うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『America's War for the Greater Middle East』Andrew Bacevich その3

 9 バルカン余談

 クロアチア停戦監視やボスニア紛争におけるセルビア勢力空爆作戦(Operation Deliberate Force)は、大中東戦争のなかではよく機能した軍事作戦だった。

 空爆は、合衆国主導の停戦交渉の基盤となった。その後の停戦監視は、ソマリアの教訓を生かし、大規模兵力により実施された。反乱や抵抗は起こらず、米軍は一人の死者も出さずに任務を終えた。

・合衆国は退役軍人中心の民間企業を使い、クロアチア軍を訓練させていた。

ボスニア人はイラン、サウジアラビアから支援を受けていた。またボスニア人、クロアチア人も戦争犯罪民族浄化に加担はしたものの、圧倒的多数の犯罪はセルビア侵攻軍によって行われた。

 

 10 勝利の意味

 著者は退役後、ワシントンの研究センターで国際関係を学んでいたが、そのときの雰囲気は、アメリカが歴史を終わらせる、世界をアメリカルールに従わせることで平和な民主的世界をつくることができる、という思いあがったものだった。

 クリントン政権の安全保障補佐官ウェズリー・クラーク将軍は、RMA(Revolution in Military Affairs)の旗手としてもてはやされた。湾岸戦争ボスニア介入は、情報優位による精密・正確な戦力こそ新時代の軍隊であるという、RMAの価値観を体現するものだった。

 軍事介入は、安全な外科手術のように、外交的選択肢の1つとして利用できる、という考えが支配的となった。

 

 ボスニア紛争終結後、コソヴォセルビア人難民が押し寄せると、多数を占めるアルバニア人の一部が武力による独立を主張した。コソヴォ解放軍(KLA)はセルビア人に対し暴力をふるうことで追い出しを計った。

 このときもまたミロシェヴィッチが国際世論を敵に回したため、セルビアへの制裁が行われた。

 合衆国主導の対セルビアユーゴスラヴィア)懲罰作戦は、失敗の連続だった。ユーゴ軍の偽装のために空爆は効果を発揮せず、かえってアルバニア人への民族浄化を激化させた。

 クラーク将軍の現代戦略は頓挫し、米軍機の撃墜や誤爆が相次いだ。

 ボスニアコソヴォにおける紛争は、多文化主義が普遍的な価値を持つという幻想を消し去った。

 米軍の軍事介入は、停戦の他に何をもたらしたかといえば、過激化した若者の大中東戦争への流入である。

 

 11 まやかし戦争

 クリントン政権時代、アルカイダを含む過激派の対アメリカテロ活動が激化した。

 ビン・ラディンの根本的な動機は、米軍が聖地アラビア半島に駐留を続け、腐敗したサウジ王族を支援していることだった。

 世界各地でアメリカの施設や米軍に対してテロが行われ、クリントンイスラム過激派に対する戦争を宣言した。

 しかし、テロ組織に対してどのように戦争を行うかは確立されておらず、具体的な行動を伴わなかった。このため、著者はこの「対テロ戦争」を、1939年の英仏による「まやかし戦争phony war」――宣戦布告はすれども何もせず――と類似すると指摘する。

 

 ケニアタンザニアの米大使館への爆撃、戦艦コールへの自爆テロを受けて、アメリカ政府はビン・ラディン討伐を方針に定めた。

 かれらは、組織トップ(ビン・ラディンザワヒリ)の首を取ればテロの問題が解決すると考えていた。しかし、アメリカの誤った外交軍事政策が、アルカイダのような組織を育てていることには思いが到らなかった。

 クリントン政権は、テロとの戦いThe War on Terrorismが十年規模の戦いになると定義した。こうした長期的な計画は大胆な試みだが、結果的にはうまくいかなかった。

 

  ***

 3部 Main Card

 12 生活様式を変える

 ブッシュ政権は、従来のカーター・ドクトリンに基づく外交政策――ペルシア湾の安定が、アメリカ的生活の確立に不可欠である――を変質させた。

 ブッシュ、チェイニー、ラムズフェルド、ウォルフォウィッツは、アメリカ的価値観によって地球規模でリーダーシップを発揮することを国是と定義した。

 こうして、対テロ戦争は地球規模の計画となったが、その具体的な戦略ははっきりしなかった。

 

