うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『ゴットフリート・ベン著作集3』

 肉の医師はひたすら外科医的な、猟奇風味のことばを使う詩である。評論によれば「即物的な死」、人間の物体化をあらわしたものらしい。

 初期の病院連作は猟奇的だが、「アラスカ」、「陶酔の満潮」はすばらしい。ベンは言葉遣いがおもしろいので読む気がおきる。彼の評論にあったとおり「ような」とか色彩は使っていない。名詞の力をふりまわしている。

 歌人……「かつて歌人が二元的に歌ったのなら、いま歌人は脳髄の原理による破砕者なのだ、時ごとに彼は総体の中に詩の夢想に迫りつつみずからの重き実質をたぐいなくかつゆるやかに織り込むのだ」。

 「その時はじめて」では……

 ――オリーヴある風景もティレネーの海もいまは大いなる知己ではない――その白い町は空虚であり、事物は実質の黙せるアーチの中にひそみ……

 まず最初にわめく、そのあとにくだくだしゃべる。動詞からはじまる。

 ――血に濡れてぼくらがこの世に来たとき、ぼくらは今以上の存在だった。今では親の心配や祈りがぼくらを切り刻んでちっぽけにした。ぼくらはちっぽけに生きる。ぼくらはちっぽけな望みを持つ。そしてぼくらの感受はおとなしい家畜みたいに意志の手から食べさせてもらうのだ。

 医学用語、歴史、神話、地名、機械と企業、糞、泥、塵、こういうものがごたまぜになっている。言葉をこねくりまわして吐き出すしかないのが脳髄詩人はこのような詩を書くという。

 

 「原初の日々」以降は茫漠としているが言葉は興味深い。しかしドイツ語がわかればもっと近づけるだろう。「きわまりなきもの」……「闘うものこそが創造にすすみうる。幸福の欠落した闘う精神」。

 

 戯曲

 イータカ

 医学部の授業中に学生とレンネが抗議する。教授は事実の積み重ねこそが最重要であるというがそんなものは知性のなかでももっとも卑しい領分である。しかし教授は言うそれ以上のことをやりたいのなら神学でもやれ。科学万能主義がドイツを席巻していた時代の劇。ベンはやはり笑いを重視している。

 ――問題なのは個別例ではなく、知識の体系化、経験の組織化、一言でいえば、個別研究の集積としての科学だということを。

 ――二百年前は科学も時代の要求に適っていました……しかし、その後二百年たった今では、たとえば先生がご自分の人生の三年間、ある脂肪類をオスミウムやニール青で染色できるかどうか確かめるのに汲々としているのを見て、これを噴飯ものと思わない人がいるでしょうか?

 ベン自身が医者であり「科学から合理的思考を学んだ」と言明していながら科学を批判する。しかし科学についてよく知らないものが科学というものは云々と批判できようか。科学は結局不可知論に行き着くとレンネは叫ぶ。

 

 三人の老人

 夢想的な時代にもみじめで泥と埃にまみれた現実はあったのだと老人たちは言う。北方と南方の対比はベンのみならずヨーロッパ文学に散見される。理論・理知・規律を重んじる、ベンやベルンハルトにとってはいまいましい北方と、その対極たる南方・地中海地方。

 ――マルセーユ、トリノテル・アビブを中国と比べて考えてみてくれ――すべてが道徳の向上と社会学の中心、歴史形成と理論の蒸留の中心なんだ――ところが他方では、まさにこの故にこそ、大地が太陽と月と海と共に劇の筋となるような国を憧れるんだ。椰子の実の匂う港を憧れるのだ。ソレントのこうした入り江はなんと柔らかく、唯美主義者の雑種どもにとって魅惑的な舞台装置であることか!

 古代・歴史の時代はおわったと老人は言う。

 「異教徒を機関銃で威して改宗させ、庭のホースで洗礼を施し、そのあとで連中を苦力としてこき使う、これはどうみても真理なんてもんじゃなかった」。

 しかしこれは没落ではない。「没落の醸し出す個人的気分を歴史哲学的に誇張する」のはくだらん。現代人の思考の根拠は諦念に基づく。しかしペシミズムではない。

 

 解説はツェラン訳者の生野氏で、ベンには批判的である。曰く後ろ向き、退行的、ペシミスティックだという。非合理主義が気に入らないようだ。しかし、言葉の使用法は彼の言うとおり広範な影響を与えている。