うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『近代とドイツ精神』山本尤

 帝政からナチス時代にかけてのドイツ精神を概観する本。また、NSDAPと大学、作家との関係について詳しく書かれている。入門者にはわかりやすい。

 著者はゴットフリート・ベン研究者でもあり、この詩人とナチスの関わりが言及されている。

 

 Ⅰ 近代との対決

 第一次大戦前夜に爆発した表現主義はヨーロッパ芸術の集成たるのみならず、「ドイツ社会の近代化の特殊性、ドイツにおける芸術の歴史の特殊性」を反映させたものでもある。

 ドイツにはボードレールが提唱するような意味のモデルネは生まれなかった。ボードレールを感心させたワーグナーも「ドイツ的、国粋主義的、ヴィルヘルム主義の音楽的・演劇的権化」としか捉えられていなかった。

 ――それというのが、ドイツでは市民革命を経験しないままに、近代的ブルジョワ社会の発展が一八七〇年の統一まで著しく遅滞していて、芸術の領域でも閉鎖的な地方主義に対応して、内面的な現実逃避のロマン主義と土着的宗教的神秘主義の傾向が根強く支配していたためであったといえよう。

 後進国ドイツでは様々な芸術運動が一挙に輸入されたが、それが表現主義の特異性にとって重要となった。十九世紀末、ベルリンは急速に「肥大し工業化し軍事化していった」。急激な社会の変化に反発して、「空想の反世界」をつくろうとしたのが表現主義者たちである。

 表現主義者の敵は近代都市だったが、マルクスのように社会問題として明確に批判したわけではない。表現主義は「反ブルジョワ的で無政府主義的であると同時に、反プロレタリア的で貴族主義的であり、その本質において政治的革命家であることを意味しない」。

 表現主義の継続期間は短く、やがてナチズム共産主義の両面から攻撃をうけることになる。近代の矛盾にたいして、ナチスが共同体の生、「血と大地の文学」をかかげる一方、表現主義は「個人主義的変革」、「原初的なもの」、「原人間」をうたった。表現主義ナチズムには、若干の共通点があった。

 ナチズムは「理性と非合理主義の奇妙な結合、技術とファシズムの」結びつき、ロマン主義と科学技術の和解である、とマン、ベンヤミン、ユンガーらは言った。

 ――ナチの表現主義弾劾は、反近代の近代への攻撃という次元のものではなく、芸術の自立性を認めず、いかなる知的マイノリティも許さない全体主義体制の政治論理からのものであった。

 同じくロシアアヴァンギャルドソビエトが安定すると迫害された。アヴァンギャルドはブルジョワ資本主義と自由民主主義のなかにのみ存在する。ベンがその文章でさんざんがなりたてていたように、表現主義は「美的経験だけで生を正当化する」。よって道徳は捨てられ、結果としてそこにファシズムが入り込んだのだ、とルカーチは批判した。

 表現主義は当時の近代性に強く反発した近代だった、と山本は言う。

 ワーグナーがその著作で用いる「モデルネ」とは合理工業科学技術的なことがらを示す。普仏戦争に負けたフランスが世紀末に突入したのにたいし、ドイツは経済発展と科学立国をかかげこれを「世紀転換期」と呼んだ。この時代はブロッホによれば「擬似バロック、擬似ルネサンス、擬似ゴシックの時代であった。その当時、西欧の生の様式は……市民的狭隘さと同時に市民的虚飾と化し、安全であるだけにまた息苦しい社会的連帯形式と化していた。まさにこの時代は、実質の貧しさが外面の豊かさによって隠蔽された……」

 しかし二十世紀以来こういう批判をうけない文明があったろうか。シュペングラー、ノルダウ『堕落』。ワーグナーはヨーロッパにおいて世紀末デカダンス覚醒の役割を果たしたという。当時芸術は市民社会の暇つぶしにまで落ち、個人は孤独を感じるようになった。彼が行ったのは「古代においてつかの間実現しかけた芸術による社会的融和、人間と人間との垣根が取り払われた共同体の夢」を復活させる試みであり、それが彼の劇場だった。

 古代と神話への回帰! ワーグナーからラファエル前派までを席巻したこの傾向が、保守と停滞を生み出したのだとされる。ウェーバー曰く「ワーグナーのマギー(呪縛)を発散する芸術は、いつしか現実社会の原理(権力と富)と癒着してゆく」。ニーチェはこのワーグナーの復古が模倣にしかすぎないことに気づき、絶縁した。