 9.11の際、容疑者19人のうち15人がサウジアラビア人だった事実は無視された。カーター政権以来、産油国サウジアラビアを保護することが米国の政策だったが、その結果がどうなったかについて検討する者はいなかった。

 

 ラムズフェルドらは迅速な行動を唱えた。新しいテロとの戦争には、一般市民の協力は不要であり、むしろ市民の関与は邪魔ですらあった。

 ラムズフェルド軍事革命の信奉者であり、テロとの戦いにおいて大規模動員は不要とされた。

 アフガン侵攻とイラク戦争の指揮官となった中央軍司令官トミー・フランクスTommy Franksについて、著者は、歴代の軍人たち――半神マッカーサー、戦士パットン、穏健なブラッドレー、気さくなアイゼンハワー――を引き合いに出し、ペンタゴンに精通してはいるが対テロ戦争を指揮する能力には欠けていたとする。

 10月から始まったアフガン戦争では、空爆、ミサイル攻撃、北部同盟との協力による攻撃が行われ、米軍は速やかに主要都市を制圧した。

 この過程で、米軍が支援した北部同盟指揮官アブドゥル・ラシード・ドスタムAbdul Rashid Dostumが捕虜虐殺を行い、米政府はもみ消しに奔走した。
 カンダハル制圧に乗り込んだのはジェームズ・マティスJames Mattis准将率いる海兵隊だった。

 12月に組織的抵抗が終わると、政府はアフガン戦争の勝利だと勘違いした。

 間もなく、潜伏していたタリバンによるゲリラ戦が始まった。

 2002年3月のアナコンダ作戦は、タリバンの抵抗力と、米軍の弱点――混乱した指揮系統――を露わにし、またアフガン制圧が完了と程遠いことを明らかにした。

 

 13 ドアをけ破る

 大量破壊兵器が存在しないことが明らかになり、政権が開戦理由をイラク民主化にすり替えようとした後、イラク戦争の真の開戦理由について、批判者たちは様々な説を唱えた――石油のため、軍産複合体に金をばらまくため、社会保障費削減のため、イスラエルに対する脅威排除のため、ブッシュが満足を得るため、父ブッシュの雪辱を晴らすため云々。

 著者はその理由を否定しないが、次の点を強調する。

イラク戦争は、脅威への対処ではなく、絶好の機会だった。

・合衆国は予防戦争の有効性を証明しようとした。

・合衆国のみが体制変革を行うことができることを確認した。

イスラム圏もまた自由民主化の対象であることを示そうとした。

 

 大量破壊兵器の有無や、9.11への関与は些末な問題であり、根本的な目的は、中東の価値観・世界観を変革することだった。

 クラーク将軍の暴露が示すように、アメリカはイラクを皮切りに、中東を自由民主化しようとしていた。

 

 戦争指導の準備……ライスCondoleezza Riceが戦争の正当化を進め、チェイニーが反対派を売国奴扱いし、ラムズフェルドが作戦計画を行った。

 チェイニーの反対派排除は、ウッドロー・ウィルソンやF.D.ルーズヴェルト、ジョンソンがやってきた手法を踏襲したに過ぎない。

 ラムズフェルドは統合参謀本部を意図的に無視し、中央軍司令官フランクスに直接指示を出し、自らが望む計画を作成させた。フランクスは、上司の意図を汲むという点では満点だが、現実的な助言を行うという点では失格であり、これが致命的となった。

 

 ラムズフェルドの戦争案:

フセイン排除作戦は17万人規模で可能(湾岸戦争(砂漠の嵐作戦)は50万人)

空爆・陸上兵力の侵攻は同時に行われる

・技術は神であり、大量の兵士は必要ない

 

 世界各国で反対が行われ、国連でも支持を得られなかったが、ブッシュ政権は無視した。ニューヨークタイムズは、米国の一国主義を批判し、「現在の超大国は合衆国と国際世論である」とコメントした。

 マックス・ブートなどのネオコン系ジャーナリストはブッシュ政権を援護した。

 

