うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『チャーチル』河合秀和 その2

 5

 海相チャーチルは4人の海事卿(現役提督)とともに、海軍の組織改革に取り組んだ。参謀本部と海軍大学の設立、航空部隊の整備はこのときの成果である。

 かれは、今度は社会改革費を削り海軍増強費にあてろと主張した。

 仮想敵であるドイツ海軍は海外に植民地を持っていないため、艦隊はヨーロッパ周辺に配置された。

 

 アイルランド国民党が自治法案を要求したことで、アイルランド問題が再び持ち上がった。チャーチルはアルスターの分離案を提示したが支持されなかった。

 

 1914年8月に第1次世界大戦がはじまり、チャーチル海相として指揮をとった。しかし、15年に実施したダーダネルス作戦(ガリポリ上陸作戦)の失敗により、チャーチルは責任をとって辞職した。

 ロイド=ジョージ内閣では、閑職に就きつつ、戦車の重要性を訴えた。しかし、実権を与えられずに辞職した。ガリポリ作戦失敗によるチャーチルへの反感は強く、自由党政治家はかれを内閣に入れようとはしなかった。

 チャーチルは戦車の投入を訴え、成功した。

 

 6

 戦後、チャーチルは空軍相兼陸軍相となった。

 ロシア革命に続く反ソ干渉戦争において、チャーチルは白軍の支援を訴えた。白軍は敗北したが、これを期に、保守党がチャーチルの味方につき、労働党と労働運動が敵に回った。

 1921年には、陸軍相から植民相に移行した。ドイツ海軍を接収し、ドイツの植民地を委任統治領として継承したことで、大英帝国の領地は過去最大となった。しかし、帝国の統合はほころんでいた。

 アイルランド自由国条約により、アイルランドは自治領となり、アルスター(北アイルランド)は分離された。

 

 1924年、かれは反社会主義者、保守派として下院に当選・復帰し、保守党政治家となり、ボールドウィン内閣の蔵相となった。

 かれが実行した金本位制ケインズにより批判され、結果的には失策として考えられている。

 ダーダネルス作戦では専門家の意見を無視して失敗し、通貨制度では専門家の意見を聞き入れて失敗した。

 

 7

 1929年の労働党政権成立以後、チャーチルは10年間官職から離れた。

 

・インドの自治領化には反対した。「インドは統一の国家、民族ではない」とし、イギリスによる統治が不可欠だと考えた。かれはガンジーを批判した。

・かれはドイツの再軍備に反対した。間違いなく、フランスへの復讐を行うからである。平和の維持には、戦勝国の軍備強化が必要であると考えた。

ヒトラー政権への対抗のために、かれは空軍力増強を訴えた。

国際連盟の死……日本の満州事変、イタリアのエチオピア侵攻を黙認した。またスペイン内戦に対応せず、ドイツ軍のラインラント進駐を見過ごす等、その意義を失っていた。

 

・宥和政策……ヒトラー政権への対応:1936年のラインラント進駐、1938年のオーストリア併合。

 当時の国際情勢は、現在とは異なる見方が支配的だった。

 

 ――チェンバレン首相は……戦争を避けるために、またもし戦争が避けられないとしても敵国の数を減らすために、独伊を「宥和」しようとした。……イギリスには独伊日三国を同時に敵に回して戦う準備がなかった。この中でもちろんドイツの脅威がもっとも大きかったが、日本には強大な海軍力がある。そしてもしソ連が英仏側について参戦すれば、日本が独伊側につく惧れがあった。したがってソ連の協力は「助けというよりむしろ迷惑」である。……他方、アメリカには孤立主義が強く、チェンバレンの言うように「この方面からの援助を考察の基礎にするのは慌て者だ」ということになるであろう。

 

 1938年のミュンヘン会談は失敗とわかり、1939年8月、独ソ不可侵条約が結ばれ、翌月ポーランド侵攻が始まった。

 チェンバレンはなお外交努力を続けようとしたが、チャーチルら議会は宣戦布告を要求した。

 