 ニーチェが批判したこと……現実を変えるのではなく現実についての観念を変えること、芸術のなかで自己実現すること。ワーグナーは彼の批判を生涯理解することがなかった。

 バイロイトはヴィルヘルムⅠ世とビスマルクの付属品だった。

 「バイロイトの歴史は、芸術が政治権力と癒着してゆく歴史でもあった」。

 世紀末は芸術パトロン衰退の時代でもあり、多くの芸術家は窮乏生活を強いられるようになった。ワーグナーはその中の例外である。

 十九世紀までは小説より演劇がはるかに多くの観客をもっていた。小説は婦人の読み物にすぎず、ブルジョワも民衆もみな町の劇場にかけつけた。ホフマンスタールは演劇のなかで古きオーストリア帝国の調和復興をこころみた。一方ダヌンティオは芸術が単なる芸術にとどまるのをよしとせず戦争へ参加した。彼の行為はパウンド、オーデン、三島由紀夫にも影響を与え、また芸術と政治の一致という点からソ連によって高く評価された。

 1980年代の現代ドイツ文学について……オルタイルによれば五つの傾向があるという。まず「人工的で、演技された、推測された、模倣された、鏡像のような、判じ絵のような」錯・現実性の文学。つぎに言語の織物的文学。次に「醜いもの、アブノーマルなもの、非難されるべき忌まわしいものに興味を示す視線でもって呪物というか物神というか、そうしたものを持ち出そうとするもの」、イエリネク。つづいて「神話的な呪文の再生を目指す秘儀的かつ崇高な文学」で、たとえばボート・シュトラウスなど。最後に千一夜物語的文学。

 ボーラー曰くモデルネの美は「破壊と揺さぶりのカテゴリー」である。ポスト・モデルネ人は総じて現代を批判する。ポスト・モダン小説にたいする「ご大層なおとぎ話と神秘的―寓意的ゴシップを並べた小説」という批判。イーハブ・ハッサンのポスト・モデルネ目印……「不確実性、断片化、規範の解体、「自己」と「深層」の喪失、示しえぬものと表現しえぬもの、イロニー、雑種化、祝祭化、パフォーマンスと参加、構築性格、内在性」。

 山本尤はポスト・モデルネも特別の様式ではなくモダニズムの再生でしかないと考える。

 

 Ⅱ 「ファシズム」をめぐって

 第三帝国と大学……ワイマール共和国時代から、大学には保守反動の傾向があり、国家による統制を強化しようという動きがあった。一方で、ナチス時代の大学には不思議なことに一定の自由があった。

 ワイマール時代、大学の大半はプロイセンにあり、なかでもベルリン大学が中心となっていたため、実際には国粋的な色彩が濃かったという。大学は「その体質上きわめて強いファシズムとの親和性をもっていた」。この時代から大学には反ユダヤの風潮があったという。

 ナチスは大学を信用せず、また未知の世界だった。ナチの大学政策は表面的な管理にとどまり、時とともに教授および学生の反ナチ感情は高まった。イエナ大学は「褐色の大学」とよばれ、キール大学は「特攻隊学部」(法学部)をつくったが、こうした改革は一部にとどまった。

 「一般にヒトラーナチス体制は、指導者とそれに服従するものとの縦の一枚岩にがっちり構成されていたと考えられているが、事実は決してそんな単純なものでは」ない。学問の独立を信じるアカデミズムは根強いものだった。

 ――全体主義国家は、学問的精神、これはまたつねに批判的精神でもあるが、これを一方で恐れ、学問的客観性を「客観主義」、「市民的偏見」として誹謗しながら、他方でこれを推進しなければならないというディレンマの前に立っていた。

 要するにナチスは武装バカの集団だったということだろうか。大学を管理する方法が稚拙なのはそのためだろう。若手は学問を避けて実業界や軍に職をもとめるようになった。

 非政治的な、さしさわりのない研究を続ければ大学に居続けることもできた。ナチスは大学を完全にナチ化することができなかった。

 「シュミットは国際法に、クリークは人間的文化学へ、ハイデガーヘルダーリンに託した存在論的研究へ」内面亡命をしていた。山本尤によればナチよりも伝統的な制度のほうが強かったからだとのこと。

 シュミット、クリーク、ハイデガー……シュミットの法学はあらかじめ基準を立てるのではなく素材そのものから考える「状況法学」なり。彼の『政治的ロマン主義』はベンヤミンルカーチにも賞賛されていた。一方「国内の対立が重大な脅威となるときには、平穏、安全、秩序を確立するという国家目的のために、国家の敵(国内の敵)を決定しなければならぬという権力政治思想をもっていたことから、彼のナチ加担を当然視するものもいた」。

