――殺戮の脅威や長年の戦争によって、わたしたちチェチェン人は、人間的感情の表出が敵の眼に弱さと見られることを恐れて、できるだけ自分の感情を隠すように条件づけられてしまった。
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チェチェン人ハッサン・バイエフの自伝。
医者になり、チェチェン戦争のなか治療にはげむが、ロシア連邦軍から指名手配をうけてアメリカに亡命するまでが書かれている。
バイエフはチェチェン共和国の首都グロズヌイ近郊のアルハン・カラに生まれ、成長してからはサンボや柔道などの格闘技に打ち込み、シベリアの都市クラスノヤルスクの医科大学に進んだ。スポーツと学業に打ち込み医者になった。
故国チェチェンの情勢の悪化……ソ連解体と同時に元空軍のドゥダーエフが独立を宣言し、中央政府がこれに反発する。バイエフは故郷に戻り、戦争に備える。
第一次戦争がはじまると、彼は寝食をおしんで負傷者の治療をおこなう。一時休戦になったときには、彼の精神は病んでいた。さらにプーチン統治下で第二次戦争がはじまると、バイエフはチェチェン戦闘員とロシア兵の両方を治療したために、両軍から命を狙われる。しかし同郷人の助けを得て、無事アメリカに亡命する。
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一人の民間人の自伝だが、以下のように、ロシアやチェチェンを知るための多くの手がかりが示されている。
チェチェン人の文化……チェチェン人はコーカサスのふもとに住むムスリムであり、昔から侵略と征服にさらされてきた。冒頭に引用した文のように、チェチェン人は簡単に弱音をはいたり、感情をあらわにしたりしない。尚武の気風が根付いており、若者はみな柔道、サンボ、ボクシング、テコンドーなどで心身を鍛える。
彼らの不撓不屈の精神を、ソルジェニーツィンも賞賛している。彼によれば、収容所で唯一、絶対に従順な態度を見せない民族がいた、それはチェチェンだった。彼らは絶対にこびへつらわず、こびへつらう者を軽蔑した。
イスラーム……チェチェン人はイスラム教徒だが、彼らの信仰は世俗生活や民族の風習と調和しており、現代のゆるやかな仏教や神道、キリスト教に近い。女はベールで顔を隠したりせず、舞踏も禁止されていない。酒は控えるべきだと定められているが、これはロシア人の悪癖を目にすれば仕方ない。
第二次戦争と前後してやってきた原理主義者はワハビ(ワッハーブか)と呼ばれており、チェチェン国内でビラを配るなど不気味な活動に従事している。
バイエフは、ワハビの厳格なイスラームはチェチェンの文化になじまないとして否定する。
戦争とケガ、死体……バイエフは外科医であり、本書の戦争描写は生々しい。戦争になれば人間はかならずけがをし、死体になる。医者は負傷箇所を見て治療しなければならないから、描写が具体的になる。
――少年は家の広間におかれた板の上に寝ていた。頭部の左側の傷口から灰色のゼリー状のもの、つまり脳の一部が滲み出ていた。
――血で重く濡れた包帯をとると、ぐしゃぐしゃに潰れた顔が現れた。血や肉に泥までまじっていた。わたしはまず殺菌ガーゼでできるかぎり泥をふきとり、顔と頭を触診した。銃弾が一発、右の頬骨に進入して左右の鼻洞を砕き、鼻骨をつらぬいて左眼の下部から射出していた。上顎は三つに割れており、破片が口腔に刺さっていた。さらに頬の柔組織がえぐられて、右の頬と鼻梁のあいだに穴があいていた。
ロシア軍の腐敗……第一次戦争のときのロシア軍は散々な状態で、軍紀の乱れがはなはだしかった。このため、五〇〇〇人ほどのチェチェン戦闘員にたいし苦戦を強いられ、さらに首都グロズヌイを奪回されてしまった。ロシア軍の腐敗は、『あらかじめ裏切られた革命』でも触れられていた。
傭兵(コントラクトニキ)は残虐行為の担い手である。彼らは刑務所から出された犯罪者であり、スペツナズ(特殊部隊)として訓練をうけてきた。
バイエフによれば彼らはふつうの人間ではなく、ほとんどいつも酔っ払っており、日光浴をするか、拷問部屋をつくってチェチェン人をつかまえて殺す。
ロシア軍は予算不足であり、給料もろくに支払われなかったから、かわりに誘拐や略奪をおこなった。傭兵たちの下で働かされたのが、ろくな訓練もされずに派遣されたロシア人新兵である。彼らは傭兵からリンチされ、酒をもってこい、誘拐して来いなどの命令を受ける。
チェチェン勢力……空軍大将ドゥダーエフは停戦中にロケット弾を撃ちこまれ死亡する。野戦司令官たちはみな個性豊かである。シャミーリ・バサーエフは優秀な指揮官であり、連邦軍から常に狙われている。バイエフは彼の同級生であり、サッカーの好きな、物静かな少年だったと回想する。ラドゥーエフはもともと大卒のインテリだったが、司令官となってからはロシア軍の大敵となる。彼は何度負傷してもよみがえる、不死身の男かのように描かれている。
バラーエフは綺麗な軍服をまとった長身の美青年だが、ロシア村の虐殺やテロ行為などでチェチェン人からも恨まれている。
バイエフは、彼はロシアに雇われた人間ではないかと疑っている。バラーエフの残虐行為は、あきらかにプーチンにチェチェン侵攻の口実を与えているからである。連邦軍の攻撃があると、この司令官はどういうわけかすでに逃げ出している。
バイエフは、彼とその私兵に何度も命を狙われ、処刑されそうになる。
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著者は戦争のなかで、血と肉片、内臓と向き合っている。精神疾患になりかけるが、アメリカで治療をうけつつどうにか立ち直ろうとする。
いかなる状況にあっても、人間は自分にとっての最善を尽くすべきであると強く感じる。