 バグダッド陥落後、市民による略奪が横行し、また現場の部隊はゲリラの抵抗に遭遇した。4月に発生した海兵隊によるデモ市民殺戮事件は、イラク人たちの態度を変えた。合衆国は、アメリカ独立戦争における「レッドコート」(イギリス軍)に、イラク人は占領者を排除しようとする群衆に変貌した。

 イラクが泥沼化する前に、フランクスに代わりジョン・アビザイドJohn Abizaidが中央軍司令官となった。実務を担ったのは、反乱鎮圧経験のない中将リカルド・サンチェスRicaldo Sanchezだった。

 ラムズフェルドが任命した外交官ポール・ブレマーPaul Bremerは、副王として君臨しようと試み、致命的な指令を出した……バース党員の公職追放、軍隊含む治安機関の解体。

 やがて、敵対勢力はフセイン政権の残党やバース党員だけでなく、部族、スンニ派シーア派ナショナリスト、外国勢力も含んでいることが判明した。

 2004年4月、アブグレイブ収容所での捕虜虐待が明らかになり、イラク解放の大義はほぼ消失した。報道は中東全体に反米感情を植え付けた。

 

 イラク戦争アメリカの財政を逼迫させ、戦争支持率は急降下した。

 ブッシュとビン・ラディンは、お互いに世界変革の夢想(妄想)にとりつかれ失敗した。

 [つづく]

 

America's War for the Greater Middle East: A Military History (English Edition)

America's War for the Greater Middle East: A Military History (English Edition)

 

 

『America's War for the Greater Middle East』Andrew Bacevich その2

 ◆80年代から90年代にかけて、合衆国は中東の紛争に介入を繰り返した。軍は徐々に深入りし、駐留の負担も増加した。

 

 4 銀幕6番の呼び出し

 レーガンレバノンにおいて米軍の存在感を示すために海兵隊を進駐させたが失敗に終わり、朝鮮戦争以来の敗北を被った。

 以下、レバノン内戦の経緯が説明される。

 

 パレスチナを追放されたPLO(パレスチナ解放機構、当時テロ組織)がレバノン流入し、このためレバノン南部はPLOの支配する国家内国家となった。

 

 イスラエルの首相メナヘム・ベギンMenachem Beginと国防相アリエル・シャロンAriel Sharonは、レバノンに介入し親イスラエル政権を樹立すれば安定を保てると考えた。イスラエル軍は1982年に侵攻を開始し、レバノンを包囲した。

 

 これに激怒したレーガン政権はイスラエルに抗議し、多国籍軍が平和維持のため派遣された。

 米海兵隊は当初気楽な空気に満ちていたが、イスラエルおよびマロン派の支持するファランヘ党党首バシール・ジェマイエルBasir Gemayelが爆殺されると、内戦が激化した。

 マロン派による報復の過程で、サブラー・シャティーラ虐殺(難民キャンプでの虐殺)が発生し、イスラエル軍は黙認した。

 海兵隊の支援するレバノン警備隊はマロン派からなるため、米海兵隊も内戦に肩入れしているとみなされた。

 海兵隊はPLOやシリア支援組織ヒズボラから砲撃を受け、徐々に戦死者が出始めた。やがて、米大使館の爆破テロ、1983年10月の海兵隊兵舎への車自爆テロ(241名死亡)などで、平和維持活動は撤退を余儀なくされた。

 

 レーガンは「撤退ではなく転身」と弁明した。しかし、意図の不明確な中東進出が批判的に検討されることはなかった。

 

 5 蹴られた狂犬が噛みつく

 リビアのガダフィGaddafiはクーデタで政権を奪取して以降、反西洋・反アメリカ・反ユダヤを掲げ、各地のテロリストを支援し西側を挑発していた。

 ガダフィはソ連から兵器供与を受け、海域封鎖を試みた。

 レーガン政権はリビアテロ支援国家に指定し、第7艦隊を出動させ海域封鎖に挑戦した。しかしガダフィが態度を改めなかったため、レーガンは懲罰のため、首都トリポリベンガジの爆撃作戦を計画した。

 イギリスを除くNATO諸国が作戦に反対したので、米軍は基地を使用することができず、作戦は非常に複雑になった。

 

