生物学の古典を読んでみたが、意外と読みやすかった。ただし実際に理解できているかどうかは別である。
序言より……生物の生態がすべて外的条件、習性、生物自身の意思によるものであると考えるのは正しくない。そこで彼が提唱する考えが<生存闘争>、<自然淘汰>、<形質の分岐>である。
第一章 飼育栽培のもとでの変異
飼育栽培された動植物のほうが、自然におけるよりも大きな個体間の差を示している。
環境の変化にもっとも敏感に反応するのは生殖系統だが、不稔性(繁殖できなくなること)と変異性(変種を生みだすこと)とは近いところにある。外的条件よりも習性のほうが大きい作用をおよぼす。乳搾りに使われてきた家畜は乳房が大きく、危険にさらされてこなかった動物の耳は垂れてくる。
成長の相関とは、「胚または幼生におこったいかなる変化も、ほとんど確実に、成熟した動物における変化の原因になる」。また、ある奇形部とある奇形部のあいだに相関をみとめることができる。たとえば、目の青いネコはかならず聾である、など。
「遺伝的な構造の偏差は、軽微なものも生理的にかなり重大なものも、ともに無数にあって、その多様性も無限である」。遺伝する変異と、遺伝しない変異を区別する定義は、「どんな性質でも遺伝するのが規則で、遺伝しないのが異常であるとみなすことであろう」。
さまざまな飼育栽培種が一つの野生種から派生したか、いくつかの野生種から発したかは解明することができない。アボリジニが古代よりはるか昔にエジプトにすんでいなかっと断言できるものはいるだろうか。
しかし飼育品種のハトはすべてカワラバトから発したものだろうと彼は言う。「ハトは何千年ものあいだ、世界のほうぼうで飼育されてきた」。
――すべての品種がいまみられるような完全な、また有用なものとして、突然に生じたとは想像できない……そのかぎは、選択をつみかさねていかれる人間の能力にある。自然は継起する変異をあたえ、人間はそれを自分に有用な一定の方向に合算していく。この意味で、人間は自分自身に役立つ品種をつくりだしていくのであるといえる。
育種家たちの「選択の原理」によって、優良種や理想的な品種がつくりだされるのだ。あらゆる作物、血統をもつ犬らは品種改良家の才能によって導かれたものである。最悪の種は排除される。選択の原理が方法的(methodical)に行われるようになったのは近年のことだが、原理自体は古代からの歴史をもつ。
――……選択の方法と注意ぶかい訓練とにより、イギリスの競争ウマはみな、祖先であるアラブ種を速さでも大きさでも追いこしてしまった。
競馬も種に深くかかわるものだ。無意識的な選択によっても種は変化していく。よい種は劣った種よりも子孫を多く残す機会にめぐまれる。ティエラ・デル・フエゴなる野蛮人は「食物の欠乏したときに老婆をイヌより価値のないものとしてころし、食ってしまう」。
いいものを選んで、それだけをさらに繁殖させていく。古来よりこの無意識的選別がおこなわれ、果実は大きくなり、花は美しくなった。一人の育種家が大変貌をさせるのとは異なり、何世紀も、何千年もかかえて変化していく。だから未開の土地には有用な栽培植物が少ないのである。
人間による選択は視覚に基づくため、外的形質にもっともよく特徴あらわれる。「だが実際には、品種というものは国語の方言のようなもので、それにはっきりした起原があるとは、いいがたい」。
ネコは夜行性でうろつく習性があるので、望みのつがいをつくることができない。「それでネコは、女や子供にとてもかわいがられているのに、むかしからはっきりした品種がほとんど維持されてこなかったのである」。結論、変種の交雑などよりも、「選択」の集積こそがはるかに力をもつ。
第二章 自然のもとでの変異
