うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

モンテスキューと奴隷制に関して

 モンテスキューは黒人を人間扱いしていなかった、という引用がネット上でよくみられるが、『法の精神』の抄訳(中央公論社)を読んでいて、それは誤りではないかと疑いを抱いた。
 「ヨーロッパの偉人がこんなひどいことを言っている」というおもしろさだけで孫引きされているのだろうかと思ったが、調べたところ、英語圏でもよく論争を招く一節とのことである。

 

 モンテスキュー奴隷制の項で以下のように述べている。

 

 奴隷制は人間の本性に反しており、君主制、共和制では絶対に持つべきではない。

 各市民の自由は、公共の自由の一部であり、民主国家においては主権の一部である。

 奴隷制は、多民族への偏見にも由来している。

 

 ――知識は人間をおだやかにする。理性は人類愛に導く。それを捨てさせるのは偏見のみである。

 

 一部の国は、キリスト教に改宗しない者を奴隷とする法律を制定した。このことを批判し、次のように書く。

 

 ――なぜなら、絶対に強盗であって、同時にキリスト教徒でありたいと思っていたこの強盗どもは、きわめて信心深かったからである。

 

 ネットで孫引きされる黒人奴隷に関する文言は、全体が反語として表現されている。

 モンテスキューは、「もし黒人奴隷制の権利を支持しなければならないとすれば、こう言うだろう」と書く。

 以下の文言は、すべて奴隷制擁護のばかげた例として挙げられているものである。

 

 ――The Europeans, having extirpated the Americans, were obliged to make slaves of the Africans, for clearing such vast tracts of land. (ヨーロッパ人は先住民を絶滅させてしまったので、あれだけの広い土地を整理するためにアフリカ人奴隷を使うしかなかったのだ)

 ――Sugar would be too dear if the plants which produce it were cultivated by any other than slaves. (砂糖は奴隷以外に栽培させればあまりに高価になってしまうだろう)

 ――These creatures are all over black, and with such a flat nose that they can scarcely be pitied. (この生き物たちは全身が真っ黒で、のっぺりした鼻をもっているものだから、ほとんど同情には値しない)

 ――かれらに同情することなど、ほとんど不可能なほどである。

 ――きわめて賢明な存在である神が、魂を、とくに善良な魂を、まっくろな肉体に宿らしめたもうたなどということは考えられない。

 ――これらの連中が人間であると想像することは不可能である。なぜなら、もしわれわれが彼らを人間と考えるならば、人びとはわれわれのことをキリスト教徒ではないと考えだすであろうから。

 

 人間は平等に生まれるため、奴隷制は、自然に反していると主張する。

 

 ところが別の章では、一部の地域では、また気候条件によっては、統治のために奴隷制がやむを得ないとも言っている。

 「モンテスキューは黒人を人間扱いしていなかった」という説は疑わしいものの、モンテスキューの思想は単純な奴隷制反対ではない。

 フランス語の原典を実際に読まないと、正確な考えを知るのは難しそうだ。

 

法の精神 (中公クラシックス)

法の精神 (中公クラシックス)

 

 

The Spirit of the Laws

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『ペリリュー・沖縄戦記』ユージン・スレッジ その2

 もっとも精神を痛めつける武器は砲弾で、特に無防備な状態で砲撃にさらされることは、ベテラン兵士であっても耐えがたいものだったという。

 海兵隊は仲間の絆を重視し、実際、信頼関係があったからこそ力を発揮できたと著者は回想する。

 

 ――珊瑚礁岩の染みを見ていると、政治家や新聞記者が好んで使う表現がいくつか頭に浮かんだ。「祖国のために血を流し」たり「命の血を犠牲としてささげる」のはなんと「雄々しい」ことだろう、等々。そうした言葉が空疎に思えた。血が流れて喜ぶのはハエだけだ。

 

 ――私のなかの何かがペリリューで死んだ。失われたのは、人間は根っこのところでみな善人だ、という説を信念として受け入れるような、子供っぽい無邪気さかもしれない。しかし、自分は戦争の野蛮さに耐えなくても済むくせに失敗を繰り返し、他者を戦場に送り続ける政治家という存在を、信じる気持ちを失ったのかもしれなかった。

 

  ***

 アイヴィーリーグ出身の、若い新任士官の風景。

 

 ――私は戸惑いを隠せなかった。どう見ても、戦争をフットボールボーイスカウトのキャンプと取り違えていたからだ。

 

 沖縄戦の時期に補充された新兵は教育程度が低く、基礎訓練の後そのまま戦地に送り込まれたようだった。かれらは手りゅう弾を箱詰めのまま投げ、何をすればいいかもわからずほとんどが殺害された。

 

  ***

 ――あんなに帰国を望んでいた戦友が、海外戦線にふたたび志願することを考えているなどと書いてよこす気が知れなかった。戦争にはうんざりしていても、ふつうの社会生活や安楽な国内の軍務に順応することのほうがむずかしかったのだ。

 戦場を経験した者にとっては、ささいなことで不満を言う市民がうっとうしかったという。

 

