うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『カンボジア戦記』冨山泰

 ポル・ポトについてだけ読む。ポル・ポト派はクメール民族主義者であり、少数民族は排除せねばならなかった。ベトナムへの猜疑心が強く、少しでもつながりのある人間は排除せねばならなかった。

 「武力闘争のかなりの過程を自力で勝ち抜いたため、指導部がきわめて閉鎖的となり、自分たちの主義主張以外、一切受け付けなかった」、「ジャングル出身の兵士の多くは子供のころから洗脳されており、人間味に欠け、残虐性が身についていた」。

 

 民族主義ポル・ポトはいかにしてうまれたか。本名サロト・サル、当時カンボジアはフランスの統治下にあった。彼は小学校の成績は普通で、あまり目立たない少年だった。

 ――子供のころ、弟はとてもよい子で、近所の人に好かれていました。礼儀正しく、ニワトリも殺せない優しい子でした。それが、なんであんな人殺しになってしまったのか。

 フランスに留学したことでポルポト共産主義者になった。

 「弟は相変わらず礼儀正しく、年上の者を敬う好青年でした。私とは政治の話をほとんどせず、私を怒らせることなど一度もありませんでした」

 ポル・ポト派は一貫してベトナムに敵愾心を燃やしていたが、それが悲劇の根源だった。ベトナムカンボジア、タイは伝統的にお互い敵対している。ベトナム人はフランス統治の手先だとされた。

 ジュネーヴ協定によりベトナム共産軍が撤退した。ポル・ポトはジャングルから出て私立学校の教師となる。ポル・ポト派は教師やジャーナリストとなって国内に身をひそめる。

 シアヌークが政治家となり、共産勢力の弾圧に乗り出す。六〇年九月、活動家二〇人ほどが「プノンペン中央駅の空の列車にひそかに」集まる。ここで役割が決められ、ポル・ポトは序列3位の幹部となった。

 その後書記に任命されジャングルに姿を消す。六八年、ポル・ポト派はバタンバン州で警察署を襲い、武力闘争を開始した。ポル・ポト派は解放区の共同農場で、住民に厳重な生活統制を課した。収穫、財産はすべて「アンカ」(党中央)のものとなり、貨幣は廃止された。

 ――外部からの支援をほとんど期待できないという絶望的な孤立感、度重なる「裏切り」によって培われたベトナムへの激しい憎悪と猜疑心、クメール民族の栄光を取り戻そうとする極端な民族主義、そして毛沢東思想に感化された極左暴力主義が混合して、ポル・ポト派の狂気がはぐくまれた。

 当初のポル・ポト派兵士は厳しい軍規にしたがっており、カンボジア農民に絶大な支持を得ていた。七五年、首都プノンペンを制圧し、ロン・ノル政権が崩壊する。前年、軍最高司令官キュー・サムファンは中国からの武器援助をとりつけていた。

 強制移住と粛清がはじまった。ムスリムのチャム族、華僑は半数が殺された。拷問センターのひとつ、プノンペンのトゥルスレン刑務所では、「電気ショック、鞭打ち、水責め、宙吊り、生爪はがし」などがおこなわれた。拷問はスパイであると自白するまでつづけられた。

 同時にタイ、ベトナムと国境をめぐって軍事衝突がおこった。

 「ベトナム軍の侵攻を防げなかった東部地方軍に対する粛清がはじまった」。

 結果、東部地方の兵士、村民約十万人が処刑された。処刑をおそれてベトナムに逃れた幹部ヘン・サムリン、フン・センは当時のことをほとんどなにも語っていない。

 

 日本のPKO派遣について……ある国に恐怖を感じるのは、その国の過去・能力・意思によってである。日本の過去はいまだに強く残っており、「日本人は何でも行き着くところまで行ってしまう」とシンガポールのリー首相は言った。能力はアジア随一であったから、侵攻の意思がないことを示さねばならなかった。

 

カンボジア戦記―民族和解への道 (中公新書)

カンボジア戦記―民族和解への道 (中公新書)