 1986年、エル・ドラド・キャニヨン作戦El Dorado Canyonが発動し、空軍・海軍の戦闘機・爆撃機リビアを爆撃した。作戦自体はそこそこの成功を収めた(フランス大使館は誤爆により被害を受けた)。

 しかしガダフィは健在であり、また以後もテロは続いた。その中にはリビア工作員による航空機爆破も含まれる。軍事力によってテロを根絶できるとの予測は外れた。

 

 6 悪を助ける

 レーガンは首尾一貫した思想の持主と評されるが、イラン・イラク戦争におけるイラク支援は、かれの機会主義と支離滅裂を示すものである。

 イラン・イラク戦争ペルシア湾をめぐる第1次湾岸戦争ととらえることもできる。それは、アラブ対ペルシア、世俗政権対神聖政権、スンニ派シーア派の戦いでもあった。

 1980年、イランの軍事力が革命により弱体化していると考えたサダム・フセインは、東部国境のイラン産油地帯と水源を占領しようと侵攻を開始した。

 イランは国民総動員によりイラク軍を後退させた。パニック状態になったフセインは一方的な停戦を宣言したがイランは拒否し、報復の進軍を開始した。

 合衆国は、イラン・イスラム政権が地域覇権を握るのを阻止するため、イラクテロ支援国家から除名し、続いてラムズフェルドなど親善大使を送り、武器商人(ソ連・フランス)を通じた軍事援助を開始した。

 この間、戦争の長期化を望むイスラエルはイランを支援していた。アメリカとイスラエルが、一緒になって反米・反イスラエル国家を支援していたのは皮肉である。

 さらに合衆国はレバノンにおける人質解放交渉と穏健派懐柔のためにイランに武器を売っており(イラン・コントラ事件)これは大規模スキャンダルとなった。

 

 フセインアメリカの裏表に気が付いていた。

 イラク・イランはお互いにペルシア湾上での攻撃や機雷敷設を行った。イランの敷設した機雷が米軍艦に打撃を与えたが、この機雷は帝政ロシア時代のものだった。

 USSスタークはイラクの戦闘機によって攻撃され死者を出したが、レーガンイラク支援の名目のため、責任をイランに課した。

 一方、米軍はイランの沿岸や船舶を直接攻撃したときに、イラン航空の民航機を撃墜した。軍は誤射を認めず、民航機が空域を逸脱していたと虚偽の報告を行った。

 

 米軍は直接介入し一連の懲罰作戦を実施した……ニンブル・アーチャー作戦Nimble Archer、プレイング・マンティス作戦praying mantis

 作戦終了後、アヤトラ・ホメイニは停戦に応じた。米軍による直接介入は大中東安定に寄与するかに思われたがそうではなかった。

 ※ レーガン時代の国防長官キャスパー・ワインバーガーフランク・カールッチ

 

 7 きれいな終わりはない

 レーガン時代の米軍事介入は海兵隊、空軍、海軍など一時的な機動に限定されていた。

 冷戦終結後、陸軍が前面に出てくるが、これは恒久的な駐屯を意味した。

 

 クウェートスンニ派支援の観点からイラクに多額のローンを行っていた。その後、返済のための石油減産をめぐってイラククウェートは対立した。フセインは90年8月クウェートに侵攻した。

 H.W.ブッシュは大中東の危険分子フセインを抑止するため、砂漠の楯作戦Desert Shieldを発動し多国籍軍サウジアラビアに駐屯させ防御を固めた。中央軍の作戦計画がまさに実行されたのだった。

 ※ 国防長官ディック・チェイニー統合参謀本部議長コリン・パウエル、中央軍司令官シュワルツコフ

 

 その後国連の支持を取り付け、中央軍は91年1月、砂漠の嵐作戦Desert Stormを開始した。作戦は成功し、シュワルツコフはイラク戦力の中核である共和国防衛隊を壊滅させようとしたが、ブッシュは世論や穏健派の空気を察し、攻撃を停止するよう指示した。

 著者のシュワルツコフ評は、仰々しく、短気で、自分に対する批判に非常に不寛容といったものである。

 

