うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『日中アヘン戦争』江口圭一 その2

 (2 つづき)

 

 1938年、対中国中央機関である興亜院が設立された。首相を総裁、外相・蔵相・陸相海相を副総裁とし、政務部、経済部、文化部、技術部が置かれた。

 新政策とは、蒙彊においてアヘンを増産し、占領地全域でのアヘン自給により財源を確保するとともに、為替資金の円ブロック外への流出を防止しようとするものだった。

 興亜院の蒙彊政策には、後に首相となる大平正芳が関わっていた。

 華北……山東省、河北省でも日本によるアヘンの専売制が施行され、軍・政府公認の元、アヘン栽培と売買が盛んになった。

 

 3 華中・華南占領地のアヘン政策

 第2次大戦前の1939年まで、上海において中支那派遣軍三井物産と里見甫(さとみ・はじめ。阿片王と呼ばれる)に依頼しイラン産アヘンを大量に入荷し資金源とした。

 1939年上海総領事から野村吉三郎外相に送られた電報は次のとおりである。

 

 ――維新政府行政院のアヘン収入は毎年300万元にのぼり、同政府の主な財源となっている。日支双方とも現行のアヘン販売制度は政府維持のために欠くべからざるものと称し、憲兵、特務機関も利益を分割している。政府官吏および警察官で中毒死しているものが多数ある由である。なおヘロイン吸引も増加し、毎日20、30の中毒者の屍体が発見される。……吸飲者および中毒者の登録は放棄されたもののようで、購買は自由であり、中毒者は昨年より著しく増加した。

 

 4 アヘン政策の推進

 1938年 武漢・広東作戦

 1939年 海南島・汕頭攻略

       南沙諸島領有

       支那派遣軍設置

       南寧作戦(援蒋ルート遮断)

 1940年 中華民国国民政府樹立(南京・汪兆銘

 1941年 関東軍特殊演習

       南部仏印進駐→対日石油禁輸

 

 興亜院は漸禁主義の名目でアヘンの増産を各傀儡政府に通達した。国際関係上、アヘン生産と販売に問題があることは認識していたらしく、表看板には「漸禁」を出し、細部計画には各地でのアヘン増産による収入増を記載した。

 小売りや末端での販売は朝鮮人や台湾人、富山の薬売りが担うことが多かったという。

 注射の回し打ちによって、梅毒などが伝染した。

 記録によれば、広東ではアヘンが貨幣替わりに使われ、日本兵士は売春の際アヘンで支払いを行い、また基地の労働者には賃金としてアヘンを支給したという。

 

 5 大アヘン政策の展開

 太平洋戦争開始後、興亜院はアヘン増産を奨励したが、不作や密売の跋扈によりうまくいかなかった。

 1942年、興亜院は大東亜省に吸収された。

 各占領地でアヘンの生産と供給を奨励したが、これは成功した例と失敗した例とがある。

 満州国のアヘン断禁政策については、蒙彊政権から失敗を批判されているほか、細部は不明である。

 

 6 毒化政策をめぐる攻防

 日本は、アヘンについては管理する一方、ヘロイン、モルヒネは表面上禁止した。しかし、密造、密輸には日本人麻薬業者、日本人、日本軍特殊機関、駐屯軍に随行する朝鮮人が関わっていた。

 ヘロイン密売組織は朝鮮人が主だったのに対し、「角」と呼ばれるヘロイン合成麻薬は中国人が組織的に担った。

 

 日章旗の掲揚は、アヘン販売公認の標識だった。このため、次のようなエピソードが残されている。

 

 ――……中国人のうちには、日の丸の旗をみて、これがアヘンの商標だと間違えているものが少なくなかった。

 ――戦前にある日本の名士が中国奥地を旅行した。車窓から山村の寒村に日の丸の旗が翻っているのをみて、「日本の国威がかくも支那の奥地に及んでいるのか」と随喜の涙を流したという話がある。なんぞ知らん、それがアヘンの商標であることを知ったら、かれはなんといって涙を流したであろうか。

 

 国民政府、共産党のアヘン政策については本書では不明な点が多いとされている。

  ***

 

 ――占領地と植民地でこのように大量のアヘンを生産・販売・使用した戦争は史上ほかに例をみない。日中戦争はまさに真の意味でのアヘン戦争であった。

 

日中アヘン戦争 (岩波新書)

日中アヘン戦争 (岩波新書)

 

 