 8

 ノルウェー作戦の失敗によりチェンバレンが辞職し、1940年、チャーチルがバッキンガム宮殿で組閣の大命を受けた。かれは労働党と左派をも味方につけ、あらゆる階級を含む、人民の戦争を戦おうとした。

 チャーチルは戦争指導に専念した。ドイツ軍の暗号は1941年には解読されており、チャーチルらは敵の動きを認識していた。

 現場の指揮官にはあまり裁量が与えられなかった。

 

・1940年、バトル・オブ・ブリテンにイギリスは勝利した。

・イギリスの力は空軍と海軍にあった。イギリス空軍は、ドイツへの戦略爆撃と無差別爆撃を実行したが、効果は低かった。

・イギリス軍はアフリカ戦線を展開したが失敗した。

チャーチルは、アメリカが参戦すればイギリスは勝てるだろうと考えていた。一方、アメリカの参戦によってイギリスの軍事的・経済的地位は低下した。武器貸与法は、イギリスの輸出国としての地位を終わらせた。

・アメリカの参戦後、舞台はアフリカに移った。モントゴメリーはロンメルのアフリカ軍団を破った。

ルーズベルトはイギリスに対して批判的な態度を持っており、特に帝国主義(インド支配)に反対した。

 連合軍のノルマンディ上陸からドイツ降伏以後、イギリスの地位は急速に低下していった。

 

 9

 1945年7月の総選挙で保守党は惨敗した。理由は諸説あるが、労働党への支持が戦時中増加し続けていたことによるようだ。

 チャーチルは野党の立場から反労働党、反社会主義を煽ったが、その指摘は外れていた。イングランド銀行の国有化、福祉政策、国民医療制度等は、国民の支持を得て実現し、その後も引き継がれた。

 

 かれはヨーロッパ合衆国を提唱したが、イギリス自体はそこから距離を置くべきと考えた。

 1950年、ヨーロッパ石炭・鉄鋼共同体が提案されたとき、労働党政権は交渉参加を拒否し、保守党も同意見だった。

 1951年から1955年まで、かれは再び首相の座についた。しかし、チャーチルの使命は終わり、イギリスも大国としての役割を完全に終えていた。

 チャーチルは1965年に死んだ。

 

 

『チャーチル』河合秀和 その1

 チャーチルは、最後の反革命帝国主義の政治家だった。かれは第2次世界大戦においてイギリスを勝利に導いたが、一方、かれが理想とした帝国は勝利の過程で解体していった。

 

 ◆メモ

チャーチルは社会改革にも関心を持っており、貧困者の救済や失業対策等、後の福祉国家制度の基盤をつくることにも貢献した。

・かれは政党を2度移り、また政治的見解もよく変わった。対独戦勝利後は、副首相アトリーら労働党を厳しく非難したため、党派的政治家とみられた。

・かれは大英帝国の地位が低下していくのを痛感していた。

・演説がうまく、また、もともと文筆家として名を挙げたこともあり本をよく書いた。

・貧困対策に力を入れる一方、ストライキには強硬に対応した。

 

  ***

 1

 初代モールブラ(マールバラ)公爵ジョン・チャーチル(1650~1722)……ウィンストンの息子ジョンは、軍人となる。かれは生命保険で財をなした後、名誉革命において立役者として活躍した。

 その後、スペイン継承戦争に参加した。

 この時代の政治は、王族・貴族たちの不倫と縁故、裏切りで動いていた。

 チャーチルの父ランドルフチャーチルの活躍と没落……チェンバレンとの関係、保守党における党内民主主義、梅毒と死。

 

 2

 チャーチルは多忙な両親とはあまり顔を合わせることなく成長し、寄宿学校(ハロー校)からサンダースト士官学校へ進んだ。しかし、親、特に父への尊敬は保たれた。

 

