9 バルカン余談
クロアチア停戦監視やボスニア紛争におけるセルビア勢力空爆作戦(Operation Deliberate Force)は、大中東戦争のなかではよく機能した軍事作戦だった。
空爆は、合衆国主導の停戦交渉の基盤となった。その後の停戦監視は、ソマリアの教訓を生かし、大規模兵力により実施された。反乱や抵抗は起こらず、米軍は一人の死者も出さずに任務を終えた。
・合衆国は退役軍人中心の民間企業を使い、クロアチア軍を訓練させていた。
・ボスニア人はイラン、サウジアラビアから支援を受けていた。またボスニア人、クロアチア人も戦争犯罪や民族浄化に加担はしたものの、圧倒的多数の犯罪はセルビア侵攻軍によって行われた。
10 勝利の意味
著者は退役後、ワシントンの研究センターで国際関係を学んでいたが、そのときの雰囲気は、アメリカが歴史を終わらせる、世界をアメリカルールに従わせることで平和な民主的世界をつくることができる、という思いあがったものだった。
クリントン政権の安全保障補佐官ウェズリー・クラーク将軍は、RMA(Revolution in Military Affairs)の旗手としてもてはやされた。湾岸戦争やボスニア介入は、情報優位による精密・正確な戦力こそ新時代の軍隊であるという、RMAの価値観を体現するものだった。
軍事介入は、安全な外科手術のように、外交的選択肢の1つとして利用できる、という考えが支配的となった。
ボスニア紛争終結後、コソヴォにセルビア人難民が押し寄せると、多数を占めるアルバニア人の一部が武力による独立を主張した。コソヴォ解放軍(KLA)はセルビア人に対し暴力をふるうことで追い出しを計った。
このときもまたミロシェヴィッチが国際世論を敵に回したため、セルビアへの制裁が行われた。
合衆国主導の対セルビア(ユーゴスラヴィア)懲罰作戦は、失敗の連続だった。ユーゴ軍の偽装のために空爆は効果を発揮せず、かえってアルバニア人への民族浄化を激化させた。
クラーク将軍の現代戦略は頓挫し、米軍機の撃墜や誤爆が相次いだ。
ボスニアとコソヴォにおける紛争は、多文化主義が普遍的な価値を持つという幻想を消し去った。
米軍の軍事介入は、停戦の他に何をもたらしたかといえば、過激化した若者の大中東戦争への流入である。
11 まやかし戦争
クリントン政権時代、アルカイダを含む過激派の対アメリカテロ活動が激化した。
ビン・ラディンの根本的な動機は、米軍が聖地アラビア半島に駐留を続け、腐敗したサウジ王族を支援していることだった。
世界各地でアメリカの施設や米軍に対してテロが行われ、クリントンはイスラム過激派に対する戦争を宣言した。
しかし、テロ組織に対してどのように戦争を行うかは確立されておらず、具体的な行動を伴わなかった。このため、著者はこの「対テロ戦争」を、1939年の英仏による「まやかし戦争phony war」――宣戦布告はすれども何もせず――と類似すると指摘する。
ケニアとタンザニアの米大使館への爆撃、戦艦コールへの自爆テロを受けて、アメリカ政府はビン・ラディン討伐を方針に定めた。
かれらは、組織トップ(ビン・ラディンやザワヒリ)の首を取ればテロの問題が解決すると考えていた。しかし、アメリカの誤った外交軍事政策が、アルカイダのような組織を育てていることには思いが到らなかった。
クリントン政権は、テロとの戦いThe War on Terrorismが十年規模の戦いになると定義した。こうした長期的な計画は大胆な試みだが、結果的にはうまくいかなかった。
***
3部 Main Card
12 生活様式を変える
ブッシュ政権は、従来のカーター・ドクトリンに基づく外交政策――ペルシア湾の安定が、アメリカ的生活の確立に不可欠である――を変質させた。
ブッシュ、チェイニー、ラムズフェルド、ウォルフォウィッツは、アメリカ的価値観によって地球規模でリーダーシップを発揮することを国是と定義した。
こうして、対テロ戦争は地球規模の計画となったが、その具体的な戦略ははっきりしなかった。
9.11の際、容疑者19人のうち15人がサウジアラビア人だった事実は無視された。カーター政権以来、産油国サウジアラビアを保護することが米国の政策だったが、その結果がどうなったかについて検討する者はいなかった。
ラムズフェルドらは迅速な行動を唱えた。新しいテロとの戦争には、一般市民の協力は不要であり、むしろ市民の関与は邪魔ですらあった。
ラムズフェルドは軍事革命の信奉者であり、テロとの戦いにおいて大規模動員は不要とされた。