 一九三三年シュミットは党員になり、一挙に桂冠学者の地位にのぼりつめる。翌年のレーム粛清事件で突撃隊幹部が殺害されたときには、身の危険を感じてヒトラー支持の声明を発表する。

 ――ナチは、自らの大義に体裁を与えるため、その初期にシュミットの名声を利用しただけであって、シュミットが実際に影響力を発揮し始めるやいなや彼を排除してしまい、結局、シュミットは全体主義独裁の確立に手を貸しただけであった。

 クリークは大工の息子に生まれ、小学校教師として働きながら研究によって名誉博士号を授かった実力出世の異例人だった。彼は教育問題について積極的に発言したが、保守的なワイマールでは受け入れられなかった。ワイマールに失望したクリークはナチ党に加入するが、これは「彼の仕事が、教育改革という不可避的に体制の力を借りねばならない領域のことだったから」である。

 ――先のシュミットの場合、現実肯定の上での分析的学問の限界が露呈した例と述べたが、クリークの場合は、現実突破、現実改革を目指す積極的学問の政治の場であらわになった悲劇を示すものともいえよう。

 ナチでの教育改革が不可能とわかるとクリークは親衛隊も脱退し、学長職も辞する。文相ルスト、ナチの幹部ローゼンベルク(彼は高潔で押しが弱かったので肩書きに沿う権力をもてなかった)。

 ハイデガー……弁明者の口調「自分がその座にとどまって牽制するつもりだった」。彼のナチ党在籍期間はわずか九ヶ月だった。

 「ナチのイデオローグたちは、本能的にその(ハイデガーの発言の)背後に隠された自分たちには危険な知性の刃を感じとったのだろう」。

 ファリアス『ハイデガーナチズム』はフランス現代思想界に大論争をまきおこした。日本の西田幾多郎と同じく、ハイデガーの積極的発言はナチ政権安定に大きく寄与した。かれは「学者の中で最強のナチ闘士」と呼ばれた。

 ファシズムと文学……ナチによる国籍剥奪者は数千人にのぼるが、そのなかで作家の比率が異様に高かった。

 「ナチが文学のもつ社会的な潜在力をいかに恐れていたかを示している」。

 二〇年代以前の国民的・民族的な文学も広く読まれた。ここにフレンセン「イエルン・ウール」がある。転向者は大勢いた。個人の思想は組織的弾圧の前では無力だという。

 ――文学の行動主義的政治化の要請から距離を取ろうとすると、必然的に向かう方向は、歴史小説や無垢な少年時代や自然へ退却するいわば敗者の選択であって、第三帝国におけるほど時代を超越した田園詩、若き日の思い出、宇宙的調和を描く自然詩が書かれ印刷された時代はないと言われる。

 しかし彼らを切って捨てよと言うのも、ナチスと同じで文学を政治闘争の武器に使おうという思想に基づくものである。

 あまりにうまくカモフラージュされた抵抗小説『父親』や『大暴君と審判』は、ナチ批判をこめていながら国防軍の推薦図書にされてしまった。ユンガー『大理石~』も然り。

 「「行間の抵抗」とは、戦後になって持ち出されたもので、自己正当化ないし良心の呵責からくる集団弁明とさえ言われる」。

 弁明は終戦後の流行語のようだ。

 「内的ニヒリズムの政治的決断主義への能動的転化」、これが危険の一因だと山本は言う。戦後ベンもユンガーも政治から隔絶した「悩みと夜のひとりごと」を歌うようになる。

 一方亡命文学者は主義立場の違いから統一戦線をつくることができず、スペイン内戦に参加するものもいれば自殺者も出た。埴谷雄高曰く「バルザックが王党派であろうとなかろうと、それはバルザックの作品を割引もしなければ、それにつけ加えるものもない」。

 戦後も亡命者と残留者との論争、東西ドイツ分裂など、文学者は政治に翻弄されつづける。

 国内亡命者と国外亡命者の対話は興味深い。責任、罪科、こういう解決のない問題をいつまでも蒸し返す人びと。自分の職務をまっとうしていたドイツ人はすべてナチスに加担していたといえるだろうか。それを集団の罪というのか。

 

 Ⅲ ゴットフリート・ベンとエルンスト・ユンガー

 ベンと表現主義……表現主義の定義については多くの論争があり、またベンが表現主義を超克して純粋詩に進んだという見解も保留する必要があるだろう。非合理的なものへの共感は反動に至るとクラウス・マンはベンを批判した。やがてベンのみならず表現主義自体がファシズムと結びつくものとして非難されるようになる。

