うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『詳解武装SS興亡史』ジョージ・スティン その2

 4

 西部戦線終結し、ヒトラーは密かにソ連侵攻を計画していた。

 

 1940年から41年にかけて、再び新兵募集をめぐって陸軍と武装SSが対立した。

 SS募集担当のベルガ―、SS参謀総長ユットナーらは、陸軍の眼を欺いて新兵募集を行った。併せて、占領国の北方人種や民族ドイツ人を集めて、新たに部隊を編成した。

 ゲーリングは空軍の拡大を、ゲッベルスは宣伝相の拡大を行っていた。ヒムラー強制収容所やSD、ゲシュタポ保有していたが、それらは極秘事項であり、また名誉を与えるものでもなかった。よって、ヒムラー武装親衛隊を大々的に宣伝することで権力の増大を図った。

 

 5

 武装SSは強烈なイデオロギー教育を受けていた。

 

共産主義勢力の絶滅

・下等人種、ユダヤ人を絶滅させ、人種戦争に勝利すること

 1941年6月から始まった独ソ戦は絶滅戦争となり、ドイツ軍と武装SS、赤軍が相互に捕虜殺害を実行した。武装SSは敵味方から賞賛される一方、市民に対する殺戮等を行った。

 フィンランドでは、質の低い師団「ノルト」が敗北していた。武装SSの実力は、イデオロギーだけでなく、兵の練度、装備、指揮官の力にも依存していた。

 

 6

 外国人兵の数は、終戦時には本国ドイツ人を上回っていた。

 その主要グループは「ラトビア人、エストニア人、ウクライナ人、ボスニア人、クロアチア人、セルビア人、アルバニア人ハンガリー人、ルーマニア人、ブルガリア人、およびロシア人等の東欧人と、東欧にいる、いわゆる「民族ドイツ人」」だった。

 西欧からはオランダ、ベルギー、フランス等からの参加があった。

 

 かれらは必ずしも志願ではなく、また理想主義に燃えていたわけでもなかった。

 非ゲルマン人部隊が増えると、「世界観の軍隊」である武装SSはイデオロギー上の整合をとらなければならなかった。人種的な話題、ドイツ帝国拡大の目的は伏せられ、「ヨーロッパ連合」という神話が用いられた。

 西欧・北欧からの義勇兵連隊が作られたが、ドイツ人からの蔑視によりすぐに関係が悪化した。

 大戦後半には、本国で反逆者扱いとなった親独派たちが義勇兵となり、東部戦線で戦った。

 

 7

 1942年、独ソ戦の戦況悪化により、民族ドイツ人からなる外国人義勇兵は徴兵となった。同時に、本国ドイツ人部隊も徴兵となった。

 ラトビア人部隊、エストニア人部隊、ボスニアイスラーム教徒による「ハントシャール」や、ウクライナ人部隊が編成された。

 

 西欧人義勇兵が良好な戦果を挙げたと評されているのに対し、東欧人義勇兵の評価は総じて低かった。

 民族ドイツ人は練度が低く、ドイツ語がわからないふりをしてドイツ人から不評を買った。インド人部隊、イギリス人部隊等は、名目上、宣伝上存在していたにすぎなかった。

 

 8

 高い評価を受けた武装SSはすべてエリート選抜によるドイツ人部隊である。

 具体的には、「ライプシュタンダルテ」、「ダス・ライヒ」、「髑髏」、「ヴィ―キング」(ゲルマン人フィンランド人からなる)、「ホーエンシュタウフェン」、「フルンズベルク」、「ヒトラー・ユーゲント」である。

 これらエリート部隊は各地を転戦した。

 

 9

 武装SSは主要作戦に用いられたが、徐々に戦況は悪化した。シュタイナーはベルリン戦でヒトラーに無謀な命令を下されたが無視した。ヒトラー国防軍のみならず武装SSにも裏切られたと感じ自殺した。

 

 10

 武装SSとSSは組織上は同一だったが、SSの収容所管理業務はやがて別系統(SS経済管理本部)に移された。しかし、武装SSと収容所との人事交流は日常的に行われており、武装SS隊員たちは間違いなくホロコーストについて知っていた。

 戦後、武装SSのOB会や、クルト・マイヤー、フェリックス・シュタイナーらが組織の擁護を行ったが、かれらは武装SSと収容所、戦争犯罪との関連については沈黙している。

 

 アインザッツグルッペンの隊員の大部分は武装SSから補充されており、罪を免れることは不可能である。

 ディルレヴァンカー部隊、カミンスキー部隊は戦争犯罪行為により悪名高い。

 その他、固有の狂信性、勇敢さから多くの戦争犯罪に加担している。

 

