うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『「慰安婦」問題とは何だったのか』大沼保昭

 メディア、NGOが果たすべき公共的機能という観点から、慰安婦問題を検討する本。

 ◆感想

 本書が示す各主体の教訓は以下のとおり。

・政府……消極姿勢、「どう受け止められるか」という広報の軽視

・NGO……実現不可能な正義の追求、被害者を無視した理想論

・メディア……扇動

 

 自分たちの正義や倫理的欲求を満たすだけでは、被害者を救うことはできないというのが著者の考えである。重要なのは、真に被害者にとって利益になるのは何かということである。

 著者が主張するとおり、正義や倫理を実現するためには、現実的な思考が必要である。

 本書は、95年に設置されたアジア女性基金批判に対する反論が主要目的である。

 

 ――……メディアとNGOの担い手たちに、みずからが政治に関与する主体であり、政治では結果責任が問われるという意識が希薄だったことである。多くのメディアとNGOは、政府の政策を批判するという伝統的な役割をはたすにとどまり、限られた政治資源と選択肢のもとで最大限なしうることを追求するという政治の責任を引き受けることを回避した。

 

 政府、メディア、NGOがそれぞれ慰安婦問題にどうかかわり、またどのような失敗をしたか、アジア女性基金の当事者が振り返る。

 

  ***

 1

 著者は、侵略戦争の償いと反省を政府だけでなく国民で担うべきという立場である。

 

 ――結局、日本国民がそうした「妄言」を吐く政治家を選挙で選んでいるのである。国民はおのれの身の丈以上の政府をもつことはできない。

 

 村山内閣が設立したアジア女性基金は政府の援助と医療福祉支援を基盤とする組織であり、国民の拠金と政府の補償を一体化したものである。

 

 2

 村山内閣の解決について……

・政府の隠れ蓑だという内外メディアからの厳しい非難

・元慰安婦認定と保障という作業の困難さ

 

 ――文書による証拠と並んで証言、口述が証拠価値を持つのは、歴史学上も訴訟法上も確立していることであり……

 

・償い事業は、フィリピン、台湾、韓国、オランダ、インドネシアを対象とした。

・韓国、台湾には強力な支援団体があるが、韓国の団体は、慰安婦基金を、日本政府の責任逃れとして否定し、また元慰安婦が補償を受けるのを阻止した。

 支援団体は、基金から補償を受けた元慰安婦を金に心を売った人間と非難し、世論を考慮して、韓国政府も基金に否定的な態度をとった。

 結論として、アジア女性基金は韓国ではうまくいかなかったようだが、その理由が列挙される。

・日本政府の消極姿勢

・韓国政府の無為

慰安婦を全否定する政治家と右派メディア

・被害者と隔絶した強硬な日韓NGO

・韓国の反日ナショナリズム付和雷同した両国の左派やリベラルたち

 

 オランダは成功したが、インドネシアではほぼ無関係の福祉施設基金が使われた。

 

 3

 大前提となる慰安婦の認識について。

 

 ――もっとも多かったのは、看護婦、家政婦、賄い婦、工場労働者として募集され、現地に着いてみたら「慰安婦」として「性的奉仕」を強制され、長期間自由が拘束される状態におかれたというケースである。

 

 以上の大前提を否定するものはいない(嘘を意図的に流す者は除くが)。

 最も問題となったのは、被害者の声、利益を定義することの難しさである。

 韓国支援団体は「金の問題ではない」、「汚い金は受け取らない、尊厳の問題だ」という方針で統制し、生活のために金銭的補償を求める被害者の声は圧殺された。

 支援団体や知識人たちは倫理主義的であり、慰安婦たちを聖化し、殉教者にする傾向があった。金を受け取れば裏切り者とされる状況のなかで名乗りをあげる元慰安婦は多くなかった。

 