『日中アヘン戦争』江口圭一 その1

 日中戦争期、日本は利益獲得を目的として、蒙彊政権、満州国、朝鮮等で麻薬の生産と供給を行った。

  ***

 蒙古聯合自治政府は、蒙彊政権とも呼ばれ、1937年に日本によって内蒙古に作られた傀儡政府である。この政府は興亜院の政策に従ってアヘンの生産と販売に従事し、その売り上げが日本軍の資金源となった。

 満州や中国における日本のアヘン政策はあまり明らかにされていないが、本書は史料を頼りにその細部を明らかにするものである。

 アヘン政策が、中国侵略の重要項目だったことがわかる。

 

  ***

 1 アヘン・麻薬と中国・日本

 アヘンは罌粟から採取される。生アヘンからはモルヒネが精製され、鎮痛剤として用いられるが、依存性を持つ。ヘロインはモルヒネの化合物で、もとはドイツのIGファルベン系列会社の商品名だった。

 アヘン吸引は17世紀、オランダ植民地のジャワから明朝末期の華南にもたらされた。イギリス東インド会社がアヘン貿易を開始し、1840年から42年のアヘン戦争の結果、清朝におけるアヘン吸煙はさらに蔓延した。

 20世紀初頭にはアヘンが国際問題化し、ハーグ条約や国際会議においてアヘン・麻薬の根絶が取り上げられた。

 日本は、戦前の国際アヘン条約について、そのいずれにも調印・批准した。

 中国軍閥はアヘン生産と販売によって資金を調達していたが、1928年成立の国民政府は、孫文の方針にのっとり、アヘンを違法化した(禁煙法)。当時、南京は例外的にアヘン禍を免れていた。

 

 一方日本は、対外膨張にあわせてアヘン産業を拡大させていった。

・台湾……政府はアヘン専売制をとった。

・関東州……1905年、遼東半島を租借し、また満鉄付属地の行政権を手に入れた。関東庁の行政文書では、このとき大連が麻薬密輸の中心地になっていた事実を指摘している。

・朝鮮……1910年併合。アヘン生産が盛んだったため、政府にすべて納入させるようにした。日中戦争にともない罌粟の栽培、アヘン・麻薬の生産が増大し、アヘン供給地となった。

 特に、1937年から38年にかけて、朝鮮は世界最大のヘロイン生産地となった。

 

 中国におけるアヘン・麻薬密売は、日本人と朝鮮人が担った。

・青島・済南での、政府公認によるアヘン密売

・中国中部では、天津・上海が麻薬密輸の拠点となった。日本軍(支那駐屯軍関東軍)の庇護のもと、多数の日本人、朝鮮人が麻薬取引で財を成した。

・1932年成立の満州国、1935年成立の冀東防共自治政府は、アヘン・麻薬の生産・奨励と深く結びついていた。

 

 ――……満州国の専売制などを別として、第1次世界大戦期から満州事変期の日本によるアヘン・麻薬の密造・密輸・販売は、現地の日本軍が関与したり保護を与えたことはあっても、全体としてみれば、悪徳企業や不良日本人の私的な非行であり、犯行であった。この非行・犯行を、日本は日中戦争下に国策として公然と遂行するにいたる。

 

 麻薬生産地は主にインド、イラン、トルコ、中国だったが、1913年以降、大阪府での生産が始められ、茨木市では後藤新平の支持を得た「アヘン王」二反長音蔵が台頭した。

 日本の行政文書や、アメリカ領事の文書、東京裁判の資料などには、中国諸都市(大連、上海、天津、通州など)や日本租界に蔓延するアヘン窟の様子が記録されている。

 

 ――私は胸一面が腐って壊疽様の肉塊をなしており、拳全部を押し込むことのできるような穴が身体にあるアヘン常用者を幾人も見たことがある。こんな腐敗しつつあるかろうじて生命を保っている屍体に、麻酔剤の注射器をつぎからつぎへと差し込むのである。

 

 2 蒙彊・華北占領地のアヘン政策

 傀儡政権……1937年、関東軍はチャハル作戦によりチャハル省、山西省、綏遠省を攻撃し、察南自治政府、晋北自治政府、蒙古連盟自治政府を発足させた。主席は中国人または蒙古人で、最高顧問は日本人が就き、関東軍が内面指導を行った。

 この3つの政府は翌年蒙古聯合自治政府となった。

 [つづく]

 

日中アヘン戦争 (岩波新書)

日中アヘン戦争 (岩波新書)

 

 

