反対:荻生徂徠、佐藤直方、太宰春台

 荻生は、長矩は殿中で暴れたため処罰されたのを、家来は吉良を仇として、公儀の許可なく騒動を起こしたので違法である、と主張した。

赤穂浪士事件と『仮名手本忠臣蔵』はまったく別物である。

 

 ――かれらの行動を非難するものの多くは、法を破ったという点に集中する。しかし一般の民衆は法よりも情を重んじた。

 

 ――義士論にしても、義士の行動の善悪は論じるけれども、その処罰については表立って議論はなされないのである。将軍の行為は絶対であり、その判決は動かすことができないものであった。

 

 12 窮乏する財政

・幕府の財政は綱吉の代には極端に悪化した。金銀の算出が減った。

・大名・旗本の困窮が目立つようになった。

・綱吉は諸大名邸への御成り(訪問)を頻繁に行ったため民衆を苦しめた。

・財政無視の寺院造営

勘定奉行荻原重秀による元禄金銀への改鋳

 単に幕府財政の不足分を補うのが目的であり財政難は改善されなかった。

・災害の多発……地震・雷・火事・噴火

 宝永の噴火

 

 13 元禄模様

・元禄の奢侈……着物や小物など

衆道の全盛……若衆や陰間

・女たちの伊達比べ、奢り者

・三井の越後屋呉服店

・大名貸は不良債権になることが多く敬遠された

 

 ――江戸封建制度の大きな矛盾は、この租税制度の欠陥にあって、重圧をかけられた農業部門の発達はいちじるしく抑えられ、都市の消費生活のみが異常な発達をとげて、それが元禄期にもっとも華麗な面を示したといえよう。

 

 14 絵の世界と侘の境地

 俵屋宗達尾形光琳尾形乾山

 浮世絵……菱川師宣、鳥居清信

 戸田茂睡、契沖による和歌の再興

 松尾芭蕉

 

 15 一代男と曽根崎心中

 井原西鶴……『好色一代男』、『世間胸算用

 近松門左衛門……『曽根崎心中』道行

・歌舞伎の変遷……出雲阿国による阿国歌舞伎、若衆歌舞伎、野郎歌舞伎へ

 京都の坂田藤十郎と江戸の市川団十郎

 

日本の歴史〈16〉元禄時代 (中公文庫)

日本の歴史〈16〉元禄時代 (中公文庫)

 

 

『元禄時代』児玉幸多 その1

 中公「日本の歴史」シリーズの1つ。

 江戸成立直後の、野蛮と暴力が残る時代、また江戸の発展や文化について知ることができる。

 

 ◆メモ

 綱吉の評価、柳沢吉保、荻原重秀らの評価は学者によって幅があるようだ。

 度々火災に見舞われる江戸、人の命の軽さ、綱吉の支配、赤穂浪士に熱狂する民衆など、大変興味深い。

 

  ***

 1 由井正雪の乱

 1651年(慶安4年)、3代将軍家光が死に、幼い家綱が跡を継いだ。家光の弟たる保科正之を筆頭に、大老井伊直孝酒井忠勝、老中松平信綱らが合議制により幼将軍を補佐することになった。

 同年、江戸在住の軍学者由井正雪は、槍使い丸橋忠弥、金井半兵衛らとかたらって、江戸に騒乱を起こし、久能山に籠城する反乱計画を立てた。

 密告によって稚拙な計画は暴露し、かれらは自害または処刑になった。首謀者の一族郎党は皆磔や斬罪となった。

 動機ははっきりしないが、当時、改易処分によって増大していた牢人の不満をくんだものであるという疑いが濃厚だった。

 

 ――牢人は失業者とはいえ、身分は武士であり、当時の知識層である。そういうものを大量に作り出すことは、実は社会秩序の上からいえば、はなはだ危険なことであったにもかかわらず、幕府や諸藩では、そのうえに牢人にたいしてきびしい統制を加えてきた。

 