 戦争は華々しい勝利で終わったかに見えたが、中東の不安定要素は残り、状況はほぼ何も変わらなかった。逆に、米軍は軍を駐留し続ける重荷を背負った。

 

  ***

 2部 幕間Ent'racte

 

 8 善意

 湾岸戦争の不都合な結末について。

クルド人シーア派の難民が大量発生し、米軍は人道支援活動(Operation Provide Comfort)に追われた。

・権力を保持したフセインがかれらを迫害するのを避けるため、航空機による監視作戦(operation Northern Watch)や、対空砲拠点の爆撃などを数年間続けた。米軍は、イスラエル軍が占領地で行うbatashと呼ばれる恒常的治安維持を行うことになった。

 

 孤立主義が無責任とみなされ、人道的介入がもてはやされると、米軍は各地に軍を派遣することになった。

 

 1992年から94年までのソマリア国連平和維持活動では、米軍の特殊部隊が軍閥アイディードを捕縛する作戦を行ったが失敗し、多数の兵士が殺された。

 

 本来なら学ばなければならないはずの教訓――武装の行き届いたゲリラの支配する都市部での戦闘は危険であること、米兵の命を犠牲にする価値のある活動だったのか疑わしいこと、指揮系統が混乱を極めていたこと――は、映画と小説(「ブラック・ホーク・ダウン」)のヒット・美談化によって無視された。

 

 湾岸戦争後の米軍の聖地への残存や、ソマリア作戦の失敗は、アルカイダなどの過激派テロリストを刺激した。

 [つづく]

 

America's War for the Greater Middle East: A Military History

America's War for the Greater Middle East: A Military History

 

 

『America's War for the Greater Middle East』Andrew Bacevich その1

 ◆著者について

 著者ベースヴィッチは元米陸軍大佐で、引退後国際関係や歴史学に関する著作を発表している。特にイラク戦争以後、一貫して合衆国の軍事政策に反対している。

 息子のベースヴィッチ中尉はイラク戦争に従軍しIEDにより殺害された。

ja.wikipedia.org

 

 ◆メモ

 「大中東」The Greater Middle Eastという枠組を核として、アメリカの軍事政策をたどる本。副題に「a Military History」とあり、主題となるのは米軍である。

 非常にわかりやすく書かれており、カーター大統領のドクトリン以降、アメリカが誤った認識の下に大中東への軍事的関与を続けてきたことを指摘する。

 なぜアメリカが中東を重視するのか、どのように権益を保持しようとしたのか、そしてなぜ失敗しているのか、をベースヴィッチはっきりと示す。

 合衆国は当初、石油権益保持の為にペルシア湾安定政策を実行した。しかし介入範囲の拡大にあわせて目的も拡散し、いまは明確なゴールもなしに軍事活動を続けている。

 根本的な原因は、アメリカ自身の誤った万能感と、他者……特に中東への無理解にある。

 混沌とし、理解に苦しむアメリカの中東・アフリカ政策だが、著者の解釈によれば、そもそも当人たちの頭も混乱しているのである。

 ベースヴィッチが下す結論は、米国の利益(主にエネルギー確保)の急所でなくなった以上、中東からは撤退すべきというものである。それが実現までまだ遠い点は本人も巻末で指摘している。

 

  ***


 1部 前書きpreliminaries

 1980年4月に失敗したテヘラン人質救出作戦イーグル・クローOperation Eagle Clawについて。この作戦では、救出部隊はイラン首都テヘランに到着さえできず、途中の給油地で事故を起こし、8人の隊員が死亡し失敗した。

 

 1 選択の戦争

 アメリカが中東権益を維持する根本的な動機は石油である。石油とは何かといえば、「アメリ生活様式」の原動力である。

 70年代中盤まで、一部のタカ派が中東を軍事的に掌握することで石油供給を安定化させよと主張していたものの、中東政策の優先度は低かった。

 パーレビ2世政権Pahlaviのクーデタ支援や、アフガンの反政府勢力支援、イスラエル支援等、秘密介入・間接支援はあったものの、これまで中東には軍のプレゼンスはほぼ無く、外交官とスパイにほぼ一任されていた。またアメリカは平和利用として核開発支援を行っていた。