 ベンは自分の中期以降の作品を「第二次相」と名づけ、あらゆる現実から隔絶した殉教者、苦行僧的スタイルだと述べている。

 ――最近の表現主義論では、E・ローナーやW・エムリヒなど、言葉の変形、経験的現実から解き放たれた形象、絶対的な機能主義、多次元主義による新しい世界の創造を、あの世代の功績として高く評価しようとしている。これはそのままベンの歩みであり、ベンが自らに課して来た要請であった。

 ベンらを表現主義の古典とよぶことはできるが、あくまで表現主義とは第一次大戦前後の若い文学者たちをまとめた言葉であるにすぎない。ベンは形態、形式、規律を究極のモラルとする。

 ベンのニーチェ解釈……ニーチェニヒリズムを解決するためにベンは形態を絶対視した。ところがマルクス主義に攻撃されると、彼は「生の偉大な興奮剤としての芸術」を求めはじめる。ニーチェ曰く「人間がいよいよ矮小になって行くことこそ、もっと強い種族の創造を考えさせる動力」。

 いまだかつて誤解されなかったニーチェはない。体系的総合をおこなう哲学者のあいだでも、ニーチェをどうとらえるかは種種様々である。本当のニーチェはどこにもいない。

 ナチ接近が失敗におわると、彼はニーチェをも批判する。

 ――「精神それとも生! 生の中の精神の実現はもはやありえず」、「存在するのはただ観照し苦悩する精神のみ」で、生は「子供と奴隷の夢……低劣な幻想」になり下がる。

 「現実を掘り崩すように奇形化し、はるかなものをめざして殺到し、そして現実があまりに狭く、超越があまりに空虚であるために挫折する」とフリードリヒは現代詩の宿命を定めた。

 ベンの詩は医学、古生物学、思想史、発動機(機械工学)、新聞用語、地口、卑語あらゆる分野の名詞を平地させるモンタージュ技法が特徴である。ユンガー曰く「専門用語は専門家を呼ぶ」ともいうが、ベンの名詞への執着がドイツ現代詩をフランスやイギリスのレベルまで引き上げたのは疑いがない、と山本は言う。モンタージュは「空無と、空無に記しづけられた自我」しかない今日の世界での最後の秘儀である。

 「形式」における実験と伝統……表現主義者が形式の破壊を叫んでいたときに、狂信的な形式守護者としてあらわれたのがベンとヴァインヘーバーである。ヴァインヘーバーはクラウディウス、メーリケにつらなる、ベンとはまったく異質の作家である。構成的精神をもつ二人はともにナチスに協力し、ヴァインヘーバーは自殺した。

 ヴァインヘーバーは純粋古典主義者で、注文に応じてカレンダーの詩句や挿絵の説明を書いた、曰く「数多の教会堂や彫刻も注文によってつくられた」。

 ブレッカー「文学的勝利を作り出すのは、つねに文学外のこと」。

 フォレスティエ事件とは、書店長クレーマーがフォレスティエという架空の人物を騙って詩集をベンに送り、これを激賞したベンによって世界各国に支持されたというものである。ナチ武装親衛隊から外人部隊へ転籍し、インドシナ戦線で消息を絶ったというフォレスティエの経歴にベンはじめとする文学者は担ぎ上げられた。

 ナチスによる発禁時代に忘れられかけていたベンが戦後にブームを巻き起こした。これはベンの絶対詩、シュルレアリスムとの類縁が若者に受け入れられたためである。

 ドイツ文学は六十年代からは日本と似たような道をたどり、最終的に政治の季節はおわる。政治参加文学の音頭を取ったのがエンツェンスベルガーである。若手の傾向が「自我と外界の接触点の瞬間のけだるいスナップ」にせばまるころ、再びベン・ルネサンスの兆候があらわれる。

 「そこではブレヒトが流行遅れの過去のものとして、屑鉄のように投げ捨てられたという」。

 ――一九六八年の政治的ユートピアが挫折し、キューバやヴェトナムへの希望が消えうせ、無感動な復古調の中での諦念的亜文化に逼塞する一種の内的亡命者たちは、ベンの歴史ペシミズム、技術と進歩の拒否、内面への英雄的道を、五〇年代のときと同様に、今また、自分たちのルサンチマンの捌け口に利用しようとするのであろうか。

近代とドイツ精神

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