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 ――……多様性こそが戦時中の武装SSの特徴だったのである。武装SS部隊で肩を寄せ合っていたのは、若い理想主義者、不屈の傭兵、頭の弱い田舎者、人間性を喪失した強制収容所看守、燃える目をしたヒトラー・ユーゲント、まごついた被徴兵者、筋金入りのナチ主義者、そしてドイツ語をほとんど、あるいはまったく理解できない数千人の外国人であった。それでも最後には、ナチ・イデオロギーだけは残されていた。


 著者は、武装SSは幼稚な理想主義と獰猛な傭兵精神が充満する部隊だったと評価する。

  ***

 党が生んだ暴力組織である武装SSの概要がわかる。武装SSは国家社会主義イデオロギーを軸として、様々な参加者が集められた部隊だった。

 

詳解 武装SS興亡史―ヒトラーのエリート護衛部隊の実像 1939‐45 (WW selection)

詳解 武装SS興亡史―ヒトラーのエリート護衛部隊の実像 1939‐45 (WW selection)

 

 

『詳解武装SS興亡史』ジョージ・スティン その1

 目的

 ――本書は、これらSSの組織の1つであるナチ・エリート護衛部隊の軍事部門で、ヒムラーの戦時帝国の最大の構成組織であった武装SS(Waffen SS)の実像の解明を目指すものである。中でも特に、武装SSの発展の過程、すなわち、組織の目的、発展を可能にした技術、組織・編成、外国人兵士の利用、国防軍との関係、陸軍とのあいだで距離を置いた要因、戦闘での成功と失敗、さらに第三帝国の軍事的成果において果たした役割の解明に重点を置いている。その上で、物議を醸している困難な問題である武装SSの犯罪性の解明も試みた。

 

 SSは党のエリート護衛部隊として1929年創設された。指導者はヒムラーだった。その後、党の拡大に併せて増員されていき、やがて情報機関、警察、武装SSの3部門を支配することになった。

 

武装SSと一般SS、収容所管理部隊であるSS髑髏部隊は相互に人事交流があった。よって、武装SSもホロコーストと無縁ではない。

武装SSの発展は複雑であり、主な焦点は、国防軍との共存をいかに図っていくかにあてられていた。

・最終的に、武装SSの過半数は外国人や民族ドイツ人(外国籍ドイツ人)が占めることになった。

 

  ***

 1

 SSは初めSA(突撃隊Sturmabteilung)の一部門に過ぎなかったが、1934年の突撃隊粛清により独立武装組織の地位を得た。ヒトラーはSS特務部隊(SS‐VT)の設立を命じたが、陸軍はこれを懸念した。

 1936年までに、SS特務部隊(SS‐VT)――LAH(ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー)を含む近衛部隊――とSS髑髏部隊(SS‐TV)――強制収容所担当――が整備された。

 SS特務部隊総監部……パウル・ハウサー(訓練)

 LAH指導者……ゼップ・ディートリッヒ

 

 武装SSの目的は、以下のとおりだった。

・国内反乱分子の抑圧

国家社会主義の尖兵としての役割

 

 1938年、ヒトラーの布告により、SSの役割が定められた。一般SSは武装せず、SS特務部隊はヒトラーの指揮下で武装する。戦時には、武装SSは陸軍の統制下で活動する。

 国防軍の大半はナチ党に共感しておらず、ヒトラーは陸軍との妥協を図るため武装SSの立場を名目上陸軍の下に置いた。しかし、編成上の変更にはヒトラーの承認が必要だった。

 1939年、ようやくSS武装師団の設立が行われた。

 

 2

 9月1日から始まったポーランド侵攻武装SS師団は初めて戦闘に参加した。

 その後、新兵募集、補充要員確保をめぐって国防軍徴兵担当部局との争いが起こり、国防軍とSSとの関係はさらに悪化した。ヒムラーたちは制度の抜け穴を利用して新兵を補充し、またシュコダ製の兵器を調達した。

 西部戦線での戦闘が始まると、武装SSの師団は陸軍に編入され、陸軍高級将校の指揮を受けた。武装SSは当初、国防軍から冷たい反応で迎えられた。

 

 ――武装SSと接触する機会のなかった大抵の陸軍高級将校たちのSS師団に対する印象は、街頭で喧嘩しているSAの褐色シャツの「ナチ野郎」で編成されているのであろうというものであった。

 

 しかし、練度の高さが明らかになると、賞賛に代わった。

 第4の軍種としての武装SSが優れていた理由……

 

・厳しい身体的基準と、鍛えられた身体能力

・教育と洗脳による強力なリーダーシップと団結

 

 3

 西部戦線(オランダ、ベルギー、フランス)での武装SSの活躍について。

 特に自動車化されていた師団がオランダ戦線等で貢献し、SSの野戦部隊としての実力を認められた。部隊は、無謀に近い攻撃精神を発揮し、後の武装SSの特徴となった。

 ただし、軍事経験のない指揮官は甚大な被害を出した。

 