アフガン侵攻とイラク戦争の指揮官となった中央軍司令官トミー・フランクスTommy Franksについて、著者は、歴代の軍人たち――半神マッカーサー、戦士パットン、穏健なブラッドレー、気さくなアイゼンハワー――を引き合いに出し、ペンタゴンに精通してはいるが対テロ戦争を指揮する能力には欠けていたとする。
10月から始まったアフガン戦争では、空爆、ミサイル攻撃、北部同盟との協力による攻撃が行われ、米軍は速やかに主要都市を制圧した。
この過程で、米軍が支援した北部同盟指揮官アブドゥル・ラシード・ドスタムAbdul Rashid Dostumが捕虜虐殺を行い、米政府はもみ消しに奔走した。
カンダハル制圧に乗り込んだのはジェームズ・マティスJames Mattis准将率いる海兵隊だった。
12月に組織的抵抗が終わると、政府はアフガン戦争の勝利だと勘違いした。
間もなく、潜伏していたタリバンによるゲリラ戦が始まった。
2002年3月のアナコンダ作戦は、タリバンの抵抗力と、米軍の弱点――混乱した指揮系統――を露わにし、またアフガン制圧が完了と程遠いことを明らかにした。
13 ドアをけ破る
大量破壊兵器が存在しないことが明らかになり、政権が開戦理由をイラク民主化にすり替えようとした後、イラク戦争の真の開戦理由について、批判者たちは様々な説を唱えた――石油のため、軍産複合体に金をばらまくため、社会保障費削減のため、イスラエルに対する脅威排除のため、ブッシュが満足を得るため、父ブッシュの雪辱を晴らすため云々。
著者はその理由を否定しないが、次の点を強調する。
・イラク戦争は、脅威への対処ではなく、絶好の機会だった。
・合衆国は予防戦争の有効性を証明しようとした。
・合衆国のみが体制変革を行うことができることを確認した。
・イスラム圏もまた自由民主化の対象であることを示そうとした。
大量破壊兵器の有無や、9.11への関与は些末な問題であり、根本的な目的は、中東の価値観・世界観を変革することだった。
クラーク将軍の暴露が示すように、アメリカはイラクを皮切りに、中東を自由民主化しようとしていた。
戦争指導の準備……ライスCondoleezza Riceが戦争の正当化を進め、チェイニーが反対派を売国奴扱いし、ラムズフェルドが作戦計画を行った。
チェイニーの反対派排除は、ウッドロー・ウィルソンやF.D.ルーズヴェルト、ジョンソンがやってきた手法を踏襲したに過ぎない。
ラムズフェルドは統合参謀本部を意図的に無視し、中央軍司令官フランクスに直接指示を出し、自らが望む計画を作成させた。フランクスは、上司の意図を汲むという点では満点だが、現実的な助言を行うという点では失格であり、これが致命的となった。
ラムズフェルドの戦争案:
・フセイン排除作戦は17万人規模で可能(湾岸戦争(砂漠の嵐作戦)は50万人)
・空爆・陸上兵力の侵攻は同時に行われる
・技術は神であり、大量の兵士は必要ない
世界各国で反対が行われ、国連でも支持を得られなかったが、ブッシュ政権は無視した。ニューヨークタイムズは、米国の一国主義を批判し、「現在の超大国は合衆国と国際世論である」とコメントした。
マックス・ブートなどのネオコン系ジャーナリストはブッシュ政権を援護した。
バグダッド陥落後、市民による略奪が横行し、また現場の部隊はゲリラの抵抗に遭遇した。4月に発生した海兵隊によるデモ市民殺戮事件は、イラク人たちの態度を変えた。合衆国は、アメリカ独立戦争における「レッドコート」(イギリス軍)に、イラク人は占領者を排除しようとする群衆に変貌した。
イラクが泥沼化する前に、フランクスに代わりジョン・アビザイドJohn Abizaidが中央軍司令官となった。実務を担ったのは、反乱鎮圧経験のない中将リカルド・サンチェスRicaldo Sanchezだった。
ラムズフェルドが任命した外交官ポール・ブレマーPaul Bremerは、副王として君臨しようと試み、致命的な指令を出した……バース党員の公職追放、軍隊含む治安機関の解体。
やがて、敵対勢力はフセイン政権の残党やバース党員だけでなく、部族、スンニ派、シーア派、ナショナリスト、外国勢力も含んでいることが判明した。
2004年4月、アブグレイブ収容所での捕虜虐待が明らかになり、イラク解放の大義はほぼ消失した。報道は中東全体に反米感情を植え付けた。
イラク戦争はアメリカの財政を逼迫させ、戦争支持率は急降下した。
ブッシュとビン・ラディンは、お互いに世界変革の夢想(妄想)にとりつかれ失敗した。
[つづく]
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