 1979年、イラン・イスラム革命の発生によって湾岸諸国の石油危機問題が浮上した。当時イランには5000人を超える退役軍人と契約業者がおり、ロッキード、ベル・ヘリコプター、レイセオン等の軍事企業が進出する一大権益拠点となっていた。

 カーターJimmy Carterは平和の使者として登場したが、したたかさや決断力に欠けていた。このため皮肉にも、大中東戦争の契機をつくることになった。

 1979年の演説において、カーターはペルシア湾The Persian Gulfの安定が、石油の安定、そして国家安全保障に不可欠であることを宣言した。

 冷戦末期に、アメリカは新しい軍事政策を始動させ、それは現在まで継続しているのである。

 このカーター・ドクトリンは、トゥルーマン・ドクトリンTruman Doctrineと共通点がある。

 

・重要な決定であると同時に、これまでの政策がうまくいかなかったことを示す降伏文書でもある。

・際限のない関与につながる曖昧性

 しかし、封じ込め政策Containmentとは異なり、ペルシア湾の明確な保護領化を示唆している。

 

 1979年12月のソ連によるアフガン侵攻は、一部論者から、ソ連ペルシア湾侵攻の一端だと解釈された。

 

 2 加速

 カーター・ドクトリン――合衆国によるペルシア湾権益の保持――に基づき軍事政策が実施された。

 本章では、ドクトリンに続く軍の中東戦略整備の過程をたどる。

 1980年 緊急展開統合軍RDJTFRapid Deployment Joint Task Forceの編成、海兵隊リー将軍Kerryによる具体化。

 後任者キングストン陸軍中将Kingstonは、RDJTFを中央軍CENTCOMに改変した。

 キングストンは中東各国における基地・飛行場の設置、部隊や装備の拡張を行った。

 中央軍の担任地域Area of Responsibilityは、リビアスーダン、エジプトからアフガン、パキスタンにまでいたる広範なものだった。

 中東では、いまや軍が常駐し、主導権をとり、外交がその後ろに位置するようになった。

 当初の作戦計画OPLAN1002は、ソ連ペルシア湾侵攻を阻止するというものだった。

 海兵隊大将クリストCristに続く陸軍大将シュワルツコフは、1988年着任後、作戦計画の見直しに着手した。

 1985年、ゴルバチョフの登場に伴うソ連軍のアフガン撤退、イラン・イラク戦争終結により、ソ連の侵攻に備えるという計画は、現実味のないものになっていた(空想的な計画に基づき大規模予算を獲得するという意義はあった)。

 シュワルツコフは、大中東の不安定要因をイラクの暴君フセインと定義し、イラクによるサウジアラビア侵攻を作戦計画の核とした。

 

 冷戦が終結すると、欧州で余った兵力や戦車が大量に中東に転換された。

 

 ――……冷戦の終結は、通常重要な出来事として記述されるが、米軍の編成や態様にはほとんど変化を与えなかった……新しい敵に方向変換させただけである。

 

・現在の軍首脳の指摘……中東に関しては、そもそも軍事的解決を選択したのが間違っていたのではないか。

・政策決定者や軍の作戦立案者たちに欠けていた認識が2つある。それは、歴史と宗教である。

 帝国主義時代の統治や国境画定をめぐる混乱に関する配慮がなかった。また、中東は神がまだ大きな力を持っている場所であること、宗派対立があること、近代性modernity(つまり、西洋的世界観)と相いれない面があること、に関する認識が欠けていた。

 

 こうした認識ミスの原因……冷戦時代は、核兵器開発が最重要事項であり、数学者、政治学者、ゲーム理論学者がもてはやされ、歴史学者神学者は冷遇されていた。

 

 3 神権政治の武器庫

 以後、カーター政権末期からレーガン時代を通じた中東への軍事政策を検討する。

 アフガニスタンでのサイクロン作戦Operation CyclonはCIAが主導で行った。ソ連ベトナムと同様の泥沼に引き込むために、合衆国はパキスタン経由でムジャヒディンに対する軍事支援を行った。

 特に、中盤以降に導入された対空兵器スティンガーは目覚ましい効果を発揮した。

 1989年、ソ連軍が撤退したとき、CIAの現地本部は「われわれは勝利した」と電報を送った。

 