 ――勇気とイデオロギー的確信は、訓練、経験や適切な指揮能力の代わりにはならなかったのである。

 

 洗脳された親衛隊員たちは、陸軍なら躊躇するような非人道的な命令も実行した。

 

 第1装甲師団「ライプシュタンダルテ」

  指揮官:ゼップ・ディートリヒ

 SS特務師団「ドイッチュラント」(後「ダス・ライヒ」)

  指揮官:パウル・ハウサー

 SS髑髏師団「トーテンコプフ」(収容所担当の髑髏部隊を母体とする)

  指揮官:テオドール・アイケ

 SS警察師団

 [つづく]

 

詳解 武装SS興亡史―ヒトラーのエリート護衛部隊の実像 1939‐45 (WW selection)

詳解 武装SS興亡史―ヒトラーのエリート護衛部隊の実像 1939‐45 (WW selection)

 

 

『特高警察』荻野富士夫 その2

 4

 総力戦体制が整備されていくにつれて、特高の業務も強化された。国体の擁護と、聖戦への一致団結がかれらの目的となった。

 国家主義者については、これまで重視されてこなかった。しかし血盟団事件五・一五事件をきっかけに、右翼担当が増員された。国体擁護の精神には共感しつつも、法を逸脱することのないよう指導するという方針での統制が行われた。

 特高共産主義勢力の根絶を目指し、摘発、拘束を続けた。取締りのためになら法律を無視してもいい、という趣旨の通達が出された。

 しかし、戦況が悪くなれば当然、国体や政府の戦争指導に疑念を持つ者が増えるため、監視対象は増えていった。終戦末期になると、敗戦が確実となり、特高自身の存在意義もゆらいだようだ。

 

・40年以降は、反戦反軍思想、戦争忌避の思想も監視・取締りの対象となった。

・経済警察とは「経済統制諸法令の違反の監視と取締りのほか、統制経済が国民に及ぼす影響や統制への不平不満の察知など」を担当する。

・監視・取締り対象……怠業、在日中国人、在日朝鮮人、宗教、神社参拝に熱心でない出征家族、帰還兵の愚痴、反戦厭戦思想、講和・和平を説く者、食糧困窮に不平を言う者、今次戦争を帝国主義戦争と言う者、その他。

 特高の民情観察では、不満と消極ムードが国民のあいだに広まる様子が確認できる。

 

 5

 植民地における特高警察について。

・朝鮮……独立運動、民族運動、社会運動の取締り。

・台湾……独立運動は占領初期に武力で鎮圧されたが、完全に従属したわけではなかった。

 1941年、旗山事件(台湾独立陰謀事件)について……

 

 ――その捜査取調べにあたった高雄州警察部高等課では……死者を出すほどのはげしい拷問を加えている。……この事件の特異な点は、日本の敗戦とともに解放された事件関係者が、過酷な取り調べに対する復讐として日本人警察官を次々と襲撃したことである。

 

満州国……関東憲兵隊・関東軍の影響の下、満州警察が設置された。

・外務省警察……朝鮮、中国、タイに置かれた外国人取締りの警察で、徐々に特高業務を拡大させた。

 上海……朝鮮独立運動コミンテルン、排日運動の取締り

 東亜警察……植民地拡大に連れて、占領統治の上でも特高警察制度がつくられた。本土と占領地の警察は、相互に情報共有を行った。

 

 6

 諸外国との比較。

 ゲシュタポ特高との比較は、当事者たちもしばしば行っており、日本側は、「法規にとらわれず警察力を行使できる点」を羨望していた。

 ゲシュタポ強制収容所の運営も担当しており、また共産主義者を「転向」させるというような日本的な志向はなかった。

 戦後、「特高警察はゲシュタポやGPUとは違う」という差別化が当事者たちによって唱えられた。これはGHQが秘密警察解体を宣言したからである。

 

 7

 敗戦直後は、混乱を鎮め、引き続き国体擁護に努めることが任務として課された。

 しかし、特高警察内でも、幹部の辞職、職務放棄、書類焼却が相次いだ。

 10月、GHQの人権指令が出され、特高警察は廃止された。しかし、関係者で罷免されたのは一部であり、大多数は転属し慰労金を受け取った。

 間もなく公安警察が創設され、民主主義の維持と占領軍の補助という名目のもと、特高制度に似たものが復活した。

 

  ***

 特高は思想取締りを行い総力戦体制に加担することにより国家、国民の硬直を招いた。この点で、敗戦にも責任があると考える。

 特高ゲシュタポ、NKVDといった政治テロ、秘密警察の経験を通して、「思想を取締り、人権を蹂躙することが誤りであり、否定されるべきことが20世紀を通じて確立され」た。