 ――わたしは一貫して俗人を基準とする倫理、道徳で考えるべきだと主張してきた。……「慰安婦」問題にかかわる日韓の主要な言説にも「ホントにそんな立派な態度で24時間生きてるんですか」と聞きたくなるような不自然さがつきまとっていた。

 

 制度やシステムの被害をきっかけに、その根本原因を改革しようとするのは間違いではない。

 しかし、「そうした社会全体にかかわる問題の解決を、目の前にいる被害者個々人の救済の条件とすることは、被害者を社会改革にかかわる自己の主張実現の人質にすることになりかねない」。

 

 4

 日本政府の広報・メディア戦略は低調であり、基金の趣旨が伝わらなかった。

 

 ――……日本が遂行した十五年戦争の侵略性を認めようとしない自民党多数派の歴史観の根深さ、「慰安婦」問題で謝罪することへの反発の強さは、一般の市民には見えない。

 

 5

・元慰安婦に対する日本の「法的責任」を問うのは、国際法から考えて難しかった。

 

 ――……知識人やNGOを含む市民のあいだには、「司法権の独立」「中立的な裁判官」などのイメージで捉えられる、司法府への漠たる信頼感がある。ほとんどの人は、日本の司法がこれまで戦後補償や外国人の人権にかかわる裁判でどれほど保守的で、被害者の期待を裏切る態度をとってきたかということを知らない。

 

・クマラスワミ・マクドゥガル両報告書は学問的な信頼性が低く、また国連に対する過度の信頼が左派知識人には見られた。

・国際世論への訴えを通した「外圧」は、90年代には反感を抱かれる状態になっており、もはや有効ではなかった。

・法的責任を問うのは法律上困難である。一方、道義的責任が、法的責任より格下ということではない。ドイツが認めたのは、すべて道義的責任である。なぜならナチスドイツの犯罪行為は当時すべて合法だったからである。

・道義的責任をとるための重要な要素……言葉、形式、金銭的補償、国民との意見の一致

 

 6

 著者は、たとえ加害国側であっても、被害者側の誤った認識には反論することが必要だと考える。

 

 ――しかし、こうした態度は、一見韓国人を尊重するように見えながら、実は韓国人を成熟した、対等な関係にある大人として見ない、倒錯した態度なのではないか。そうした「賛成はしないが反論もしない」という不作為の態度は、韓国や中国との論争を嫌韓派、嫌中派に委ねてしまい、極端な感情的反発がさらなる感情的反発を招くという悪循環をつくりだすことに消極的に加担することになったのではないか。

 

 NGO、メディアは、より公共性を意識し、結果責任を持つ政治的主体として行動するべきである。具体的には、実現不可能な正義や倫理を唱えるだけでなく、現実的な方策を行うという考え方も持たなければならない。

 日本政府はこれまで「嵐が通り過ぎるのを待つ」という姿勢で慰安婦問題をやり過ごしてきた。しかし、その積み重ねが日本のマイナスイメージとして定着した。

 

 

 

『神の歴史』カレン・アームストロング その4

 8

 15、16世紀は西洋が東方文明を追い越し、進出を始めた時代である。この過程でキリスト教も激変し、カトリックプロテスタントに分裂した。

 オスマン帝国コンスタンティノープルを占領し、東ローマ帝国が滅亡したことにより、ギリシア正教はロシアに引き継がれた。

 1492年、スペインのムスリムが制圧されたとき、スペインのユダヤ人は改宗か追放を迫られた。ユダヤ人の多くはひそかに信仰を続けるか、北アフリカ、トルコ、バルカン諸国に亡命した。

 ルネサンス時代にイスラム世界が停滞したというのは必ずしも正確ではない。政治勢力としてはオスマン帝国サファヴィー朝ムガル帝国が繁栄し、また絵画芸術も発展した。

 

・ダマスカスのイブン・タイミーヤ……ムハンマドと『クル・アーン』の時代に回帰すべき。

イラク学派のムッラ・サドラ……スーフィー

シーク教……ムガル帝国における、ムスリムヒンドゥー教徒の融合

 