 ――当時、よい家柄の子弟に開かれている職業としては、聖職者と法律家と軍人とがあった。しかし、聖職者と法律家には古典語教育が必要であったから、ラテン語のできないウィンストンには軍人になることしか残されていなかった。

 

 ――歩兵将校は従卒の費用だけを自弁すればよいが、騎兵将校は馬の分も負担しなければならなかった。……将校に限らず、「国家のために奉仕する」名誉と義務を負ったイギリスの高級公務員にとって――おそらく1945年の労働党内閣の成立に至るまで――給料はいわば小遣い銭程度のもので、生計はもっぱら自前の資産に頼らねばならなかった。それだけに、自らの信念にしたがって自由に辞任することができたが、逆に恒産のないものはそのような職につくことを望めなかった。

 

 かれは騎兵将校として勤務を始めた。安楽で退屈な生活を送りながら、政治家への野心を抱き続けていた。

 スペインのキューバ戦争を観戦し、記事を投稿し報酬を得てから、軍人として働きつつ文筆業で資金を蓄えるようになった。

 インドでの懲罰作戦に従軍し、『マラカン野戦軍』という手記を出版し報酬を手に入れた。

 かれは、イギリスの前進政策は、限界を超える軍事的・経済的コストにつながるとしてこれを批判した。

 1899年、陸軍を退官して間もなく、新聞紙の特派員としてボーア戦争を取材し、捕虜となった。かれは収容所から脱走し、英雄として帰国した。また、2冊の手記を出版し、ベストセラーとなった。

 ボーア戦争に対しては、自由党のアスキス(元ローズベリー卿)は戦争を支持したが、ロイド=ジョージら自由党急進派は戦争に強く反対した。

 準備資金を得たチャーチルは、政治に参入することを決心した。

 

 3

 1900年、チャーチルは保守党から立候補し下院に当選した。かれは帝国と社会改革を重視した。

 かれは保守党の左派に位置しており、自由党帝国主義者……チェンバレンらと連携した。

 チャーチル自由貿易を基礎とする帝国を提唱し、保守党から自由党に移った。

 1905年、自由党の親ボーア派キャンベル=バナマン内閣において、植民次官に就任した。

 選挙時には、自由貿易を唱えることで、富裕層、穏健な中間階級、急進派の支持を得た。チャーチル自由貿易主義は、単に政治家としての出世の足がかりのためだったという説もある。

 南アフリカにおいては、イギリス人、ボーア人を平等に扱う統治を推進した。

 

 ――しかし同時に見落としてはならないことは、こうして植民地の経営を現地の白人の自治にゆだねることによって、現地の黒人の権利が完全に無視され、今日の悪名高い人種隔離政策への道を開いたことであった。また黒人の権利と並んで、植民地経営のためのいわば下士官、兵士として導入されていたアジア人、特にインド人と中国人の権利も無視されることになった。

 

 あわせて、中国人労働者が収容所に詰め込まれている現状についても解消した。

 

 チャーチルは社会改革に意欲をもっており、自由放任の原理と合わせて、最底辺をいかに救済するかについて考えていた。かれはドイツを視察し、労働交換所(職業安定所)の設立を検討した。後の閣僚再編成時、かれは次のとおり課題を掲げた。

・年少者の職業訓練

・少年搾取の禁止

・除隊兵士への職業訓練

・労働交換所

・労働時間の規制

 

 1908年、心臓まひで倒れたキャンベル=バナマンに代わり、蔵相アスキスが内閣を編成した。チャーチルは商務長官となった。

 

 4

 かれは商務長官として失業対策・雇用やストライキの問題に取り組んだ。

 

 ――社会改革におけるチャーチルの基本原則は、これまたすでに述べたように、「取り残された数百万の人びと」のために最低限の生活と労働の基準を設けることであった。

 