 『敗北を抱きしめて』にも書かれていたとおり、日本は敗戦の際、多くの制度・システムを残置した。特高のような政治警察の基盤はまだ健在であり、いつでも拡大することができる。

 戦前に弾圧されたのは、国体変革を掲げるテロリスト、共産主義者だけではない。国家が戦争を遂行していれば、反戦運動平和運動も、国家方針に反する思想として取締り対象になる。

 

特高警察 (岩波新書)

特高警察 (岩波新書)

 

 

『特高警察』荻野富士夫 その1


 特高警察の概要について説明する本。特高警察の制度、運用については、現在の公安警察にも残されているという。

 回想録に書かれている憲兵と同様、かれらも逃げ足が非常に早く、敗戦間近になると幹部たちの職場放棄が散見され、また書類の焼却がさかんに行われた。

 

 1

 特高警察が正式に発足したのは1911年である。

 それ以前は、警保局の中に自由民権運動を取り締まる部署(高等警察)が存在した。憲法施行や帝国議会開設などの出来事に際して、警戒や取締りが行われた。

 日清戦争後、藩閥政府と政党との妥協が進んだ時期には、高等警察は縮小する。しかし、日露戦争後、足尾鉱毒事件の反対運動、労働運動、社会主義運動、デモクラシー運動等、種々の社会運動が活発になるにつれて、その監視の需要が高まった。

 

・1900年 治安警察法、行政執行法施行……デモ・集会の取締り、予防検束、結社の禁止

・1910年 大逆事件……幸徳秋水ら26名が逮捕、24名死刑判決、12名死刑執行

 平沼騏一郎が中心となって行われた弾圧事件である。

 

・1911年 特別高等警察が発足し、以後、人員予算の増強

・1910年代、第1次世界大戦終結ロシア革命にあわせて、デモクラシー、社会主義の運動が再び盛んになった。

・1928年 三・一五事件……田中内閣による共産党員大量検挙。以後、昭和天皇大礼に併せて、警備と監視の強化が図られた。

在日朝鮮人取締りは「内鮮警察」の担当である。ロシア関係には外事係がついた。

 

 2

特高警察の機能……治安維持、社会秩序の維持

・運動を取り締まるだけでなく、国民を観察し、国民思想を指導する役割

内務省警保局保安課を司令部とする強力な中央集権組織である。保安課には文書、庶務、右翼、宗教、左翼、内鮮、労働・農民、外事、調査の係がある。保安課と並んで、図書課(検閲課)、外事課、経済保安課がある。

内務省エリートの指揮の下、各府県の特高課、各警察署の特高係が実務を担当した。

・ある県警特高課の年間業務……報告資料作成、講習会、発禁出版物取締り、軍人遺族慰問視察、落書き取締り、要視察人名簿整理・基礎調査、農村座談会、不良新聞記者取締り、朝鮮人一斉視察、予算要求、邪教一斉取締まり、小作争議未然防止

・社会情勢の観察のために、一般警察官も特高のために活動し、報告した。

・市民を観察し、また言動を報告し、指導・説諭することも重視された。

・司法省管轄下の思想検事、また軍の思想憲兵とは業務が競合する箇所があった。特に、満州事変後に憲兵の活動は広く一般社会へ拡大していった。

 

 3

 特高警察の目的、意義は何か。

 

 ――国家の生命を維持するための力であって、どこまでも清い、国家の活動の最も源泉となる力強い警察でなければならぬ。

 

 ――いわゆる反国家運動、すなわち国家の政治的法律的存在を危うくせんとする運動の取り締まりを任務としているもの。

 

 ――特高警察は国家的正義を第一義とし、社会的正義はこれに従属すべきもの。

 

 国体擁護のためには、地方の凶悪事件は放っておけ、という警保局保安課の発言が残されている。

 特高の業務は予防に特化しており、いかに危険思想を取締り、未然に拘束、処罰するかが重用だった。

 

治安維持法は当初朝鮮では積極的に用いられた。国内での運用は慎重だったが、やがて拡大解釈がなされ、威力を発揮した。

・治安警察法、行政執行法、その他戦時の法律も適用された。

・当時の警察では拷問が蔓延していたため、特高でも用いられた。横浜事件では4人が拷問によって殺害され、また三・一五事件における特高の暴力行為を告発した小林多喜二も殺害された。

 建前上は、警察は拷問を否認していた。

・超法規的行為……法令逸脱と無視、予防検挙・検束、長期勾留、「たらい回し」、盗聴、信書抜き取り

 

 「つづく」

 

特高警察 (岩波新書)

特高警察 (岩波新書)