2 合理主義の解剖
◆合理的行為
混乱を呼ぶ「合理的」という語を、特に行為との関連から検討し、その起源や経緯について考える。本章では、合理的行為を望ましいもの、知的な行為として解釈する。
合理主義とは:人間の脳には理性が備わっており、この理性の力を使い、偏見や因習、迷信から解放されることにより、理想的な選択肢を得ることができる、とするもの。
合理主義は確実性を追求する。合理的でないと思われる考えは排除される。
しかし、行為に先立つ原理や目的、規則が存在するという考えは間違いである。人がある行為をする場合、かれはまず行為の伝統に基づいて行う。行為は「技能」から生まれる。
著者の繰り返す説は一貫している……白紙の人間、純粋に理論と原理から生まれる人間は存在しない。
真に合理的な行為とは、行為の仕方に関する知識への誠実さに基づく。合理性とは、行為の首尾一貫性である。まず行為があって、そこから規則や目的、原理が生まれる。
制度や伝統は、わたしたちが持つ道徳意識や倫理意識の表れである。だから、制度だけを取り出して他の人びとに移植するということは容易ではない。
具体的な行為の中に合理性は存在する。現在行われている慣習を否定する思想からは何も生まれない。
◆新しいベンサム
ベンサム(ベンタム)がどのような思想を持つ人物であったかを寸評する。著者は否定的な評価をくだしている。
ベンサムは、現代性を持ち、また様々な分野で実際的な貢献をした人物、実際的な人物であるとされている。しかし、こうした従来の評価を著者は否定する。
ベンサムはディドロやボルテール、ダランベールと同じく、18世紀の大陸の哲人philosopheに属する。哲人は知識を無差別に重んじる。また、哲人は軽薄で騙されやすく、混乱している。さらに、否定的な意味での合理主義者である。
かれらにとっては、知識の探求が生み出す人生こそが重要で、知識の学習や発見は二の次だった。そして、かれらはほとんど何の達成も、貢献もしなかった。
ベンサムは現実から遊離しており、かれの思想はほとんど何も改善、改革しなかった。ベンサムは一部の論者から現代性に富むといわれてはいるが、かれのやったことや、思考の傾向は現実性からはかけ離れたものである。
法に与えた影響は計り知れないが、その思想と哲学自体は、18世紀の哲人のものである。
◆歴史家であるという行為
過去とは、現在の解読である。目の前の現象に対する反応には、瞑想的なもの、実際的なもの、科学的なものの3種がある。
瞑想的な反応は過去をイメージとしてとらえ、価値判断をしない。実際的な反応は、過去を自分との関連において考え、評価し、解釈する。科学的な反応は、過去を自分や状況からは独立した値、原因と結果として認識する。
歴史家は過去を探求するが、その過去とは、特定の方法で現在の世界を理解する手順に他ならない。過去を瞑想的にとらえる例としては、古代から続く詩人や作家があげられる。過去を実際的にとらえることは、もっとも普遍的に行われている。あらゆる過去への価値判断が、実際的な認識であるといえる。
では、歴史家の認識とはどのようなものか。著者は歴史家の仕事が、実際的な態度と瞑想的な態度が混合したものから、「歴史的な」認識へと変化していったと考える。
歴史的な姿勢とは……過去を現在の理由としてはとらえず、また現在と関連のあるものとしてもとらえない。一切の価値判断や原因、起源等は含まない。つまり、歴史的な姿勢は科学的な姿勢と軌を一にしている。
歴史的な態度は過去を現在とは引き離して考え、また価値判断を行わない。よって、瞑想的、実際的のいずれとも異なる。
しかし、現在は実際的な歴史の見方が主流であり、「歴史家」はほとんど存在しない。
◆大学における政治学研究
大学において、政治学はどのように教育されるべきかについて論じる。
オークショットは教育を初等教育、職業教育、大学教育の3つに分類する。初等教育では初歩的な読み書き計算を教え、職業教育においては、具体的な技能、技術について教育する。
大学教育は、知識の結果や産物ではなく、知識の使い方について教育されるべきである。
私たちの文化は、製品や建築物といった物体と、慣習や思考様式、思想といった非物体的なものからなる。思想や哲学、思考法といった形のないもののうち、電気工事や工作、絵の技術といったものは、わたしたちの知識が生み出した結果である。
大学とは、科学的、哲学的、歴史的な思考法を学ぶ場であるのがよい。なぜなら私たちの無形文化の重要な部分がそこで発展するからだ。
政治教育においては、政治的用語の解説、政治制度、法律の説明、公務員向けの技能講習、「どう問題解決するか」、「投票行動はどのようなものか」、といった職業教育が主流である。
しかし、大学においては、思考法の教育が行われるべきである。
ここで、精神の文明は、生産物である「テクスト」、「文献」と、それらを生み出す「言語」に分別される。大学が教えるのは精神の「言語」である。
大学における政治教育は、政治学の古典や政治思想の古典を題材に、こうした文献を歴史的、または哲学的に考えるものであるべきである。現在の政治的話題や、直近の歴史は、どうしても自分たちの立場からとらえてしまい、実用的な教育に近づいてしまう。よって、古典を用いることが望ましい。
[つづく]
Rationalism in Politics and Other Essays
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