うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『健康帝国ナチス』ロバート・N・プロクター その2

 5

 ヒトラーはたばことアルコールを拒否し、菜食主義に努めた。ヒムラールドルフ・ヘスも菜食主義者だった。ヒトラー個人の嗜好と党の方針によって、肉食の規制、自然食の推進、人工着色物の規制といった政策がとられた。

 また、ドイツ国民がビールにあまりに多くの所得をつぎ込んでいるということが問題視され、禁酒運動がすすめられた。

 もっとも、実際には国民の抵抗が強く、戦況が悪化し食糧が不足するまでは、ビールや肉の消費はあまり変化しなかったようだ。

 

 6

 たばこ撲滅運動は、アメリカに先駆けてドイツで最も早く始められた。ナチ党を支持するガン研究者らによりたばこの害毒が検証され、たばこ産業や広告に対する規制が強化された。

 一方で、経済相とたばこ産業はこうした反たばこ運動に抵抗し、自分たちの利益を確保しようとした。

 ナチスドイツにおけるたばこ撲滅運動の問題は、たばこの規制とガンの予防を唱える学者らのほとんどが、人道的犯罪に加担していたことである。

 たばこ害毒研究所所長のカール・アステルは精神病患者の安楽死を推進し、反たばこ運動の推進者フリッツ・ザウケルは絶滅収容所への関与によりニュルンベルク裁判で死刑となった。

 その他の医者たちも、断種や安楽死政策に関与していた。

 ナチ党下の健康政策には、劣った要素を排除するという要素と、優れた要素をさらに伸長するという2つの要素が併存している。

 たばことアルコールの抑制によって、優れた、純潔で健康なアーリア人特性を強化することと、劣等人種や社会的無用者を処分することとは同じ平面上にあったという。

 たばこの害毒を研究する医学界と、それに反対し、自分たちの研究機構をつくるたばこ産業という構図は、戦後アメリカで繰り返された。

 

 7

 ナチス・ドイツそのものが一枚岩ではなく、様々な省庁や幹部が勢力争いを行っていた。医学界も同様で、ナチ党支持の医学がすべて科学的に誤っていたわけではない。

 メンゲレの人体実験や、収容者を用いた科学実験だけがナチ医学ではない。

 善い政府のもとで善い科学が栄える、という風に社会と科学の関係を単純化することは不可能である。

 

 ――科学史家がとくに強調することをひとつあげろと言われたら、科学的概念は真空のなかで発展することはない、ということだろう。概念は「価値観の坂」の上に乗っていて、社会の微妙な力によっていつも上へ下へと変化しており……。

 ――本書の目的は、ドイツの科学と医学のナチ化は、一般に思われているほど単純なものではないと示すことである……私が強調したいのは、日常的な平凡な科学の実践と日常的な残虐行為の実践とが共存しうることを、もっとよく理解する必要があるということである。

 

 文中にあるように、ナチスへの道は無関心でつくられていたという。

 いかなる科学も政治から逃れることはできない。研究者たちは、邪悪な政府の下で行われた研究から、学べる事項を適切に拾い上げなくてはならない。

 一方で、健康政策が先駆的であったという理由でナチスドイツを正当化することも間違いである。

  ***

 この本のなかで、ポーゼンにつくられた第三帝国ガン研究所についての言及がある。この施設は偽装施設であり、実態は生物兵器の研究がおこなわれていたという。

 

健康帝国ナチス (草思社文庫)

健康帝国ナチス (草思社文庫)

 

 

『健康帝国ナチス』ロバート・N・プロクター その1

 原題は「ナチの、ガンとの戦争」The Nazi War on Cancer

 

 ナチ党政権時代の医療、健康、福祉政策を検討し、さらに政治と科学の関わりについて考える本。

 本書が題材にするのは、断種や人体実験、安楽死等のおぞましい医学ではなく、現代の価値観とも類似している「良質な科学」である。

 著者によれば、ヒトラー政権下において、科学は「政治とは無縁に経済力・軍事力を支援する動力として許容されていた」。

 一部の科学者たちはナチズムに賛同するわけではなく、「無責任な純粋さ」で研究に励んだ。

 ナチスの健康政策と、絶滅政策には関連があると著者は主張する。

 

 1

 20世紀前半においてドイツは医学研究の最高峰だった。これはナチス時代も同様で、ヒトラー政権下ではガン研究が進められ、またガン予防のための生活改善プログラム、たばこ撲滅運動が実行された。

 元々、工業国であるドイツにはガン患者が多く、ガン予防と衛生・健康政策は国策として行われていた。

 

