うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『仏教百話』増谷文雄

 ――およそ百篇の物語をつらねて、仏教のアウトラインを描き出そうとするのが、この本の企画である。

 

 100話は仏陀の生涯を分割したもので、5つに区分けされる。

1 生涯の前半……出家~

2 教説:実践的なもの

3 教説:思想的原理

4 生涯の後半から死まで

5 その他の有名な物語

  ***

 

 1

 舞台……サーヴァッティ郊外のジェータ林の精舎とは、祇園精舎のことである。また、仏陀が正覚した場所はウルヴェーラー村の、ネーランジャラー河のほとりである。

 仏陀は、比丘(出家者)たちに説教し、道を教える。

 コーサラ国の釈迦(サーキヤ)族、太陽の裔が、仏陀の出身である。

 仏陀は出家し、悟りを開いた(正覚)。それは、縁起の法である。

 縁起の法とは存在の法則である。生があるから老死がある。

 仏陀の課題は、老死と苦だった。それらは生から生じる(苦は縁生なり)。

 過去の正覚者がたどった正しい道、八正道を実践すること。

 仏陀は悟りを開き、伝道に努めた。

 仏教は内観すなわち自己探求の教えである。

 悪魔(マーラ)は自分の内側におり、誘惑をする。

 仏陀とは、全能の救済者ではなく、導師である。かれはただ道を教えるだけである。

 

 2

 仏陀の教説のなかには、アスラやインドラ、パジャパティといったヒンドゥー教の神々も登場する。

 三宝……仏陀・教法・僧伽に帰依すること。

 

 ――僧伽(そうぎゃ)すなわち仏教教団においては、すべての者が、相たずさえておなじ聖なる道をたどる仲間であり、友達である。……僧伽が、三宝の1つとして、仏陀や、その教法とともに、仏教との最高の尊敬と帰依をいたすべき対象とせられる所以は、その他ではないのである。この「善き友」のつどいなくしては、この聖なる道の実践は成り得ないからである。

 

 不放逸が根本の道である。不放逸とは、集中と持続に焦点を置いた努力・精進をいう。

 政治にかかわろうとする意志は、誘惑として退けられる。

 

 ――かれは、ただちに、真理と理想に向かって通ずる聖者の道が、貪欲と汚濁のなかをゆく王者の道と、まったく異質のものであることを看破することを得たのである。

 

 3

 貪、じん、痴(とんじんち)とは、むさぼり、いかり、おろかさの三毒である。

 

 ――いかりは、ひとたびその炎にやかれるとき、一挙にしてその人を台無しにしてしまうからである。

 

 慈悲の心をもつことは生易しいものではない。

 解脱して涅槃にいたるとは、死んで昇天するものとはまったく違う。この世にあって煩悩の炎に焼かれている状態から、煩悩の根本を断ち切り、清らかにして安らかな人生がおとずれること、理想の境地をいう。

 無常を知ること。

 

 ――志の至らざることは、無常を思わざる故なり。

 

 正見とは、物事をありのままに、曇りのない心で観ることをいう。

・不害、不殺生(アヒンサー)

 

 4

 デーヴァダッタ(提婆達多)は、仏陀のいとこであり高弟だったが、教団を受け継いで指導者になりたいという野望を抱くに至った(名利は自己を滅ぼす)。

 かれは破僧となり、仏陀暗殺を何度も試みた。

 仏陀の死は般涅槃(はつねはん)と呼ばれる。

 

 ――この世のことはすべて壊法である。放逸なることなくして精進するがよい。これが、わたしの最後のことばである。

 

 仏陀は荼毘に付せられ、遺骨は分配され、舎利塔が建てられた(仏骨八分)。

 

 5

・闇と光……卑しい家に生まれるとは闇であり、罪業によるものである。

・群盲の象を撫でるがごとし。

・凶暴な盗賊アングリマーラが改心し、比丘となった話。

六波羅蜜

・鬼子母……人の子をさらって殺すハーリティが改心する。

・一夜賢者の偈。

 

 ――過去、そはすでに捨てられたり。未来、そはいまだ到らざるなり。……ただ今日まさに作(な)すべきことを熱心になせ。

 

ミリンダ王の問い……仏陀の供養は意味があるのか。

・中道

 

  ***
 出典……「パーリ五部」

 

仏教百話 (ちくま文庫)

仏教百話 (ちくま文庫)

 

 

『大江戸死体考』氏家幹人

 江戸時代、人びとと屍体とが近い距離にあった。本書は、特に試し斬りの専門芸者である山田家を中心に、屍体にまつわる制度や風習を紹介する。

 