 スペインから、続いてヨーロッパ中から追放されたユダヤ教徒たちは、ガリラヤのサフェドにおいて新しい神秘主義を作り出した(コルドヴェロ、イサーク・ルリア)。

 14世紀から15世紀にかけて、西洋でもペスト、コンスタンティノープルの陥落、アヴィニョンの捕囚(ローマとアヴィニョン教皇の分裂)、大分裂等の危機が続き、既存の体制が信頼を失っていた。

 

・オックスフォードのドンス・スコトゥス

・トマス・ア・ケンピス『キリストのまねび』

 

 ルネサンス人文主義者たちは神よりもマリアや聖人、イエスをとりあげ、難解なスコラ哲学を批判した。

 宗教改革がおこった原因については、現代では諸説ある。

 ルターの影響がドイツ国内のみにとどまったのに対し、カルヴァンはより広範な影響を及ぼした。

 ツヴィングリはスイスにおいて、ルターに比較的近い主張を展開した。しかし教義をめぐって、ツヴィングリ派とルター派との内戦になり、本人は戦死した。

 ルターは元々カトリックからの分裂を目指してはいなかった。またかれは強烈な反セム主義者であり、また女性嫌い、セックス恐怖症であり、「すべて反抗的な農民は殺されるべきだと信じていた」。

 いずれの改革者も、イエスに立ち返り、神の絶対的尊厳を強調した。

 しかし、カトリックプロテスタントともに、聖書を字義通り解釈し(リテラリズム)、当時発展していた科学に反対した。このため、神は説得力を失い、後の無神論の誕生につながった。

 

 9

 啓蒙主義の時代には、産業と技術の発展にあわせて、神の観念も変質していった。

 啓蒙主義者たちの神の解釈は、それぞれ異なる。

 

パスカル……啓示の神

デカルトニュートン……哲学の神。デカルトは意識の中に神を見出し、ニュートンは神を機械工のような存在ととらえた。

ヴォルテール……理神論(Deism)。創造者としての神は認めるが、啓示や奇跡は否定した。

スピノザ……汎神論。ユダヤ教から破門される。神すなわち自然すべてであるという考え。

・カント……人間のための神

・クェーカー、メソディスト……汎神論的、理神論的。厳しく冷酷な神からの解放。

・アメリカの大覚醒……熱狂的な信仰。平坦で明瞭な神。

 

 一般に、西洋の信仰復興(リバイバル)は、激しい感情への志向を持っている。

 

・17世紀後半、ユダヤ教ではシャバタイがメシアを名乗り、熱狂的に支持された。ところが、シャバタイはスルタンに改宗か死かをせまられムスリムになってしまい、ユダヤ教徒の間に混乱を招いた。

 

 ユダヤ教徒は東欧でポグロムに見舞われていた。

 

・18世紀、ハシディズム(ユダヤ教的敬虔主義)が広がった。これは共同体と絆を重視し、希望的な信仰だった。

 

 イスラーム思想の変遷について。

・18世紀のワッハーブ……神秘主義に反対し、預言者とウンマイスラム共同体)の時代に回帰すること。反トルコ主義に基づく、オスマン帝国へのジハード。

 

 無神論の先駆者たちが西洋で生まれた。

デイヴィッド・ヒューム……神への懐疑

ディドロ……神の存在を疑い投獄される。

・オルバック伯爵……近代の無神論者の起源。

ラプラス……物理学から神を追い出した。

 

 ――ディドロー、オルバック、ラプラスは……より極端な神秘家たちと同じ結論に到達した。「かなたには」何も存在しないのだ、と。間もなく、ほかの科学者や哲学者が、神は死んだと勝利の宣言をしたのだった。

 