 しかし、当時ほとんどのアメリカ人は気が付いていなかったが、この軍事支援は深刻な問題を残した:

 

アメリカが支援した勢力のなかで軍閥が台頭し、1992年から内戦が勃発した。

・難民の大量発生、都市への流入に伴う農業の崩壊、アヘン栽培の隆盛

・腐敗した社会情勢のなかから、抑圧的なタリバン政権が誕生した。

 

 アフガニスタンはテロの温床となった。当時CIA工作員だったロバート・ゲーツRobert Gates(後の国防長官)は、「対ソ戦後、アフガンは醜いものになると予測していたが、ここまで有害になるとは思っていなかった」とコメントしている。

 ムジャヒディン支援の成功は、合衆国に対し、誤った2つの教訓をもたらした。

 

・幸運は勇者に味方するFortune Favors The Bold。大胆な作戦は推奨される。

・スティンガーが示すように、ハイテク兵器は万能であり、敵を圧倒できる。

 [つづく]

 

America's War for the Greater Middle East: A Military History

America's War for the Greater Middle East: A Military History

 

 

『Let Our Fame be Great』Bullough Oliver その3

 3代目イマームであるシャミールは1832年のギムリの戦いを生き延びた後、チェチェンおよびダゲスタン(岩山の多いダゲスタンと、森の深いチェチェン)のイマームとなった。かれはスパイを各地に潜ませ政敵や反逆者を摘発・処刑した。

 かれの名前はユダヤ人のものであり非常に珍しいがその由来は諸説ある。

 1859年、ロシア軍指揮官バリャチンスキーBaryatinskyは諸部族を懐柔しシャミールを追い詰め、グニブGhunibにおいて降伏させた。

 シャミールはサンクト・ペテルブルクで英雄として迎えられ、その後モスクワ近郊のカルーガKalugaで家族とともに生活した。シャミールの世話人を命じられた軍人ラノフスキーRanovskyは、信心深く穏和な老人であるシャミールとの生活を克明に記録した。

・シャミールの家族(妻3人、息子と娘たち)の不和

 故郷のチェチェン人、イングーシ人、ダゲスタン人の不信仰への批判

 「ロシアで育った息子が山の生活に馴染めず死んだ理由がわかった」

・シャミールの時代には、チェチェン人のトルコへの移住が始まっていた。ムスリムにとってカリフ制をとるトルコは名目上、理想の国だったからだ。

 イラクに移住したチェチェン人の中には、イラク軍の将軍に出世した者もいる。

 

ロシア革命後、ソ連赤軍コーカサスに対し異質な制度と慣習を強要した。このためチェチェン・ダゲスタンでは反乱が頻発し、1944年にはカザフスタンのアスタナ近郊に追放された。

 ロシア帝国と同じ方法でコーカサス民族を弾圧し、歴史を捻じ曲げたのは、グルジア出身のスターリンである。

 ここではヴィス・ハジVis Hajと呼ばれるスーフィーの導師が非暴力・不服従に似た教えを説き、チェチェン人の団結の中心となった。

 チェチェンは、正統イスラームではなくカーディリー運動The Qadiri(ターリカの1つ)などのスーフィーが主流となった珍しい領域である。

 今でもクラスナヤ・ポリヤナKrasnaya Polyanaの住民はほぼすべてチェチェン人であり、著者は歓迎を受けて貴重なズィクルZikrの踊りを見物することができた。

 

チェチェン紛争においてロシア軍は無差別の爆撃をおこなった。このため数十万人の民間人が死んだ。

 強制移住後、カザフスタンやクラスノヤルスクKrasnoyarskでマフィア活動をおこなったあるチェチェン人は、紛争時、グロズヌイ近郊でロシア兵の捕虜になった。列車が捕虜収容所・拷問センターに使われた。2人の息子は射殺され、自身は歯を折られ、全裸の状態で逆さづりにされ殴打された。

 

  ***

 4 ベスランBeslan、2004

・2004年9月1日、チェチェン独立派のテロリスト、シャミル・バサエフShamir Basaevの刺客が南オセチア、ベスランの第1小学校を襲撃した。ロシア特殊部隊による鎮圧作戦により400名程度の人質(主に子供)が死亡した。