 1

・江戸では身投げが多く水死体がひんぱんに浮かんだ。数が多いので、汐入で発見された屍体は海に突き流せと通達が出された。

・井戸への身投げ、男性の場合は首吊りが多かった。

・検死は「検使」と呼ばれ、屍体を調査するための文献が豊富にあった。

・情死の数が多いため、検使は処理しきれなかった。このため、もみ消し、示談等が横行した。

・試し斬りを専門とする、据物師山田浅右衛門は先祖代々この仕事を受け継いできた。

 将軍家の御道具(刀剣)の試し斬りを務める「御試御用」は、山田家の重要任務である。試し斬りには罪人の胴(首なし死体)が使われるが、これは伝統と古式に則った行事だった。

 

 2

 試し斬りは世界各地で見られた風習だが、日本では19世紀になっても残っていた。

 生きたまま斬られる場合は「生胴」といった。

 江戸初期には辻斬りが多かった。また、会津藩など試し斬りのさかんな地域では、道端や河原の変死体を持ち帰って主人の試し斬りに供する例があった。しかし、屍体の無断回収はやがて禁止された。

 試し斬りは観客のつめかける一大イベントだった。

水戸光圀……縁の下の非人をひきずりだして試し斬りにした。

 

 戦国時代から遠ざかるにつれて、試し斬りは不浄のものとして敬遠され、一部の専門芸者に託されるようになった。

 試し斬りの山田家と、蘭学者たちは、屍体をめぐって業務でのかかわり(いさかい)があった。

 

 3

 人斬り山田浅右衛門について。

 徳川幕府成立時、試し斬りや首斬り(処刑)を生業とする武士はほかにもいた。当時は、生きたまま執行することが多かったという。

 やがて、罪の意識からくる引退や、技術の伝承の問題から、山田家だけが試し斬りの家として生き残った。浪人の身分だったが、幕府や大名家からの試し斬り依頼、また製薬販売の副業で裕福だった。

 「人斬り浅右衛門」、「首切り浅右衛門」の異名は、江戸時代から伝わるものである。

 

 4

 人間の肝や人肉、脂肪が薬になるという民間療法信仰が古くから存在する。中国はその本場だが、日本でも行われていた。

 浅右衛門は、屍体から採取した肝や脳、人肉を貯蔵し、販売することで蓄財した。

 

 5

 天保の時代には、江戸において切腹がおこなわれることはまれになっていた。いざ、罪を犯した武士が切腹することになると、介錯人が見つからないということで、臨時に山田浅右衛門の高弟である後藤為右衛門が雇われた。

 山田家の弟子は、レギュラーとして登録されている15人~18人以外にも、多くの練習者を抱えていたと思われる。

 ある弟子父子は川越藩から処刑業務の外注を受け、そのたびに出張した。

 弟子たちは各藩から処刑の依頼を安価で引き受け、その屍体で練習をすることができた。

 

 ――「浪人」という曖昧な身分で将軍家の御様御用を代々務めるのみならず、依頼があれば大名家にも人斬りの人材派遣をしていた山田浅右衛門。しかも彼の弟子たちは、それぞれ異なる藩に所属していたのです。

 

 

『ハッカーズ』スティーブン・レビー

 コンピュータ黎明期の歴史と、「ハッカーズ」、プログラマーたちに焦点を当てた本。

 コンピュータやインターネット、ゲームの歴史を網羅しているのではなく、当時活躍したハッカーたちの倫理と、その倫理が組織化、商業化によって失われていく過程を描いている。

 

  ***

 1 50年代、60年代:第1世代

 ピーター・サムソン、アラン・コウトクらはMIT(マサチューセッツ工科大学)において、大学のコンピュータや電話システムをいじって遊んだ。

 かれら学生たちは好奇心に基づいて技術を追求し、そこから「ハック」の文化が生まれた。ハックとは、革新的で、かっこよく、高度なテクニックを駆使していなければならなかった。

 当時、コンピュータは計算道具でしかなく、科学の対象とはみなされていなかった。

・TX‐0、IBM709

ジョン・マッカーシーマービン・ミンスキー

 

 ハッカーの倫理とは……

 ――コンピュータへのアクセス、加えて、何であれ、世界の機能の仕方について教えてくれるものへのアクセスは無制限かつ全面的でなければならない。実地体験の要求を決して拒んではならない!