 10

 19世紀には、無神論が盛んになった。フォイエルバッハマルクスダーウィンニーチェフロイトなど。

 一方で、人間の想像力を重視するロマン主義も支持された。この時期の詩人はワーズワース、コールリッジ、ブレイクなど。

 シュライエルマッハーは、過度の合理主義を拒絶し、宗教の本質を「絶対依存の感情」と定義した。

 

ヘーゲル……神は人間と不可分に結びつく。

・ショウペンハウアー……神は作用していない。諸業無常が真理である。

キルケゴール……既存の教理や信条は贋物であり、真の信仰はそこから離れなければならない。

フォイエルバッハ……『キリスト教の本質』において、神は人間の投影に過ぎないと主張した。

マルクス……宗教は抑圧された者たちのため息、民衆のアヘンである。

ニーチェ……貧しいキリスト教から解放され、人間自身が自分たちの支配者になるべきである。仏教的な、回帰と再生という神話に立ち返るべきである。

 

 19世紀の無神論者は、神という迷信を捨ててより良い人間世界をつくることを目指した。しかし、ナチスニーチェヘーゲルイデオロギーを利用したように、「無神論イデオロギーも、「神」の理念と同様に残虐な十字軍的倫理に導きうる」ものだった。

 神を捨てるということには苦痛や混乱が伴った。

 

ドストエフスキー、マシュー・アーノルド、テニソン。神を待つ人間たち……「ゴドーを待ちながら」。

 

 イスラーム世界は西洋の従属的地位に落とされており、一部の為政者たちはイスラム教を切り捨て、西洋化を進めようとした。しかし、過度の宗教的抑圧は、強い反発、原理主義運動を生むものである。

 改革主義者たちは、多くが神秘主義的傾向(スーフィーやイシュラク神秘主義)を持っていたが、かれらは自由・平等・博愛の社会がイスラームの理想に近いことを発見した。またかれらは科学に肯定的であり、宗教と科学が共存可能であることを疑わなかった。

 キリスト教は苦難と逆境の宗教だが、イスラームは、成功者の宗教だった。イスラームの教えは社会を成功させ、ムハンマドの時代のように、大帝国をつくりあげるはずだった。

 

 ロシアでポグロムが発生した1882年以降、パレスチナへの移住を目指すシオニズムがおこった。これは若い社会主義者共産主義者を中心に進められた。世俗主義にもかかわらず、宗教的な用語を用いた。

 ホロコーストは、ユダヤ教だけでなくキリスト教においても、伝統的な神学を終わらせてしまった。

 神が虐殺を止められなかったなら神は無能で無益である。わかってて止めなかったならば、神は怪物である。

 

 11

 近現代の思想について。

カール・バルト

パウルティリッヒ

・ド・シャルダン

・ダニエル・デイ・ウィリアムズ……「プロセス神学」

ホワイトヘッド

・カール・ラーナー

・バルタザール

マルティン・ブーバー

アブラハムヨシュア・ヘシェル

ハイデガー

・ホルクハイマー

 

 1970年代以降、主要な宗教において、根本主義(ファンだメンタリズム)が勃興した。それは字義主義的で、不寛容で、政治的だった。根本主義は慈愛よりも神の敵を断罪することに熱心だった。

 著者によればこうした動きは神からの後退である。

 

 ――われわれは、慈愛こそが、「機軸の時代」に創造されたほとんどのイデオロギーの特徴であったことを見てきた。……あまりにもしばしば、慣習的な信仰者たちは攻撃的な自己義認の態度を持っている。かれらは自分たち自身の好き嫌いを支えるために「神」を利用し、それらを神自身に帰するのである。……歴史的唯一神論の神は犠牲ではなく慈愛を、高尚な礼典ではなく慈悲を要求するのである。

 

