うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『シベリア出兵』麻田雅文 その1 ――ゲリラ討伐に失敗しても撤退できない日本軍

  ◆所見

 シベリア出兵Siberian Interventionは日本の歴史を学ぶ上で非常に興味深い事項である。

 出兵の顛末は、その後の日中戦争だけでなく、歴史上の様々な失敗戦争と共通する点が多い。

・どのように撤退するかの見通しが甘いまま派兵する

・ゲリラ戦に引きずり込まれ決定的な勝利が不可能となる

・既に兵と予算をつぎ込んでいるため、すごすごと撤退することができない

・人道的理由や、自衛を掲げながら、実際は権益や国際的発言力の確保が動機となっている

 ロシア内戦や中国軍閥における日本の関与を知る上でも大変わかりやすい本である。

 さらに特務機関の活動、内戦中の白軍との協力について調べる必要がある。

  ***

 

 

 序章 ロシア革命勃発の余波

 第1次大戦前夜、日露は協約関係を結んでありもっとも良好な関係にあった。

 1917年10月の革命によってソ連臨時政府が崩壊し、レーニントロツキーらによるボリシェヴィキ政権が誕生した。

 ドイツとソヴィエトの単独講和は英仏に衝撃を与えた。英仏はソヴィエト政府打倒と東部戦線の再構築を計画した。

 

 1918年3月、英軍がムルマンスクに上陸しロシアへの干渉が始まった。同時に、日米に対しウラジオストク占領と港の物資確保を提案した。

 ウィルソン大統領はメキシコ革命干渉の失敗から極東出兵に反対した。日本も、寺内首相、元老山縣らが「連合国全体の協調を待つ」とし同意しなかった。

 一方、本野一郎外相と「出兵九博士」は、シベリア治安維持と帝国の自衛、日本の発言権拡大、領土獲得を理由に出兵を主張した。もっとも、九博士は出兵後のヴィジョンを共有していなかった。

 与謝野晶子中野正剛石橋湛山吉野作造らは出兵に反対した。

 海軍は、3月に居留民保護のため戦艦を寄港させ陸戦隊を上陸させた。

 最大の出兵派である陸軍参謀本部は、田中義一を中心に、中国軍との共同行動によるシベリア進出と親日政権樹立、指導を掲げた。

 陸軍、海軍の特務機関がシベリア・ロシア、満州各地で諜報活動を行った。中露国境において日本軍工作員義勇兵は、ハルビンのホルヴァート、アムール・コサックやセミョーノフ軍などを支援した。

 

 1 日米共同出兵へ

 チェコスロヴァキア人からなるチェコ軍団(規模3万8千人程度)は、マサリクの指揮の下、ロシア帝国軍に協力していた。革命後、かれらはシベリア鉄道ウラジオストクに向かい、そこから船で西部戦線に合流しようと考えていた。

 しかしシベリアで赤軍と対立すると、装甲列車を占領しソヴィエト政府に反旗を翻した。

 チェコ軍団がシベリアで孤立しているといううわさが広まると、救出のため、アメリカは日本を誘い共同出兵を決定した。

 

 1918年8月、日本は1万2千人をウラジオストクに派遣した。続いて米国、英仏も出兵を開始した。

 出兵に連動して米騒動が発生し、約9万の軍が鎮圧にあたった。軍は機密費を新聞社につぎ込み、出兵肯定の世論工作を行った。また政府は、出兵に反対する新聞社に対し検閲や発行禁止の処置を行った。

 出兵の際、日本はアメリカとの合意を破り、7万2400人を動員した。これは他国に比べて群を抜く規模だった。

 日本軍はウスリー(沿海州)、ザバイカル州までの進出したため、アメリカとの摩擦が生じた。

 武藤信義陸軍少将は、組織効率化のため、ハルビン特務機関をウラジオ派遣軍司令官統括・参謀本部統制に改変した。

 革命勢力撃退と合わせて、沿海州を根拠としていた朝鮮人移住者、民族運動勢力の鎮圧も行った。

 

 1918年9月、寺内を継いだ原敬内閣は、出兵の抑制を目指した。原は田中義一、山縣らと協調し、兵力を2万6千人に減らすと決定した。

 しかしアメリカの不信はぬぐえず、指揮権の問題、鉄道の管理をめぐって紛糾した。

 

 ――シベリアでの内戦は、シベリア鉄道沿線に点在する都市と、それを結ぶ鉄道の争奪戦だったともいえる。……鉄道こそが内戦の行方を左右しただけに、どの国が管理するかは重要だった。

 

 シベリア東部鉄道と中東鉄道は、1919年2月、連合国管理委員会のもとに置かれることになったが、そこでも日米の摩擦が生じた。

 1918年11月には第1次世界大戦が終結し、チェコ軍団の救出も終わった。しかし連合国はシベリアから撤退せず、迷走を始めた。

 

 2 広大なシベリアでの攻防

・8月には氷点下になるため、日本軍は凍傷や酷寒に苦しんだ。

・ロシア人民を守る人道的派遣と謳われたが、パルチザンとの戦いの過程で農村集落への報復が相次いだ。

・特にアムール州は激戦地で、1919年2月、田中大隊が次々とパルチザンに包囲され約300名が全員死亡した。

 

 ――責任は兵士にはない。そもそも、第12師団は担当する地域が広すぎ、兵力が分散していたからだ。

 

・報復として日本軍はイワノフカ村を襲撃し、ゲリラと村民あわせて100名から290名が殺害された。

 

 ――パルチザンは、日本軍がシベリア全土に散ったところを狙って、ひそかに兵力を集中させた上で、施設を破壊したり、日本軍が少数なら奇襲をしかけた。勝利すると、ただちに撤退してしまうので、捕捉するのは難しい。

 

・各駐屯地や市街に売春宿がつくられ、梅毒などの性病が蔓延した。

・1918年11月、オムスクの全ロシア政府でクーデタが発生し、アレクサンドル・コルチャーク海軍中将が全ロシア軍最高総司令官となった。

 当初ブリヤート系のセミョーノフは反発したが、やがてコルチャーク指揮下に入った。

・コルチャーク政権は列強の承認を受けたが、圧政により基盤は間もなく崩れた。

 

 ――厳しい統治で民心が離れた。1919年3月中旬から、シベリア鉄道沿線に戒厳令が施行されたほか、検閲はむろん、令状なしの逮捕、裁判抜きの銃殺は日常茶飯事となる。なかには、日本軍を真似て、パルチザンに協力的とみられた村落を焼く部隊もあり、徴兵と合わせて住民の反感を買った。

・フルンゼ率いる赤軍の進軍により、1920年1月、コルチャークは司令官称号を南ロシア軍デニーキン陸軍中将に、ロシア東部の全権をセミョーノフ陸軍中将に譲った。

 首都イルクーツクで反乱が起こりコルチャークは捕らえられ処刑された。3月には赤軍イルクーツクに入城したため、各国は撤退を急いだ。

 [つづく]