 ――情報はすべて自由に利用できなければならない。

 ――権威を信用するな――反中央集権を進めよう。

 ――ハッカーは、成績、年齢、人種、地位のような、まやかしの基準ではなく、そのハッキングによって判断されなければならない。

 ――芸術や美をコンピュータで作り出すことは可能である。

 ――コンピュータは人生をよいほうに変える。

 

 チェス・プログラムの開発は、コンピュータ言語であるFORTRANとアセンブリ言語機械語の混用により行われた。

 デジタル・イクイップメント・コーポレーション社(DEC社)のPDP‐1というマシンが導入され、さらに開発が進められた。この機械は、ハッカー文化の発祥となった。

 一方、IBMは既に大企業であり、官僚主義的な文化がハッカーたちからは嫌われた。

 

・MITの学生スティーブ・ラッセルを中心に、PDP‐1で動作するゲーム「宇宙戦争」が作られた。

・コンピュータ音楽……プログラムに戻づいてバッハが演奏された。

・リチャード・グリーンブラットと「数学ハッカー」ビル・ゴスパー

 

 ――反直観的解決は、ハッキングが究極に基づいている数値的関係の無限の曼陀羅の中にある、物と物との魔術的関連を深く理解することから生まれる。そのような数値的関係を見出すこと、究極的には新しい数学を打ち立てることが、ゴスパーの目指す聖称となる運命にあった。

 

 60年代初めには、国防総省もまた高度研究計画局(ARPA)を中心にコンピュータ技術の研究を開始しており、MITにもコンピュータを供与した。

 

 ――たとえ錠のおりたドアの向こうに何の道具もないとしても、錠は官僚支配の権力、結局はハッカー倫理の完全な実現を阻止するために行使される権力を象徴していた。

 

 タイムシェアリングシステムは、複数ユーザでコンピュータを同時に利用するシステムである。ハッカーたちは、パスワードや規制で縛られたCTSSシステムを嫌い、ITSというより自由なタイムシェアリングシステムを構築した。

 ハッカーたちは、官僚主義、パスワードといった管理機構を嫌った。

 ハッカーたちのほとんどはベトナム戦争に反対していたが、一方コンピュータ開発の資金は国防総省から与えられていた。

 

 ――ハッカーたちは、上機嫌で、情報の自由な流れ、反中央集権、コンピュータ民主主義を根底に置いた、簡潔でわかりやすい、新時代の哲学を作り出していた。

 ――しかし、反軍部の抗議者たちは、いわゆる理想主義が結局、国防総省という戦争マシンにとって役立つものである以上、そんな哲学はごまかしだと考えた。

 

 MITの研究センター出身のハッカーたちは、産業界や別の計算機センターに移籍することが多かった。

 スタンフォードAIラボ(SAIL)では、特にコンピュータ・ゲーム開発が盛んになった。

 各大学の研究所は、ARPANETによって連接されており、ハッカー文化を実践していた。

 ビル・ゴスパーは、イギリスの数学者コンウェイが開発したLIFEゲームにおいて、パターン発見に貢献した。

 かれは、ハッカー文化を適用しないNASAによるロケット打ち上げを見学し、自分たちの弱点を認識した。

 

 ――ぼくたちが、やったことは、面白いものもあったが、社会性がないと指摘された。ぼくたちは、素晴らしい文化をもった、ユートピア的な環境ですごしてきたんだなあと、実感したよ。

 

  ***

 2 70年代:ハードウェア・ハッカー

 ハードウェア・ハッカーたちは、コンピュータとコンピューティングをより身近にし、人びとに解放するという使命感を抱いていた。

 リー・フェルゼンシュタイン、エフレム・リプキンは、どちらも左翼的傾向、リベラル傾向を持っており、テクノロジーが軍事と戦争に用いられるのを嫌悪した。

 

 MITS社のエド・ロバーツは、インテル社の開発したマイクロプロセッサを使い、「オルテア8800」というミニコンピュータを販売した。

 オルテアは箱にランプがついただけの原始的な機械であり、販売当初はまだ生産さえしていない状態だった。しかし、個人で扱える点、基盤や周辺機器を拡張できる点が魅力となり、多くの愛好家を呼び寄せた。

 フレッド・ムーア、ボブ・アルブレヒトによってつくられた愛好家たちの「ホームブルー・クラブ」は、巨大化していった。

 

 ビル・ゲイツポール・アレンは、オルテア用のBASICソフトウェアを作り、ロバーツに渡した。しかしビル・ゲイツは、自分たちの開発したソフトウェアが、無償で複製配布されることに納得がいかず、抗議した。

 友人同士だったスティーブ・ウォズニャック(ヒューレットパッカード社勤務)とスティーブ・ジョブズ(アタリ社勤務)は、ホームブルー・クラブでの交流をしながら、自分たちでコンピュータ、「アップル」、「アップル2」を製造・販売した。
 「アップル2」は、マイクロコンピュータ、パーソナルコンピュータの歴史を変えることになった。