 著者は、根本主義を神の安易な代用品であるとして批判する。

  ***

 用語

 エン・ソフ……ユダヤ教の神秘神学カバラーにおける、神の不可知の本質。

 ケノーシス……自己をむなしくすること。

 シェキナー……ユダヤ教において神の現臨を意味する。

 タウヒード……神の聖なる統一。

 トーラー……モーセの律法。聖書の最初の五書『創世記』、『出エジプト記』、『レビ記』、『民数記』、『申命記

 ミシュナー……ユダヤ教の法典。タンナイームらによって編集されたもので、『タルムード』の基礎。

 ミツヴァー……戒律。

 

神の歴史―ユダヤ・キリスト・イスラーム教全史 (ポテンティア叢書)

神の歴史―ユダヤ・キリスト・イスラーム教全史 (ポテンティア叢書)

 

 

『神の歴史』カレン・アームストロング その3

 5

 イスラームの勃興について。

 アラブにはユダヤキリスト教が根付かず、部族の団結が主だった。部族は生き残りをかけて互いに抗争し、復讐の掟により安全を保障した。個人は部族に従属し、また男は責任をもって部族の弱者を保護した。

 しかし、クライシュ族ムハンマドは、商業的に成功し、メッカで生活する中で、古い部族のイデオロギーが解体していく危機を感じた。

 かれはユダヤ教キリスト教も知らなかったが、あるときヒーラ山で啓示を受けた。

 その後23年間にわたって啓示を受け、『クルアーン』(朗唱)にまとめられた。

 

・アラブ人たちは、ムハンマドの訴える神がヤハウェであることを知っていた。『クルアーン』における不信者(カフィール)とは、神に感謝しない者、神に対して恩知らずの者を指した。

・「イスラーム」の義務とは、平等な社会、貧しい者、弱者がまっとうに取り扱われる社会を創造することだった。よって、富は貧者に配分されなければならなかった。イスラームにおいては、神学的議論は「ザンマ」、不要な憶測として排除された。

アッラーは超越的、非人格的であり、この世のあらゆる部分にしるし(アヤト)として顕れる。その最大のものは『クルアーン』である。

ムハンマドらは、イスラームを弾圧しようとするユダヤ教徒クライシュ族からの防衛戦争を行った。やがてムハンマドアラビア半島を制圧し、礼拝の方向をエルサレムからカーバ神殿に変えさせた(キブラ)。

イスラームにおいては、アブラハムとその子イシュメールが重要視される。アブラハム、イシュメール(イスマーイール)がアラブ人の祖であり、また最初の預言者、純粋な一神教の実践者である。

イスラームの思想は社会的正義と平等だったが、時代を経て、ユダヤ教キリスト教と同じく、女性蔑視の解釈が主流となっていった。

・カラーム(神学)の発展について……クルアーンの教えを忠実に守るべきとする伝統主義者の他、合理主義を取り入れたムータジラ派、アシュアリー派、神の非人格性、超越性を強調するハンバル派が生まれた。

ムハンマドの甥アリーとその子孫を、指導者(イマーム)として信奉するシーア派は、もともと政治的に分裂した宗派だった。やがて、十二イマーム派イスマーイール派等に派生していった。

 シーア派の教えはアリーやイマームに神性を付与するもので、キリストの受肉と似た概念を持っている。神秘主義的傾向を持つため、インテリや貴族階級に支持された。

 

 6

 9世紀なると、ギリシア哲学がアラブ世界に輸入され、10世紀アッバース朝では科学や哲学が開花した。ファルサファー(哲学者)たちは、ギリシア哲学とイスラームを両立させながら、理論を発展させていった。

 焦点となったのは、ギリシア哲学の論理性と、神の存在との折り合いだった。

 

 代表的な思想家・哲学者たち:

・アル=キンディ

・アル=ファーラビー

イスマーイール派シーア派の分派)

・イブン・スィーナー(アヴィセンナ

・アル=ガザーリー……神秘主義への回帰。

・イブン・ルシュド(アヴェロエス)……12世紀の哲学者。かれの合理主義的神学は、西洋に大きな影響を与えた。

 