 賃金法や労働交換所の設置によって、後の福祉国家体制の基礎が築かれた。

 当時、ドイツとの対立が深まり、建艦計画が進められていたが、チャーチルとロイド=ジョージはこれに反対した。

 1910年には内相に昇格した。

行刑制度の改革……刑務所、収容所の改善

ストライキ対策……人命を尊重し、いかに法と秩序を維持するか

 

 ――……いかに「人民の代表」であると唱えていても、政治家には権力の行使に直接参画しているという事実によって、具体的に人民を支配するという立場に立たざるを得ない。その時、人民にいかに対処するかについては、二人の間に大きな違いがあった。チャーチルは、労働運動の挑戦に直面させられると、まず態度を硬直させ、一歩も譲ろうとしなかった。……それに対してロイド=ジョージは、挑戦を受けるとまず柔らかく受け入れた。

 

 やがて、かれはイギリス海軍の立ち遅れを訴えた覚書を提出し、海相に就任した。

 「つづく」

 

 

『アメリカ黒人の歴史』本田創造

 合衆国に現在約4000万人いるアフリカ系アメリカ人の歴史について。

 

 「黒人」は、人種・血統的であるとともに、政治的なカテゴリーでもある。血統に1人でも黒人が混じっている場合、その人物は白人ではなく黒人として扱われる。

 

 ◆メモ

 アメリカ人たちの作業場で、Youtubeで警官の使用する銃(口径と制圧力の関係)について検索していたときに、警官が路上で撃たれる動画がずらりと出てきた。ある人物がジョークで「アメリカで警官になると射殺される」とコメントした。すると別の人物は「たぶんアメリカで黒人になるともっと射殺される」と反応した。

 人種差別問題は合衆国を形作る本質の1つだと感じた。

 

 ◆所見

 合衆国における黒人の苦難の歴史をたどる。

 特に、奴隷廃止運動や、差別撤廃運動、公民権運動に重点が置かれている。独立革命での黒人の役割等、重要な歴史的事実を知ることができる。

 著者は独特の思想を持っており、全編が思想に彩られている。著者によれば黒人奴隷制度や黒人差別は、アメリカ資本主義の根幹をなす構造である。

 

 

 ――したがって、こんにちのアメリカ「黒人問題」の本質は、……階級の問題と考えるべきである。

 

 マルクス主義を中心に黒人問題をとらえているため、他の視点から書かれた本についても調べる必要がある。

 著者の文章は所々で講談師のようになり、名言を引用する。

 

 1

 1619年、イギリス植民地であるヴァージニア州ジェームズタウンにに初めて黒人奴隷が輸入された。これは、植民者が自治のための代議院を開設したのと同年である。

 初期の植民者は煙草の栽培を行った。

 奴隷の歴史は古いが、ポルトガルが黒人奴隷貿易を開始して以来、アフリカ、西インド諸島、アメリカという三角貿易が栄えた。特に新大陸とアフリカを結ぶ「中間航路middle passage」が有名である。

 当初、黒人奴隷よりも、白人の年期奉公人(indentured servant)(実態は、賃金奴隷に近い)の方が数が多かったが、雇用期間が決まっているのと、逃亡や抵抗が発生したのを理由に、やがて黒人奴隷を増やすことになった。

 

 2

 1775年、植民地からの独立が達成された。このとき、自由黒人や黒人奴隷たちも独立側に立ち戦った。一方、イギリス側も、黒人に自由を約束し参戦させた。

 しかし「自由と平等と幸福」は黒人、先住民たちには適用されなかった。

 トマス・ジェファソンは、独立宣言において奴隷制の撤廃に言及しようとしたが、かなわなかった。

 北部の商業資本家と南部のプランター寡頭権力とが妥協し、奴隷制は温存された。

 

 ――フランス革命にさきがけて、自由と平等を旗印に掲げて民主主義革命を行い民主共和国になったこの国は、その生誕の過程で、またもや最も非民主主義的な奴隷制度を、憲法によって容認することになった。