 

 クラブのメンバーであり雑誌編集者のジム・ウォーレンは、1977年にWCCF(West Coast Computer Fair)を開催した。アップル社のPCが展示され、大きな注目を浴びた。

 マイクロコンピュータ産業は急激に成長し、またコンピュータも身近な存在となった。その過程で、ハッカー文化と、ビジネスとの軋轢が生じた。

 

  ***

 3 80年代:ゲームハッカー

 ケン、ロバータ夫妻が立ち上げたゲーム会社、シエラ・オンライン社を中心に物語は進む。

 80年代になると、ハッカーたちはソフトウェア、特にゲーム開発に夢中になった。シエラ社やブローダーバンド社、シリウス社といったゲーム会社は、多くのスターハッカーを抱え、次々とヒット作を販売し、富を手に入れた。

 しかし、ゲーム産業が巨大化していくのにあわせて、会社もまた官僚組織化、商業化していき、ハッカーたちは息苦しさを感じ始めた。

 情報を共有し、自由と個性を尊重するハッカー倫理は否定され、労働者、技師、規則に従うプログラマーが求められるようになった。

 

・妻ロバータが作ったアドベンチャー「ミステリーハウス」、「魔法使いとお姫様」は莫大な売り上げを稼いだ。ウィリアムズ夫妻は、シエラ社を成長させていくが、その過程で初期のハッカーたちの離心を招いた。

・ジョン・ハリスはアタリ800版「フロッガー」を制作し、莫大な印税を手にした。

・ヒット作……「ソフトポルノ」、リチャード・ガリオットの「ウルティマ」、「ダーククリスタル」「ロードランナー」等。

 

  ***

 4 終章

 商業化と秘密主義、パスワードの波は、MITにも訪れた。AIラボのコンピュータにはセキュリティ方針が導入され、またLISP言語は会社製品となった。

 リチャード・ストールマンは自らを最後の真正ハッカーと称し、開かれた編集プログラムEMACS等を開発し、また自由なOS共有を趣旨とするGNU運動を創始した。

 

ハッカーズ

ハッカーズ

 

 

『日中十五年戦争史』大杉一雄

 著者は旭川の陸軍で終戦を迎え、日本開発銀行で勤務した民間人の歴史家であり、学者ではない。

 日中戦争当事者の回顧録や、中国側の記録、戦史叢書や記録を参考に、特に日中戦争本格化までの経緯を分析する。

  ***
 日中戦争を段階的に区分し、それぞれのフェーズにおいて和平工作や戦争回避の努力がなされていたことを明示する。

 事実によれば、満州事変前後や盧溝橋事件後、その後の第2次上海事変にかけて、一気に全面戦争へと突き進んでいったわけではない。各勢力が努力はしていたが、結果的に戦争を回避することができなかった。

 

 著者の結論は以下のとおり。

満州事変は満州特殊権益を超えた侵略行為だった。

・事変終結後も、関東軍華北に圧力を加え、傀儡政権工作等を行い、抗日ナショナリズムを激化させた。

・日中外交交渉は失敗し、関東軍は綏遠事変等強硬策を続けた。中国側は国民党を中心に民族統一運動の体制を固めた。

・盧溝橋事件後、政府の不拡大方針は現地軍の独走で潰れた。

・南京攻略までの間、トラウトマン工作による和平への道が模索された。参謀本部は不拡大を主張したが、現地軍と「近衛内閣」はそうではなかった。

・近衛による「蒋介石を相手とせず」声明により、停戦の道は絶たれた。

 

 なぜ、こうした事態になったかの要因は以下のとおり。

文民統制の困難な大日本帝国の政治システム

・軍からの威嚇・圧迫による政治の委縮

・中国軍と中国ナショナリズムへの過小評価・蔑視

 

 ――日清戦争後顕著となった日本の対中優越感、中国蔑視の観念は中国民族主義を理解することができず、その抗戦能力を過小評価することとなった。知識階級や外交官のなかにさえそのような傾向があらわれていた。だからこそ日本はきわめて安直に中国に武力を行使し、身動きできなくなるまで侵略をおしすすめてしまったのである。

 

  ***

 ◆メモ

満州特殊権益は、日清日露戦争を通して獲得された、日本の国家的資産と考えられていた。しかし、事変によって成立した満州国の領土は、当時の既得権益範囲を大幅に超えるものだった。

