うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『ソドムの百二十日』サド

 フランスの小説家サドによる幻想文学

 本書の構成は以下のとおり。

 

・背景

・登場人物

・計画

・訓示

・日課次元

・記録

 

 計画によって集められた少年少女は、4人の変態権力者の変態行為の犠牲になる。あわせて、4人の中年女が自分の経験した変態行為を話して聞かせる。

 ひたすら糞尿と変態行為の記録が続き、最終的には『悪徳の栄え』のように拷問と殺人に至る。

 変質大会に関して、割と計画が構成されているのが笑いどころである。

 おそらくこれが、作者の作りたかったものなのだろう。

 異様なオブジェのような本で、わたしのような素人には、読み進めるのは大変である。中間部はほとんど読み飛ばした。

 4人の変態権力者(公爵、司教、法院長、徴税請負人)は、1人を除くと、性的不能に近い。

 中年女の回想でも、変態行為に執着する性的不能の人物が多数現れる。何かの関係があるのだろうか。

 

 権力者たちの、悪徳と非道を追求する哲学、奴隷を苦しめれば苦しめるほどよしとする哲学が挿入される。

 糞尿趣味の者は、汚ければ汚いほどいい、と自説を開陳する。

 

ソドムの百二十日

ソドムの百二十日

 

 

『続・突破者』宮崎学

 『突破者』を出版した後の著者の活動について自ら回想する本。

 

 宮崎学は、現代日本をとりまく抽象的な正義を否定する。それは清潔な市民による正義であり、社会から不潔なものを全て抹消しようとする世界観である。

 

 平沼騏一郎が司法官僚の時代、かれは被差別部落を管理するために事業資金を管理し、部落をコントロールしようとした。

 

 ――言論活動が、「正義」と「真実」なんていう空疎なかたちの支持をかき集めるキャンペーンになっていけば、政治活動も単なるキャンペーンになってしまい、具体的な目標は二の次にされてしまう。

 

 著者の経歴……暴力団組長の子供として生まれ、早稲田に入学後、学生運動に加わって中退、その後実家の解体業を受け継ぎ、グリコ森永事件では「キツネ目の男」として重要参考人となった。

 著者は徹底的に反体制の立場をとる。

 自らを、「やましいところのない清潔な正義の人間」と考える体制の人間、特に官僚にを厳しく批判する一方、空疎な言葉を唱え、また現実を見ようとしない左翼勢力に対しても批判を加える。

 

  ***

 著者の考えは強烈に偏ったものだが、納得できる点も多々ある。自分の考えが「公正中立である」と装わないのは誠実と考える。

・盗聴法は市民に恐怖と不安を植え付けるものとして反対運動を行った。盗聴法で実際に犯罪予防になるのは一部で、主要な効果は市民を委縮させることにある。

暴力団対策法は、ヤクザの存在自体を悪と決めつけて排除する。これはヤクザに対する差別である。「やめればいい」というが、そうすればかれらは生きていけなくなる。

・同和行政は、「人権マフィア」と行政の戦いという単純なものではない。そもそも同和事業は、「被差別部落に特権を与えることで差別を解消する」という国の方針に基づくものである。特権が不公平な分配によって利権となるなら、それは受益者側の改善が必要である。

・共同体の解体に伴い部落差別、在日差別が薄まった一方、インターネット等での差別意識は強まっている。

・司法は検察からも独立しているべきである。また、弁護士は権力から独立していなければならない。暴力団対策や「住専不良債権回収等では、裁判所と検察、弁護士の一体化が唱えられたが、これは権力分立を脅かすものである。

・日本のエスタブリッシュメントは強固であり、学生運動やデモでは崩れなかった。政治家は皆、利益集団である。国はすべての事象を「善対悪」の構図に簡略化し、国民を扇動する。

中坊公平は京都のいい家に生まれた。金に汚く、住専にまつわる政府の失策を棚にあげて、借り手側を悪人と既定して取り立てをおこなう。

 

  ***

 暴力団対策法について……

 暴力団を排除するなら、構成員だった者をどのように社会に復帰させるかが重要であると考える。かれらが皆単独の強盗犯や窃盗犯になってしまっては意味がない。

 では、ヤクザやギャングの全くいない社会が実現するのかと考えると、とても起こりそうにない。

  ***

 著者の思い入れは、学生運動の時代にあるようだ。現代の人間はみな薄っぺらになった、と述懐するが、わたしのような薄っぺらな若者は、ただそうなのか、と思うしかない。

  ***

 抽象的な市民観ではなく、中国の秘密結社「幇」のように、各コミュニティが独自の規律に基づき、ルールを定めていくべきであると主張する。

 

 ――あらゆる社会集団が法令順守より自力解決を優先し、感度の高い自治能力を育てていこうとするとき、そのときこそ、差別を無限にのりこえていこうとする途が開けてくるのではなかろうか。

 

 差別は絶対になくならず、人が人を差別する心も絶対になくならない。重要なのは差別行為を常に糾弾していくことである。

 

 ――石原やその支持者が言う「誇り高い日本人」などと言うのは、所詮は自分を一段高いところにおきたい下卑た根性がつくりだしたフィクショナルな概念にすぎない。

   ……わしは常々、日本が全体主義に向かうときそれはアジアに対する排外主義を伴うと考えてきた。石原慎太郎の存在はそれを担保するものであり、それに対抗するのはイデオロギーではなくそこに生きる人間の持つ様々な文化が複合しながら発展していく生活者の視点なのではないかと最近考えている。

 

 法律は社会生活に完全適合しているわけではない。わたしたちは常に法律を大なり小なり侵犯している。

 権力も、すべての法律違反を取り締まることはできない。いっさい法律違反をしないで生きるということはできない。

 