バサエフは1995年にブジョンノフスクbudyonnovskの病院で人質をとり、ロシアから停戦交渉への譲歩を引き出すことに成功した。

 以来、バサエフイスラム過激派は無差別テロに依存するようになった。

 バサエフは第1次紛争終結時には英雄となったが、やがてマスハドフmaskhadov政権と袂を分かち、過激なテロリストとして悪名をはせたため人心は離れていった。

プーチンによる第2次チェチェン侵攻の原因は、モスクワやヴォルゴドンスクVolgodonsk、ブイナクスクBuynakskでの爆弾テロと、バサエフおよびアミル・ハッターブAmir Al-Khattabによるダゲスタン侵攻である。

・2002年のモスクワ劇場占拠事件、その後のモスクワ爆弾テロなどにより、ロシア社会は恐怖で覆われた。また、プーチンがテロに譲歩するようにも思えなかった。

バサエフは社会的弱者である女性を自爆テロの装置に利用していた。

 

・ドゥダエフが生きていた時代からすでに、チェチェン共和国は腐敗し始めていた。

 政府は単に権力を持つ部族グループでしかなくなった。テロと誘拐、過激派の流入が蔓延し、生まれ育った子供のほとんどは身心に障害を負っているか精神に重いトラウマを抱えた。

 かれらは過激派や暴力的な思想、自爆テロに容易になびいてしまう。

・テロリスト集団のただ1人の生き残りとして訴追されたヌルパシ・クラエフNurpashi Kulayevは、自身の弟に巻き込まれただけでありテロ行為に関係していないと主張した。この裁判は明白な政治的意図に基づいて行われ、手続きには不公平な要素が含まれていた(弁護士の非協力、通訳の不在、検察に不利な証拠や証言の不採用など)。

アフマド・カディロフAkhmad Kadyrovは1995年にムスリム指導者のムフティMuftiに選ばれた。カディロフと、大統領マスハドフは、過激派や厳格主義、ワッハーブ派流入に反対した。かれらはチェチェンの伝統的なスーフィーと思想的に対立していたからである。

 バサエフやハッターブの過激主義は、若者たちから強い支持を受けていた。

 チェチェンは内部分裂を起こしていた。武器を持ったまま職にあぶれた若者が、マフィアや過激派に吸収された。

 1999年、バサエフによるダゲスタン侵攻に対し、プーチンはロシア軍を送り込んだ。このときカディロフはロシア軍と協力したため、マスハドフバサエフから反逆者と認定された。

 グロズヌイを徹底爆撃する連邦軍の作戦によりチェチェン側は敗北した。

・バイカル人のある若者は、レスリングを生かして仕事につくためにウズベキスタンに渡ったが、その後アフガンで戦っているところを米軍に拘束された。ロシアが若者を引き取った後は、故郷のカバルダバルカルで、警察による嫌がらせと拷問が続いた。

 かれはテロの容疑により監獄に入れられ、拷問により廃人となった。

 

チェチェンを独自取材しようとした記者はロシア軍に拘束され、さらにその後、ロシア警察の雇ったチェチェン人マフィアに引き渡された。

 連邦政府の公式発表に従わないマスメディアを、プーチンは敵とみなす、という明白なメッセージだった。

チェチェン人難民の大半はオーストリアポーランドなどに向かったが、受け入れは停滞しており、特にオーストリアでは市民との摩擦が生じた。

 オーストリアでは移民排斥を掲げる極右が台頭した。チェチェンの若者は学校にも行けず、戦闘しか経験していないため、「もし雇ってくれればその国のために戦う」と話した。かれらには祖国や奉仕する対象がなかった。

 かつての独立主義者、分離派たちは国外に逃亡し、現在のチェチェンとまったく隔絶していた。チェチェンは再び家族主義に分割していった。

 

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 著者の同僚だったチェチェン人は、戦い以外の生き方を選び、ロイターのカメラマンとして働いていた。しかしアフマド・カディロフの暗殺に巻き込まれ、式典中に爆殺された。

 

Let Our Fame Be Great: Journeys among the defiant people of the Caucasus (English Edition)

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