 新井白石由井正雪を、時代が時代であれば漢の高祖になっただろうと高く評価した。

 幕府は牢人への過酷な取締を緩和したが、その後も類似の反乱計画は相次いだ。

 日本におけるクーデタはそのほとんどが未熟な計画に過ぎず、成功したのは大化の改新くらいであるという。

 

 2 明暦の大火

 火事を警戒するお触れや規則について。

 火事の見物禁止、見張り中の転寝(うたたね)はさらし者にするなど。

 1657年(明暦3年)1月18日、大火発生によって多くの住民が江戸湾に飛び込んだが9600人ほどが焼かれるか凍死した。

 

 ――……井水に逃げ込み、溝に逃げいったが、下の者は水に溺れ、中の者はおされ、上の者は焼かれ、ここでも450人が死んだ。

 

 浅草門では人びとが堀に次々と飛び込み屍体の山で溝が埋まった。

 

 ――死者はいたるところに横たわり、京橋あたりは男女死人の山で、橋は焼け落ちたが流れる死人を踏んで渡ることができた。

 

 死者総計10万2000人程度とされる。

 オランダ商館長ワグナールも火事に巻き込まれ避難を強いられた。

 火災の原因……強風、乾燥、牢人やあぶれ者たちによる物取り放火、

 「車長持」という台車に財産を入れて逃げ惑ったため、避難が遅れ、死者が増える一因となった。

 

 その後、防災都市計画に基づいて市街の再編成が行われた。幕府は、道路の拡張、火避け地の造成、瓦葺の禁止、郊外(武蔵野市三鷹市)への町民の開拓移住を命じた。

 

 浅野内匠頭長直は、奉書火消(大名に火消しを命じること)で度々活躍した。浅野内匠頭が出動すると、迅速に火を消し、また自ら火のついた小屋に飛び込んで建物をつぶし延焼をとめたりしたため、英雄のような扱いを受けていた。

 

 ――のちに赤穂義士のでたのも、こういう英傑が主君にいたからであろうという評判であった。

 

 3 旗本奴と町奴

 由井正雪の乱に前後して、幕府はかぶき者の取り締まりを行った。

 かぶき者……びろうどの服、総髪、立髪、大髭、太刀と大脇差

 平行して、町奴や男伊達と称する者も横行していた。

 かぶき者の発生はもっと古く、家康の代に京都をたむろする不良武士たちが徒党を組んだのがおこりである。かれらは町民をからかったり、喧嘩をしかけたりして治安を乱した。

 

 ――かぶき者が横行して善良な市民を苦しめたのは、戦国の余燼がくすぶり、いつまた戦乱になるかもしれないときで、力のはけ口を求める者たちが、落ち着きを取り戻そうとする都市生活に溶け込むことができずに、反抗的な行動をとったのであろう。歴々の武士たちのあいだにさえ殺伐な風潮が残っていた。

 

 織田有楽の親類を殺害したかぶき者と、その棟梁、大鳥居逸兵衛(いつべえ)ら、捕えられたかぶき者たちの逸話について。この事件では300人程が処刑された。

 

 1615年の大坂の陣後も、殺伐とした悪事はおさまらなかった。

 1628年、江戸城下で辻斬りが横行し、1000人斬りに及ぶかとおもわれたので、辻番制度が設けられた。

 特権を持つ武士のなかには放縦と悪事にふけるものも現れた。かれらは容姿の整った小姓や草履取を武装させて従え、また衆道(しゅどう)の対象とした。

 かれらは徒党を組み、抗争を行うことがあった。武士に雇われる若党(わかとう)・中間(ちゅうげん)にも奴があった。

 旗本奴は六法ともいわれたが、6つの暴力団が江戸を跋扈したことが由来とされる。

 

 旗本奴の水野十郎座衛門と町奴の幡随院長兵衛について。

 水野は異様な姿で出座したため不作法のいたりとして切腹を命ぜられた。

 

 ――これはおそらく誇張があろうが、異様の姿であったにはちがいなく、さもなければ急に切腹となり、二歳の子まで殺されることはなかったであろう。

 