 ――まず、権力に対してラジカルに戦う者は、身辺などキレイにする必要はない、ということがわかっとらんなあ。

 ――どこの世界も均質化が進み、いろいろな世界でシステムばかりが完備していく。一方で、張りぼての中には官僚たちが息を潜めている。彼らには名がない。機構や役職に名があるだけだ。時折、事件が起こると、運の悪いやつがひょいと顔を出す。普段は、せっせと機構としてシステムを通して表社会を操作している。だれの支配というのでもない、現代は匿名の支配社会である。

 

続・突破者

続・突破者

 

 

 ◆前作


 

『外人部隊』フリードリヒ・グラウザー

 モロッコ駐留の外人部隊に所属する兵隊たちの話。それぞれ違う国からやってきた隊員たちは、真偽の怪しい自分の経歴について話す。逃げ出した者、高貴な生まれだが没落したもの、社会から外れたものが多数存在する。

 部隊では尼僧院での売春が蔓延しており、また、レースという若者は現地の少女の父親に金を払い交際する。一部の兵隊は同性愛者や女装者であり規律を乱している。

 こうした様子が、特に盛り上がりもなく漫然と続いていく。

 

外人部隊 (文学の冒険シリーズ)

外人部隊 (文学の冒険シリーズ)

 

 

『堕落論・日本文化私観』坂口安吾

 評論・エッセイ類を集めた本。

 だいぶ昔に一通り読んだが、改めていくつかを読み直した。

 

 ◆小説・文学について

 現実の代用としての言葉を否定し、絶対的な言葉こそが芸術となる。言葉は現実の模写や代用品ではない。

 

 ――言葉には言葉の、音には音の、色にはまた色の、もっと純粋な領域があるはずである。

 ――芸術は、描かれたものの他に別の実物があってはならない。芸術は創造だから。

 ――つまり芸術家とは自己の幻影を他人に強うることのできる人である。

 

 想像は現実と対極にあるのではない。現実生活において人間はいつも想像を働かせている。想像もまた現実の1つである。

 小説の文はその1文だけが名文であっても意味がない。小説全体として1つの意味を持たなければならない。

 

 ――作家の精神はありのままに事物を写そうとする白紙ではないのである。……言葉を芸術ならしむるものは、言葉でも知識でもなく、1に精神によるものである……。

 

 FARCE(笑劇)は、単なる荒唐無稽として、悲劇や喜劇よりも一段下に見られてきたというが、著者はこの位置付けに反対する。

 

 ――ファルスとは、人間の全てを、全的に、1つ残さず肯定しようとするものである。およそ人間の現実に関する限りは、空想であれ、夢であれ、死であれ、怒りであれ、矛盾であれ、トンチンカンであれ、ムニャムニャであれ、何から何まで肯定しようとするものである。

 

 ・「枯淡の風格を排す」……正宗白鳥徳田秋声自然主義作家の一部に対する批判。

 

 ――いわば自分の行為を全て当然として肯定し、同様に他人のものをも肯定し、もって他人にも自分の姿をそのまま肯定せしめようとする、肯定という巧みな約束を暗に強いることによって、傷や痛みを持ちまいとする、揚句には内省や批判さえ一途に若々しい未熟なものと思わしめようとする……。

 

 ・ドストエフスキーの「真実らしさ」の方法……

 

 ――脈絡のない人物や事件を持ち来たって捨て石のように置き捨てていく、そういうことも意識的に分裂的配分を行う際に必要な方法であろう……。

 

 ◆文学のふるさと

 ペロー版「赤ずきん」、狂言の1つ、伊勢物語の1篇をあげて、救いのない、不条理な話について考える。

 

 ――そこで私はこう思わずにはいられぬのです。つまり、モラルがない、とか、突き放す、ということ、それは文学として成り立たないように思われるけれども、我々の生きる道にはどうしてもそのようでなければならぬ崖があって、そこでは、モラルがない、ということ自体がモラルなのだ、と。

 ――それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。

 

  ***

 ◆日本文化私観

 ◆青春論

 ◆咢堂小論

 政治は理想と理論だけを唱えるものではない。大言壮語どおりに人間が動くことはあり得ない。

 

 ――死を見ること帰するがごとしなどと看板を掲げて教育を施して易々と注文通りの人間が造れるものなら、第1に日本は負けていない。かかる教育の結果生まれた人格の代表が東条であり真崎であり、軍人精神の内容の惨めさは敗戦日本に暴露せられたカラクリのうちで最も悲痛なる真実ではないか。日本上空の敵機は全部体当たりして1機も生還せしめないと豪語した結果の惨状はご覧のごとくであり、飛行機のことは俺にまかせて国民などは引っ込んでおれと怒鳴りたてた遠藤という中将が、撃墜せられたB29搭乗員の慰霊の会を発起して物笑いを招いているなど、職業軍人のだらしなさは敗戦日本の肺腑を抉る非惨事である。

 ――民衆が政治をもとめ、よりよき政党を欲するのは、自らの生活を高めるための手段としてで、政治家は民衆の公僕だとはその意味だ。まず民衆の生活があり、その生活によって政党が批判選択せらるべきで、民衆が党派人となることは不要であり、むしろ有害だ。

 ――政治は実際の福利に即して漸進すべきものであり、完璧とか絶対とか永遠性というものはない。

 

 政治制度や組織が変えられるのはあくまで表面だけであり、人間の根本をなす家族という仕組みを検討しないことには、社会福祉の向上は望めないと著者は書く。

 

 ◆堕落論

  ***

 坂口安吾は、達観や枯淡の美、滅びる者の美を批判し、生きている人間に常に目を向ける。

 

堕落論・日本文化私観 他二十二篇 (岩波文庫)

堕落論・日本文化私観 他二十二篇 (岩波文庫)