広田弘毅は軍部に協調し、また確固たる態度をとらず時流に流され続けた。著者は広田弘毅を厳しく批判している。

石原莞爾は、参謀本部の黙認をとりつけ満州事変を起こした後、日中戦争時には不拡大派として停戦を主張した。しかし武藤ら強硬派から疎んじられ左遷された。石原の満洲工作は、下剋上と独断専行を軍隊に蔓延させ、統制を失わせた点で罪深いものがある。

 また、石原の世界最終戦論は、日蓮宗的な思想の入り混じったもので、合理的とは言い難い。

・幣原は協調外交で知られるが、国際連盟を始めとする国際機関には懐疑的だった。

・1935年、蒋介石は幣制改革を実施し、国民党の貨幣を正式採用し経済力を強化した。これは英国のリース・ロスの支援による。一方、日本は軍事力で圧力を加えていただけだった。

・華南は日本海軍の担当領域であり、1936年、成都、北海で邦人襲撃が起きた際は、海軍が強硬策を主張した。

 

 ――もともと大陸政策、対外武力行使に関しては陸軍の積極・主役、海軍の消極・脇役とその役割は決まったようなものだったが、このときの陸軍と海軍との、いわば主客転倒したような態度の違いは一体何を意味するのであろうか。それは陸軍が対ソ戦略に重点をおく「石原イズム」のもとに、対華用兵には慎重な方針をとり、ハッスルした海軍の行動に対し冷静な態度を持していたということである。もしこのとき陸軍が安易に海軍が同調していたならば、日中戦争は一年早く、「盧溝橋」を待たずして「北海」から始まったことであろう。

 

・当時はソ連の脅威が大きな位置を占めていた。石原、多田駿ら参謀本部の不拡大派は、対ソ軍備を優先すべきと考えていた。

・近衛内閣は大きな期待を受けたが、対中和平工作は後退した。

・当時の国民は、満州を日本の国家資産と考え、中国をこらしめるべきという世論に傾いていた。知識人の大半は、満州は認めるが日中戦争拡大には懐疑的だった。満州も返還し経済連携すべきと主張していたのはごく一部(石橋湛山ら)だった。

日中戦争初期に宣戦布告しなかったのは、中立維持の米国からの輸入を維持するためだった。

・中国のナショナリズムは強固であり、いずれ満州も奪回されただろうと著者は推測する。蒋介石は、日本を持久戦に追い込めば勝てると確信し、デモや抗日運動に連動して強硬策を進めた。一方、和平の窓口は常に開けていた。

・盧溝橋事件後、参謀本部の和平案を退け、拡大方針を進めたのは政府である。具体的には……近衛首相、広田外相、杉山陸相、米内海相

 財界人は、設備投資の面から戦線拡大を支持し、国民も中国に一発食らわせようと熱狂した。木戸幸一も、中国に見下され、株価が下落することを警戒し拡大を支持した。海軍も米内、山本、井上ら役職者が開戦派に迎合した。

 

 ――近衛らにそれだけの識見と予見力がなかったことは残念なことだが、実は彼ら自身が、強制されたのではなく、陸軍省側と同じように武力による屈服が容易にできると考えていたのであり、参謀本部説は少数とみていたのである。

 

  ***

 個人的なまとめ

 大まかな年表

 1931年9月 柳条湖事件

 1932年1月 第1次上海事変

      3月 満州国建国宣言

      5月 五・一五事件

      9月 日本、満州国昇任

 1933年3月 国際連盟脱退

      5月 塘沽停戦協定

 1934年4月 天羽声明(日本のモンロー主義

 1935年6月 梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定

      11月 冀東防共自治政府成立、抗日激化

      12月 冀察政務委員会

 1936年2月 二・ニ六事件

      8月 成都事件(邦人襲撃)

      9月 北海事件(邦人襲撃)

      11月 綏遠事変(関東軍の傀儡擁立工作)

      11月 日独防共協定

      12月 西安事件 国共合作

 1937年6月 近衛内閣成立

      7月 盧溝橋事件

         通州事件(傀儡政府中国人部隊による叛乱・民間人虐殺)

      8月 第2次上海事変

         不拡大方針放棄閣議決定

         中ソ不可侵条約締結

      9月 第2次国共合作

         石原作戦部長更迭

      12月 南京占領、虐殺事件

          北京に中華民国臨時政府成立

 1938年1月 御前会議「支那事変処理根本方針」決定

         大本営、和平交渉打ち切り

         「国民政府を対手とせず」声明

 

日中十五年戦争史―なぜ戦争は長期化したか (中公新書)

日中十五年戦争史―なぜ戦争は長期化したか (中公新書)