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The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『幕末の天皇』藤田覚 その2

 4 鎖国攘夷主義の天皇

 孝明天皇即位の時代には、外国船が次々に訪れ開国と通商を要求していた(1844年以降)。

 幕府はアヘン戦争の二の舞を避けるために、朝廷や諸国大名に助言を求めた。

 1853年のペリー来航後、幕府は日米和親条約、日英和親条約、日露和親条約を締結し、朝廷に事後承諾を求めた。

 朝廷は、外国からの圧力に対し、ひたすら神社・寺院での祈祷を進めた。しかし内部では、開国論とそれに反対するものとで内紛が起きていた。

 日米修好通商条約の締結に際し、孝明天皇が幕府の調印要求を拒絶したため、朝幕の軋轢は決定的となった。

 

 ――……調印以前に朝廷の勅許を求めようとした背景には、条約締結に対する強い異論を、勅許により天皇の権威を利用して封じこめるという意図とともに、簡単に勅許が得られるという読みがあった。……よもや朝廷の強硬な反対により勅許を得られないという事態がおころうとは、思ってもみなかったようだ。

 

 条約拒否の勅答をめぐっては、下級官人が攘夷を求めて押し寄せるという公家一揆が発生している。

 大老井伊直弼が朝廷を無視し条約調印を通知したため、孝明天皇は激怒し攘夷派の水戸藩徳川斉昭)、御三家、御三卿、諸大名に手紙を送った。

 井伊直弼は対抗策として攘夷派を弾圧した(安政の大獄)。

 

 5 江戸時代最後の天皇

 その後、孝明天皇は公武宥和を唱え、幕府が一定の期間を経た後、鎖国をするならば問題はないという考えになった(公武合体鎖国攘夷)。

 しかし、尊王攘夷の志士たちによるテロ活動と圧力が強まった。

 朝廷の権威がさらに強まる一方、孝明天皇公武合体派(会津藩薩摩藩等)の意思はかき消されていった。

 

 ――草莽の志士と尊攘派の公家が公然と結合し、尊王攘夷はより過激なものとなっていった。……いわば朝廷が尊攘派に乗っ取られた形になった。

 

 孝明天皇公武合体派の公家は、「八・一八の政変」で朝廷内から過激派を追放した(七卿落ち)が、以後幕府に追従する方針しかとれなくなり、支持を失った。

 孝明天皇は1865年、四か国連合に対する通商条約調印に同意したが、これは開国派への大幅な譲歩だった。さらに幕府の長州征伐に勅許を与えたため、尊攘派から完全に見放された。

 

 ――公武合体・大政委任という江戸時代の朝幕関係、ひろく江戸時代の国政の枠組みをあくまで守ろうとする孝明天皇は、まさに「江戸時代の天皇」そのものであった。しかし、江戸時代の政治体制を変革しようとする動きが強まるなかでは、早晩否定されざるをえなかった。

 

 天皇は1866年に36歳で死亡した。当時から毒殺の噂がたち、亡霊騒ぎも起こったが、いまだに真相はわかっていない。

 践祚した明治天皇は幼少だったので宮中はクーデターに向けて邁進した。

 

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 ◆所見

 帝国主義列強の圧力という危機に際して、朝廷や幕府などそれぞれの勢力が右往左往している様子を認識した。

 現実は複雑であり、最適な答えが、簡単に出てくるということはないようだ。

・大義名分、正統性はいつの時代でも一定の力を持つ。よって、単純な武力と軍事力だけで、社会が安定することはない。

・ある勢力に対して協力を仰いだり、支援を募ったりすることは、その勢力に対し、一定の力を与えることである。

孝明天皇の動きを検討すると、自分のとった行動が思わぬ事態を引き起こしていることが確認できる。

 

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 メモ

 尊王攘夷派:三条実美その他

 岩倉具視:当初、公武合体を唱えるが後大久保利通とともに王政復古へ転向、新政府の要人となる。

 

幕末の天皇 (講談社学術文庫)

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