分類の定義は上から「界門綱目科属種」という。変異、奇形の遺伝し定着したものを変種とする。そうでなくても、クローンが生まれるわけではなく「個体的差異」がある。こえれは自然選択のとき重要になる。種、変種の認定はあくまで博物学者の推理にすぎない。学者間でも分類に差が出るという。種と亜種のあいだも然り。ダーウィン曰く、変種は亜種へ、やがて新たなる種に至る。これが祖先種より多数になれば、逆に祖先種が変種とされることもある。
その種が繁栄していればいるほど、変種もまた生じやすい。生存競争の開始時にすでに有利な位置にいるからだ。小さな属も、大きな属も絶えず変動している。「このようにして全世界の生物の諸種類は、ある群からその下の群へとわけられていくのである」。
第三章 生存闘争Struggle for Life
――われわれはみごとな適応を生物界のいたるところ、あらゆる部分で、みるのである。
自然選択Natural Selectionは人間の選択とは比較にならない力をもつ。これによって生物は適応させられていく。生存闘争は自然界の秩序である。「分布、希少、豊富、絶滅、変異」などはすべてこの秩序の一環である。
――生存闘争は、あらゆる生物が高率で増加する傾向をもつことの不可避的な結果である。……このように生存の可能な以上に多くの個体がうまれるので、あらゆる場合に、ある個体と同種の他の個体との、あるいはちがった種の個体との、さらにまた生活の物理的条件との、生存闘争が当然生じることになる。
淘汰がなければたったひとつの種でも地球を満杯にできてしまう。各世代の闘争では「幼者あるいは老者が不可避的に重大な破壊をこうむる」。
気候はもっとも強力な抑制作用だとダーウィンは考える。ひとつの種が栄えているところでは同種間の闘争がもっともはげしい。「強壮で健康で幸運のものが生きのこり増殖する」。
第四章 自然選択
ある土地は、隔絶した孤島などは別にして、たえず外来者の侵入にさらされている。土着生物は掃討され、侵入者が繁殖する。人間は外的・可視的な形質に選択をかけることができるのみだが、「<自然>は、いかなる生物にでもそれが有用でありうるのでなければ、外観にはかかわりをもたない。<自然>は、あらゆる内部器官、あらゆる度合いの体質的変異、ならびに生命の全機構にたいして、作用することができる」。
自然は常に形質の監視、改良をつづけ、劣ったものは排除する。鳥獣、虫の皮膚の色、果実に毛があるかないか、これら人間にとっては些細なことも自然に適応した結果である。
雌雄選択は生存闘争に関係するものでなく、「雌を占有するために雄のあいだでおこる闘争に関係がある」。強壮なものが最多数の子供を残し、そうでないものはめぐまれない。「雌雄選択は、つねに勝利者に繁殖をゆるすことによって、不屈の勇気、けづめの長さ、けづめのあるあしに打撃をあたえるつばさの力のつよさを、発達させることたしかであると思われる」。
自然選択はかすかな構造の変化や遺伝の集積としてあらわれる。小さな波がやがて断崖をつくるのと同じことである。
「多くの生物では二個体間の交雑が明らかに必要であり……自家受精が永久につづけられるものは一つもない」。
ミミズや陸生植物など雌雄同体のものも、交雑をおこなう。広大な土地に分布した種のほうが、形質の分岐をおこしやすい。よって優れたものになりやすい。大陸の生物は、島の原産生物を駆逐していく。多様な子孫をもつ方が有利だからだ。この形質の分岐と、自然選択の原理、絶滅の原理にはどのような関係があるのか。
変種はより形質を極端にしていき、中間のものより極端なもののほうが残る傾向がある。絶滅がおこるのは「自然国家」の場所に限りがあるからだ。
「どの種でもその改良された子孫は、それが生じる経過の各時期において、先行者やもとの祖先を押しのけほろぼしてしまう傾向を、たえずもっていることになる」。
また、「競争が一般に、習性、体質、構造において相互にもっともちかいもののあいだで、もっともきびしい」。