王の集団墓地

 緑と青の

 クローブの匂いがする

 野原の

 王たちの埋まる墓

 くじらの腹より大きな

 穴の底に

 無数の胴体

 ひとつひとつ、金と銀の飾り

 色とりどりの衣裳

 それは、はぎとられ

 枯れ枝と

 骨ばった、足の裏、土と灰のくっついた

 黒い指

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『仏教百話』増谷文雄

 ――およそ百篇の物語をつらねて、仏教のアウトラインを描き出そうとするのが、この本の企画である。

 

 100話は仏陀の生涯を分割したもので、5つに区分けされる。

1 生涯の前半……出家~

2 教説:実践的なもの

3 教説:思想的原理

4 生涯の後半から死まで

5 その他の有名な物語

  ***

 

 1

 舞台……サーヴァッティ郊外のジェータ林の精舎とは、祇園精舎のことである。また、仏陀が正覚した場所はウルヴェーラー村の、ネーランジャラー河のほとりである。

 仏陀は、比丘(出家者)たちに説教し、道を教える。

 コーサラ国の釈迦(サーキヤ)族、太陽の裔が、仏陀の出身である。

 仏陀は出家し、悟りを開いた(正覚)。それは、縁起の法である。

 縁起の法とは存在の法則である。生があるから老死がある。

 仏陀の課題は、老死と苦だった。それらは生から生じる(苦は縁生なり)。

 過去の正覚者がたどった正しい道、八正道を実践すること。

 仏陀は悟りを開き、伝道に努めた。

 仏教は内観すなわち自己探求の教えである。

 悪魔(マーラ)は自分の内側におり、誘惑をする。

 仏陀とは、全能の救済者ではなく、導師である。かれはただ道を教えるだけである。

 

 2

 仏陀の教説のなかには、アスラやインドラ、パジャパティといったヒンドゥー教の神々も登場する。

 三宝……仏陀・教法・僧伽に帰依すること。

 

 ――僧伽(そうぎゃ)すなわち仏教教団においては、すべての者が、相たずさえておなじ聖なる道をたどる仲間であり、友達である。……僧伽が、三宝の1つとして、仏陀や、その教法とともに、仏教との最高の尊敬と帰依をいたすべき対象とせられる所以は、その他ではないのである。この「善き友」のつどいなくしては、この聖なる道の実践は成り得ないからである。

 

 不放逸が根本の道である。不放逸とは、集中と持続に焦点を置いた努力・精進をいう。

 政治にかかわろうとする意志は、誘惑として退けられる。

 

 ――かれは、ただちに、真理と理想に向かって通ずる聖者の道が、貪欲と汚濁のなかをゆく王者の道と、まったく異質のものであることを看破することを得たのである。

 

 3

 貪、じん、痴(とんじんち)とは、むさぼり、いかり、おろかさの三毒である。

 

 ――いかりは、ひとたびその炎にやかれるとき、一挙にしてその人を台無しにしてしまうからである。

 

 慈悲の心をもつことは生易しいものではない。

 解脱して涅槃にいたるとは、死んで昇天するものとはまったく違う。この世にあって煩悩の炎に焼かれている状態から、煩悩の根本を断ち切り、清らかにして安らかな人生がおとずれること、理想の境地をいう。

 無常を知ること。

 

 ――志の至らざることは、無常を思わざる故なり。

 

 正見とは、物事をありのままに、曇りのない心で観ることをいう。

・不害、不殺生(アヒンサー)

 

 4

 デーヴァダッタ(提婆達多)は、仏陀のいとこであり高弟だったが、教団を受け継いで指導者になりたいという野望を抱くに至った(名利は自己を滅ぼす)。

 かれは破僧となり、仏陀暗殺を何度も試みた。

 仏陀の死は般涅槃(はつねはん)と呼ばれる。

 

 ――この世のことはすべて壊法である。放逸なることなくして精進するがよい。これが、わたしの最後のことばである。

 

 仏陀は荼毘に付せられ、遺骨は分配され、舎利塔が建てられた(仏骨八分)。

 

 5

・闇と光……卑しい家に生まれるとは闇であり、罪業によるものである。

・群盲の象を撫でるがごとし。

・凶暴な盗賊アングリマーラが改心し、比丘となった話。

六波羅蜜

・鬼子母……人の子をさらって殺すハーリティが改心する。

・一夜賢者の偈。

 

 ――過去、そはすでに捨てられたり。未来、そはいまだ到らざるなり。……ただ今日まさに作(な)すべきことを熱心になせ。

 

ミリンダ王の問い……仏陀の供養は意味があるのか。

・中道

 

  ***
 出典……「パーリ五部」

 

仏教百話 (ちくま文庫)

仏教百話 (ちくま文庫)