うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『文学の思い上がり』カイヨワ その3

 

 第三編 人間のために

 公認の芸術家とのろわれた詩人の違い。公認の芸術家は、たとえば『神曲』のように、建築に似た霊感の統一様式をもっている。

 「建築は当然秩序であり、科学であり、正義であり、そして全く同時に美であり、奉仕であり、力である」。

 またそれは「集団的な作品」である。一方、のろわれた詩人は、これらの秩序を破壊し、無秩序をよびおこす。カイヨワが味方するのは建築家のほうである。

 のろわれた、社会にも文学の規範にも逆らう詩人は、家族と結婚を嫌悪する。それは制度だからだ。恋愛は、絶対的に「手本に従う」。恋愛はなによりも社会的なものであり、行う際は恋愛法学に自らを従属させる。彼らは手本にしたがってロマネスク(小説的な気分)を感じなければならないと考える。

 内乱は生活力のあらわれだが、猥褻文学が公然のものとなるのは、彼曰く社会の腐敗のあらわれである。小説はロマネスクをつくり、観衆は無邪気に登場人物を手本にする。

 「小説は、文学の領域全般を侵そうとしている」。

 無気力、狡猾、獣性、裏切り、単純なバカは書物のそれら要素に魔術をかけられる。これは経験ほど影響は強くないが、また経験がこれら堕落を提供するから、書物にもよく登場するのである。

 戦争の災禍をつたえる書物で、読者に彼らが待ち望んでいる暗い絵を提供しないものはない。小説読者は歓迎する。社会への憎しみと反抗を叫ぶ作家は、反対に「社会それ自身の頽廃を譲り受けているのである」。病気に酔ってますます容態を悪化させるようなものだ。

 嘆くのは倫理があるからだ。

 ――落胆が彼をこんなにまで捕えるのは、それは彼が幸福を強く願い、それに達することが困難であるのを知っているからである……

 彼は、自然に反対し人間に味方することを使命と考える。自然とは獣性や条理、スタイルを省みない心性である。

 彼はコンラッドが、それを達成した現代作家の一人であると考える。コンラッドは、小さな礼拝堂に祭られる作家になるのを嫌った。

 「率直な思想と、誠実な感動に関する、人間全体の連帯義務の確信」が、彼の立場である。これを人工的に得ようとして、厳しい党などに加わるのが、「アンガージュ」である、とカイヨワがいう。

 彼らは気晴らしの、浮世離れした芸術からこんどは極端に戦闘的な政治行動に参加する。

 「要するに彼らは、自分たちが空虚なことや、バカげたことや、つまらぬことばかりに没頭しているのではない、ということを自分に証拠立てるために」共産党に入るのである。積極的参加者のほとんどはかつてニヒリスト、絶望者であった。彼らは空虚を恐れた。彼らにとって大事なのはその党の正しさではなく、自分がそれに絶対的に服従することである。

 コンラッドのような作家は「何かの仕事をやりとげた後で、彼らがそこから得た経験を知らせるために文学にやって来る。彼らは必ずしも最も巧妙で、感嘆すべきものであるとは限らない。しかし、彼らはしばしば最も良心的である。誇張と放縦のわれわれの時代に、彼らの慎重さに霊感を得、彼らの声の響きに耳をかたむけることは、確かに有益なことである」。

 これは彼らの作品に責任感が含まれるからだ。支離滅裂な時代には芸術がまず率先して支離滅裂になろうとする。

 

 納得するところもあればそうでないところもある。