 2

 ガン研究が組織化され、ガンは国家の敵であり、ドイツ民族の健康を害するものであると断定された。

 一方1933年の公職法制定に伴い、医学界からユダヤ人研究者が追放された。それでも、ガン研究は続けられた。

 ナチ政権による用語の言い換えについて言及される。

 殺人は「特別処置」、「最終的解決」等無数の言葉に置き換えられた。ユダヤ人、共産主義はガンに例えられることもあった。

 

 3

 ガンの原因が遺伝的なものか、環境によるものかは、学者によって意見が分かれた。人種や皮フの色に起因するものがある一方、生活習慣や、特定の産業への従事や、化学物質の摂取が原因と考えられるものもある。

 ナチズムは人種主義、根源主義、急進主義を採用した。様々なガン研究は、優生学や人種衛生学を出発点としている。

 

 4

 Ⅹ線の研究と応用について。Ⅹ線はレントゲン撮影で用いられていたが、レントゲン技師・大量にⅩ線を浴びた者の、ガン発生率や奇形出生率が問題となった。

 Ⅹ線の危険性を訴える研究者がおり、かたや、Ⅹ線照射によるユダヤ人の断種や、航空機を利用したⅩ線攻撃も検討された。

 1930年代には、それまで温泉や食品などに用いられていたラジウムラドンが、重大な放射線障害を引き起こすということが明らかにされた。

 アスベスト石英ヒ素ラドン、Ⅹ線等の健康被害について、ナチスドイツの研究は、英米や日本より数十年進んでいた。こうした研究の推進は、労働効率の向上と、健康な労働者国民の育成を命題とする党のイデオロギーと密接につながっていた。

 [つづく]

健康帝国ナチス (草思社文庫)

健康帝国ナチス (草思社文庫)

 

 

『1984』George Orwell

 「ビッグ・ブラザー」率いる政府によってコントロールされた全体主義社会を描くディストピア文学。ザミャーチン『われら』等とともに、この種の物語のプロトタイプとなった本である。

 

 (1)窓のない、塔のような建物の中に浮かび上がる「真理省」その他の省庁。テレスクリーンがスミスらを監視し、敵であるエマニュエル・ゴルドシュタインを映し出す。それに興奮し、憎悪をかきたてられる市民たちの風景。

 (2)「戦争は平和、自由は隷属、無知は力」に始まる、政府の唱える空疎なスローガンの数々。

 (3)経済は衰退しており、また政府の発表は嘘で塗り固められている。真理省で働くスミスや彼の同僚たちも、嘘と抑圧行為に加担することが任務である。

 (4)このような末世の社会において、スミスは監視から隠れたところで日記を書く。かれはかすかながら、現状に違和感を覚え、また反感を抱いており、必死に自分の思考を書き留めようと努力する。

 (5)スミスは、自分を凝視する若い女ジュリアから告白される。かれは女のことを思想警察だと考えていたがそうではなかった。

 (6)同僚のオブライエンに勧誘されたスミスとジュリアは、秘密の反政府組織の一員となる。この組織は完全な非合法組織で、構成員は自己を滅して奉公しなければならない。

 オブライエンから渡された、政府の敵ゴルドシュタインの著作は、平等を目指す政治が、最終的に寡頭制に至る道筋を解説している。

 大衆から、独立した知性と思考を奪うためには、富や余暇を与えず、働かせているほうがいい。

 労働力の最も良い消化手段は戦争である。3つの超大国は、自分たちの既得権益を守るために、恒常的に戦争を続けている。云々。

 (7)二重スパイによって捕えられたウィンストンは、思想警察から拷問を受け、嘘の自白をさせられる。

 (8)拷問と尋問の過程で、オブライエンは党の存在意義について滔々と話す。党が目指すのはナチスドイツやソ連の体制をさらに純化させたもの、純粋な権力のみを追求する体制である。

  ***

 拷問を受け続けたスミスの肉体は破壊され、また交際相手を裏切り、自分に対する拷問を転嫁させる。それは、飢えたネズミに顔を食わせるというものである。

 収容所から解放されたスミスは精神を破壊され、ビッグ・ブラザーに対する忠誠を誓うようになっていた。

  ***

 主人公ウィンストンは、ネズミ拷問を交際相手であるジュリアに押し付けた。かれは、これを秘密警察側の嘘だと思い込んでいたが、実際に交際相手は拷問を受けていた。

 目の前にいない相手、顔の見えない相手に対してなら、危害を加えるうえでの道徳的なハードルは下がるものである。

  ***

 陰惨な拷問と尋問がこの本の中心である。全体主義と、秘密警察の地獄絵図がこの物語に集約されている。 

Nineteen Eighty Four

Nineteen Eighty Four

 

 

◆参考