 

 1777年以降、奴隷制反対運動が盛んになり、奴隷制を廃止する州が増えた。

 

 3

 南部では綿花、タバコ、米、砂糖等の産業において、プランテーション奴隷制度が導入された。

 奴隷制度の勤務形態……割り当て制度と組制度(ギャング・システム)。

 

 4

 奴隷制度廃止運動について。

・アボリショニスム……クェーカー教徒や建国の父らによる漸進的奴隷解放論から、奴隷制の即時廃止運動への転換。

 ウィリアム・ロイド・ガリソン

 フレデリック・ダグラス

 一部では、黒人をアフリカに帰すという運動も起こったが、主流とはならなかった。解放奴隷がアフリカに建てた国がリベリアである。

 南部の奴隷を、北部やカナダに避難させる「地下鉄道」組織について。

 1850年代、共和党奴隷制度反対党として誕生し、後の共和党となった。

 

 5

 奴隷制廃止論者のリンカンが1860年大統領に当選すると、間もなくサウスカロライナ州をはじめとして連邦からの分離を宣言する州が続いた。

 1861年4月、サムター要塞を南軍が攻撃し南北戦争が始まった。

・1863年1月 奴隷解放令公布

・1863年7月 ゲティスバーグの戦い

・1865年4月 リッチモンド陥落、一週間後、南軍リー将軍がグラント将軍に降伏

 

 6

 南北戦争後、南部の立て直し、「リコンストラクション」が行われた。しかし、殺されたリンカンに代わって大統領となったアンドリュー・ジョンソンは南部出身であり、リンカンとは対照的な政策をとった。

 黒人差別と迫害は逆に増大し、人種主義者によるテロが横行した。

 

 7

 近代黒人解放運動……

・ブッカー・T・ワシントン

・デュボイス

 

 8

 公民権運動について。

 1964年、ジョンソン大統領が成立させた公民権法により、黒人に対する法的な差別は撤廃された。

 しかし、各州における人種差別法は温存され、その後も運動は続いた。

・ジム・クロウ法……公共施設における人種制限

 

 9

 10

 現代にいたるまでの黒人差別の歴史について

 (略)

 

  ***

 黒人解放の歴史は、法によって定められた人種差別をどのように修正していくかという運動の歴史である。人種差別撤廃運動において、最高裁判決がしばしば主題として取り上げられる。

 法自体が間違っている場合、それを撤廃し公正に近づけるには、国民による運動が重要となる。

 

  ***

 主に南部を中心に、州知事以下政治家や市民が一丸となって黒人差別を支持していた。

 民主主義においては、多数が不公正を望めば不公正な社会が実現する。

 

アメリカ黒人の歴史 新版 (岩波新書)

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粘土人形制作 ウンゲルン1号 その2

 前回から少し間が空きましたが引き続き呪いの人形制作過程を投稿します。

 

 2 大まかな成型

 針金とアルミホイルを芯材にして、その上に石粉粘土をつけていきました。

 要領がよくわからず水をつけすぎ、また芯材を盛りすぎたのでだいぶ肥大化しました。

 水で柔らかくなったので顔などもうまくつくれませんでした。

 横のスターリンジョージア共和国で買ったおみやげです。

 腕は後付けしているようなのでいったん作った後もぎとりました。

 これを1日放置して乾燥させました。

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 3 髪の毛、衣裳、細かい顔の整形

 前項の土偶の時点でかなりやる気がなくなっていましたが、そのまま放置してもしょうがないので肉付けを行いました。

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 体のバランスは悪いですが髪の毛、ひげ、衣裳(モンゴル民族衣裳)の下半身部分は思ったよりはうまくできました。

 粘土でのやり方はほとんどYoutubeを参考にしています。

 足のバランスが悪く、なかなか自立しません。

 この後、両腕をつけるのに苦労し、左右で大きさの違う不自然な腕が装着されます。

 

 [つづく]