  ***

 沖縄戦は泥とぬかるみ、「人間肉挽機械(ヒューマン・グラインダー)」と呼ばれる砲弾と機関銃の嵐をかいくぐらなければならない場所だった。

 著者は戦場の風景を細部まで記憶している。

 沖縄戦は砲火が激しく、屍体の回収にも時間がかかった。このため、日本兵、米兵の屍体があちこちに散乱し、着ている服の裾やポケットから大粒のうじ虫があふれだすようになった。

  ***

 海兵隊員として戦った著者は、自分の体験に対して相反する2つの評価を下している。

 この両面のどちらもが戦争の構成要素であり、自分の見たい方だけを取り上げて論じることはできない。

 

 ――戦争は野蛮で、下劣で、恐るべき無駄である。戦闘は、それに耐えることを余儀なくされた人間に、ぬぐいがたい傷跡を残す。そんな苦難を少しでも埋め合わせてくれるものがあったとすれば、戦友たちの信じがたい勇敢さとお互いに対する献身的な姿勢、それだけだ。海兵隊の訓練は私たちに、効果的に敵を殺し自分は生き延びよと教えた。だが同時に、互いに忠誠を尽くすこと、友愛をはぐくむことも教えてくれた。そんな団結心がわれわれの支えだったのだ。

 

  ***

 ◆メモ

 地上戦闘がどのような様子なのか、戦争に参加することがどういうことなのかを示す本。

 戦争には国際政治の一要素という側面がある。わたしたちは、抑止や外交戦略という観点から、もしくは鬱憤晴らしや現状打開のために、気軽に戦争という選択肢を考慮しがちである。

 しかし、ほとんどの人間が直面する戦争とは、おそらくこの本に書かれているような現実である。

ペリリュー・沖縄戦記 (講談社学術文庫)

ペリリュー・沖縄戦記 (講談社学術文庫)

 

 

『ペリリュー・沖縄戦記』ユージン・スレッジ その1

 海兵隊に志願し、パラオ諸島ペリリュー島の戦い、沖縄戦に参加した兵隊の回想録。太平洋戦争の様子が細かく書かれており、兵隊たちの悲惨な状況を知ることができる。

 構成は次のとおり。

・志願とブートキャンプ

ペリリュー島の戦い

沖縄戦

 著者は戦争に乗り遅れないように、士官候補課程(ROTCの原型)を途中でやめ、一兵卒として入隊した。

  ***

 最初に派遣されたのがパラオ諸島ペリリュー島で、海兵隊第1師団は島の日本軍守備隊を掃討する任務を与えられた。島での戦闘は、海兵隊アムトラックで上陸し、日本兵の迎撃をかいくぐり制圧した後、陸軍と交代するというものである。日本兵は万歳突撃をやめ、持久戦法をとるようになっており、米軍の被害は大きくなった。

 以下、著者が経験した戦争の風景について……

・ベテラン兵は皆うつろで生気のない眼をしていた。

海兵隊を含む米軍に共通していたのは、みなぎる日本人(ジャップ、ニップ)への憎悪だった。降伏すると嘘をついて、米軍偵察隊を皆殺しにしたゲッチィ大佐事件や、真珠湾攻撃などを受けて、日本兵は卑怯であるというのが米軍の認識となっていた。

 

 ――……あの戦いのさなか、海兵隊員たちは間違いなく、心の底から、激しく日本兵を憎んでいた。こうした憎悪を否定したり軽視したりするなら、私が太平洋の戦場で生死を共にした海兵隊員たちの固い団結心や熱烈な愛国心を否定するのと同じくらい、真っ赤な嘘をついていることになるだろう。

 

・ブートキャンプには、兵隊が生き延びるために必要な要素が詰まっていた……弾の音がしたらすぐに伏せること、眠らないこと、闇の中でも音や気配を察知すること、銃の扱いに習熟すること等。

・戦利品漁りは、兵隊の中でも当たり前に行われていた。かれらは日本兵の物品を手に入れ、また金歯を抜き取った。ある兵隊は生きている日本兵の口を耳元まで切り裂き金歯をナイフで抜き取った。

 

 ――歩兵にとっての戦争はむごたらしい死と恐怖、緊張、疲労、不潔さの連続だ。そんな野蛮な状況で生き延びるために戦っていれば、良識ある人間も信じられないほど残忍な行動がとれるようになる。われわれの敵に対する行動規範は、後方の師団司令部で良しとされるものと雲泥の差があった。

 

・後方部隊の人間が、戦闘終結後にやってきて、日本兵の屍体から物品を漁る場面が多々見られた。

・ハワイやフィリピン等大規模な司令部、基地のある島と異なり、小島やへき地の環境は過酷だった。駐留地であるパヴヴ島は腐ったココナッツで地面が埋め尽くされ、足元はぬかるんだ。

・前線の歩兵は不潔に悩まされた。からだは垢や油で黒くなり、悪臭が鼻をついた。水の少ない南洋での戦いは、油の浮いた水や、白濁した水たまりの泥水を飲まなければならなかった。

  ***

 戦闘は兵士に大きなストレスを与え、かれらの精神は興奮と絶望とで振り回された。

 

 ――私は身震いし、息が詰まった。怒りと苛立ちと無念の思いがこみ上げ、激しい嫌悪感に襲われる。それは、仲間が窮地に陥っているのを見守っているほかないときに、いつも私の心を苛む感情だった。

 

 ――……そのとき、この状況の意味する現実が、ゆっくりと頭のなかで形を成していった。――われわれ歩兵は消耗品同然なのだ!