 江戸だけでなく上方……大坂や京都にも多くの奴がいたが、かれらは後に芝居の題材となった。

 

 4 江戸八百八町

 江戸は間もなく世界有数の巨大都市となった。外国人の記録によれば、スペインの町よりも清潔で道も整っていたという。

 職種ごとに居住区が分けられていた。

 江戸は城下町であり城塞防衛の役割を担った。武家地は6割、寺社地は2割、町地が2割だった。人口では商工業者が半分を占めた。

 寺社地は寺社奉行、町地は町奉行が支配した。町奉行は南北2人おり、相互に上番した。それぞれ与力25人、同心100人を指揮した。裁判は与力の、警察・捜査は同心の仕事だった。

 同心の巡回……定町廻り(じょうまちまわり)、臨時廻り(りんじまわり、祭りなどイベント警備)、隠密廻り(おんみつまわり、武家や商人に対する諜報活動)

 前科者や手先を使わなければならなかった。かれらは小者、目明し、岡引(おかっぴき)という。

 町奉行の指令を受けて江戸市民に通達するものが町年寄という。その下に町名主がいる。

 

・地主は借主の糞尿を契約して農家に売った。

・自警組織として辻番が設置されたが老人や病人、弱者がおかれたり、勝手に上番中に物を売ったりした。

・江戸時代は税は土地に課された。公役・国役は町人が負担した。

 五人組の承認なしに家を借りることはできなかった。

・奉公人の種類……日雇人足も含まれる。奉公人は主人に逆らうことはできず、刑罰も重かった。

・水道の整備……家康家臣大久保忠行による神田上水、その後つくられた玉川上水

・床屋や商人は厳しい徒弟制の下で働いた。かれらは、20年間ほどは給料ももらえなかったため、結婚できなかった。このため遊び歩くことが当たり前だった。家にこもって出歩かないことは「野暮(家暮)」とされた。

 

 5 夜の世界、新吉原

 門と廓で囲まれた傾城街の成立について。吉原は当初日本橋人形町にあったが、明暦の大火後、浅草に移転した。

 

・遊女の格式……太夫、格子(京都では天神)、端女郎、雑用少女である禿(かぶろ)

揚屋……太夫など高級遊女を呼ぶ店

 新造(しんぞう)……禿から遊女に上がること

 引舟……客の接待等

 鑓手(やりて)……やりてババア

 太鼓持、末社

・吉原で遊ぶには金がかかった。ただ金やステータスを自慢する者は野暮といわれた。金を持っており皆をよろこばせる者は京都では粋(すい)、江戸では通り者(とおりもの)といった。

 「だいじん」……紀伊国屋文左衛門、奈良屋茂座衛門

・その他の傾城町……京都島原、大坂新町、伏見夷町、全国の宿場町など

・暗者女(くらものおんな)、惣嫁(そうか)、私娼(京都では辻君、江戸では夜鷹)

・1635年ころには、幕府に管理されていた吉原の外に、湯屋がつくられた。ここで働く湯女(ゆな)がやがて売春婦となったが、1656年の新吉原移転時にすべて移転させられた。

 しかしその後は茶屋と茶立女(ちゃたておんな)が盛んになったため1668年に吉原に移転し、「散茶女郎」となった。

 

 ――こうして吉原は、唯一の公認の遊郭として、非公認の遊女の発生を抑える努力をしたのであるが、根絶させることは不可能であり、ことに江戸後期には、多くの社寺門前を中心にした岡場所の繁栄をみたのである。

 

・遊女はほとんどが貧しい家から買われた少女であり、それは人身売買(建前上禁止)や奴隷と同等だった。

 

 ――飯盛女が多くいたので知られていた中山道追分宿でも、藪の中や畑の畔に、遊女の墓というのが、「幻泡禅定尼」「芳艶禅定尼」などと、あわれな戒名をつけて、草にかくれて残っている。それでも墓を建ててもらったのは幸いとしなければならないであろう。

[つづく]

 

日本の歴史〈16〉元禄時代 (中公文庫)

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