 イスラーム哲学は、中東のユダヤ教徒にも影響を与えた。

 12世紀、マイモニデスは合理的原理を用いて神を理解すべきと考えた。

 

 11世紀の第1次十字軍をおこなった西ヨーロッパの諸王国にとって、神は軍神であり、イエスは封建領主だった。かれらは領主を殺したユダヤ人に復讐するため、大量虐殺を行った。

 

・9世紀、西フランクのエリウゲナは東方神学をラテン世界に採用した。しかし、教義をめぐって東西は分裂していった。

 

 ――……論争が明らかにしたことは、ギリシア人とラテン人が神についてきわめて異なった観念を進展させつつあったということである。……あらゆる点で、多くの西欧のキリスト教徒は、本当には三位一体論者ではないのである。彼らは、1人の神のなかの3つのペルソナという教義が理解不可能であると不平を言う。まさにそれこそが、ギリシア人にとっては、最重要の点であったということに気が付かないままに。

 

・シトー派の修道院長ベルナルドゥスは十字軍に説教し、異教徒虐殺を扇動した。

トマス・アクィナス……13世紀、ギリシア哲学とアウグスティヌスの神学との融合を試みた。

フランシスコ会ボナヴェントゥーラ

・ダンテ・アリギエリ

 

 いずれの宗教においても、ギリシア哲学の神は、神秘主義によって克服された。

 

 7

 神秘主義は、神の人格化に対抗する動きという意味を持っていた。また、混乱と危機の時代には、神秘主義が人びとに受け入れられた。

 非人格的な、神秘主義的な神を求める傾向は、特にユダヤ教イスラーム教で盛んだった。

 西洋の宗教画は、信徒に教訓を与え、理念・教義を伝達するためのものだった。東方のイコンは、瞑想(テオリア)の焦点であり、神聖な世界への窓を提供した。

 イスラーム世界では、8~9世紀、宮廷の贅沢に反発した神秘主義者たちが原始的なムスリム生活に戻ろうと「スーフィー」運動を起こした。

 アル=ガザーリー神秘主義を正統と結びつけ、その後、12世紀には、スフラワルディやアル=アーラビーが哲学と神秘主義を結び付け、規範を確立した。

 スフラワルディはイシュラク(照明)神秘主義の祖となり、いまもイランで実践されている。

 アル=アーラビーは西洋にはその存在を知られなかったが、アラビア世界ではムスリム神秘主義的な神概念に大きな影響を与えた。

 12世紀から13世紀にかけて、多くのスーフィー教団(ターリカ)が設立され、教主(シェイク)が聖者としてあがめられた。

 

 イスラーム世界では、カリフ制が崩壊し、モンゴルがイスラーム王朝を滅亡させていた。同様に、非イスラーム圏のユダヤ教徒も、キリスト教徒による虐殺に直面した。

 こうした危機的環境においては、抽象的・思弁的な神ではなく、想像力と不安に訴える神秘主義的な神が求められた。

 カバリストは、セフィロート(数えること)の逆さの樹図を用いた。かれらは隠れた神を「エン・ソフ」と呼んだ。カバラーにおける最大の文献は、13世紀、モーゼスによって書かれた『ゾハル』である。

 西洋は東方正教イスラームよりだいぶ遅れていたが、14世紀には神秘主義の流行があった。

 エックハルト、大ゲルトルート、スーゾーなど。

 

 ――神秘主義は、脳髄的あるいは法律的なタイプの宗教よりもずっと深く心に浸透することができた。その神は、より原始的な希望や恐れや不安に語りかけることができた。それらの前では、哲学者の疎遠な神は無力であった。

 

 しかし、西洋では神秘主義は根付かず、宗教改革を通して、さらに合理主義的な言葉で神をとらえ始めた。

 [つづく]

 

神の歴史―ユダヤ・キリスト・イスラーム教全史 (ポテンティア叢書)

神の歴史―ユダヤ・キリスト・イスラーム教全史 (ポテンティア叢書)