 

 ――容易には受け入れがたい事実だった。われわれは生命と個人の価値を尊重する国に生まれ、そういう文化のなかで育ってきた。自分の命など何の価値もないと思い知るのは、孤独の極みともいうべきだった。惨めなことこのうえもない体験だった。大方の古参兵は、すでにガダルカナルの戦場で、あるいはグロスター岬の戦闘で、こうした現実を思い知らされてきた。

 

[つづく]

 

ペリリュー・沖縄戦記 (講談社学術文庫)

ペリリュー・沖縄戦記 (講談社学術文庫)

 

 

『幕末の天皇』藤田覚 その2

 4 鎖国攘夷主義の天皇

 孝明天皇即位の時代には、外国船が次々に訪れ開国と通商を要求していた(1844年以降)。

 幕府はアヘン戦争の二の舞を避けるために、朝廷や諸国大名に助言を求めた。

 1853年のペリー来航後、幕府は日米和親条約、日英和親条約、日露和親条約を締結し、朝廷に事後承諾を求めた。

 朝廷は、外国からの圧力に対し、ひたすら神社・寺院での祈祷を進めた。しかし内部では、開国論とそれに反対するものとで内紛が起きていた。

 日米修好通商条約の締結に際し、孝明天皇が幕府の調印要求を拒絶したため、朝幕の軋轢は決定的となった。

 

 ――……調印以前に朝廷の勅許を求めようとした背景には、条約締結に対する強い異論を、勅許により天皇の権威を利用して封じこめるという意図とともに、簡単に勅許が得られるという読みがあった。……よもや朝廷の強硬な反対により勅許を得られないという事態がおころうとは、思ってもみなかったようだ。

 

 条約拒否の勅答をめぐっては、下級官人が攘夷を求めて押し寄せるという公家一揆が発生している。

 大老井伊直弼が朝廷を無視し条約調印を通知したため、孝明天皇は激怒し攘夷派の水戸藩徳川斉昭)、御三家、御三卿、諸大名に手紙を送った。

 井伊直弼は対抗策として攘夷派を弾圧した(安政の大獄)。

 

 5 江戸時代最後の天皇

 その後、孝明天皇は公武宥和を唱え、幕府が一定の期間を経た後、鎖国をするならば問題はないという考えになった(公武合体鎖国攘夷)。

 しかし、尊王攘夷の志士たちによるテロ活動と圧力が強まった。

 朝廷の権威がさらに強まる一方、孝明天皇公武合体派(会津藩薩摩藩等)の意思はかき消されていった。

 

 ――草莽の志士と尊攘派の公家が公然と結合し、尊王攘夷はより過激なものとなっていった。……いわば朝廷が尊攘派に乗っ取られた形になった。

 

 孝明天皇公武合体派の公家は、「八・一八の政変」で朝廷内から過激派を追放した(七卿落ち)が、以後幕府に追従する方針しかとれなくなり、支持を失った。

 孝明天皇は1865年、四か国連合に対する通商条約調印に同意したが、これは開国派への大幅な譲歩だった。さらに幕府の長州征伐に勅許を与えたため、尊攘派から完全に見放された。

 

 ――公武合体・大政委任という江戸時代の朝幕関係、ひろく江戸時代の国政の枠組みをあくまで守ろうとする孝明天皇は、まさに「江戸時代の天皇」そのものであった。しかし、江戸時代の政治体制を変革しようとする動きが強まるなかでは、早晩否定されざるをえなかった。

 

 天皇は1866年に36歳で死亡した。当時から毒殺の噂がたち、亡霊騒ぎも起こったが、いまだに真相はわかっていない。

 践祚した明治天皇は幼少だったので宮中はクーデターに向けて邁進した。

 

  ***

 ◆所見

 帝国主義列強の圧力という危機に際して、朝廷や幕府などそれぞれの勢力が右往左往している様子を認識した。

 現実は複雑であり、最適な答えが、簡単に出てくるということはないようだ。

・大義名分、正統性はいつの時代でも一定の力を持つ。よって、単純な武力と軍事力だけで、社会が安定することはない。

・ある勢力に対して協力を仰いだり、支援を募ったりすることは、その勢力に対し、一定の力を与えることである。

孝明天皇の動きを検討すると、自分のとった行動が思わぬ事態を引き起こしていることが確認できる。

 

  ***

 メモ

 尊王攘夷派:三条実美その他

 岩倉具視:当初、公武合体を唱えるが後大久保利通とともに王政復古へ転向、新政府の要人となる。

 

幕末の天皇 (講談社学術文庫)

幕末の天皇 (講談社学術文庫)