うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『中国革命の起源1915-1949』ルシアン・ビアンコ

 中華人民共和国成立の経緯を研究する。

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 アヘン戦争により清朝は打撃を受け、反王朝を掲げる太平天国の乱がおこった。日清戦争ではさらに義和団の乱が発生した。孫文は革命運動を進め、1910年、清王朝が消滅し中華民国が成立した。しかし、革命勢力に力を貸した軍閥袁世凱がクーデターを起こし、中華民国大総統となると、革命家たちは追放された。

 袁世凱の死後、中華民国は力を失い、中国全土は軍閥支配者の地方分権時代に入った。

 孫文の弟子である蒋介石ソ連留学後、国民党を拡大させ、北伐を行った。この過程で軍閥を打倒し、同時に、国民党の弟分である共産党を抑え込んだ。

 日本の侵略に伴い国民党は抵抗するが、このとき共産党が勢力を強めていった。やがて日本が撤退すると、国民党と共産党の抗争が始まり、共産党が勝利した。蒋介石と国民党は台湾に逃げた。

 孫文ソ連共産党の方式に習い黄埔軍官学校を立てた。校長には蒋介石が就任し、多くの指揮官を輩出した。

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 中国の近代化、つまり西洋化、儒教からの解放の起源は1919年の五四運動にあるといわれている。文学、哲学、科学等さまざまな領域において旧弊を打破する運動が起こった。やがて、陳独秀の主導するマルクス主義が優勢となり、胡適らのリベラリズムは脇に追いやられていく。

 中国でマルクス主義が受けいられらたことには、当時、列強から追い詰められ国家が危機的状況にあったことが要因としてあげられる。マルクス主義は帝国主義を告発するものであり、ナショナリズムをも吸収して大きな勢力となった。

 このような状況では、忍耐と議論、時間を必要とする自由主義は支持されなかった。

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 中国共産党は1921年に結成され1949年に権力を掌握した。当初はソ連からの指令を受けた勢力や陳独秀トロツキストらが指導的立場にいたが、農村で勢力を強化した毛沢東が実権を握った。当初、都市労働者でなく農民を結集させていた毛沢東は、ソ連指導者や他の共産党からは異端とみられていた。しかし、かれのリーダーシップによる勢力拡大は無視できなくなった。

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 革命の要因……農民の困窮状況、国民党による共産党の排除。

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 国民党は共産党を排除し、次第に保守化していった。蒋介石は自己の権力を確立し国土を統一することを目的とし、軍閥との戦争を進めていった。また、軍閥を国民党に取りこむことにより、南京政府は既成の社会構造を保守する方針に傾いた。

 儒教が重んじられ、中国の国難はすべて欧米列強が原因であるとされた。蒋介石清朝末期の役人を英雄視した。

 中国の大多数を占める農民は国民党から排除され、共産党が勢力を広げる余地をつくった。

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 ナショナリズムと革命
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 国共内戦が始まったとき、国民党は共産党の4倍以上の勢力を持っていた。しかし、共産党はわずかの年月で国民党を撤退させ、中国を征服した。

 この理由として、著者は国民党の腐敗、汚職、無能な指揮を挙げている。

 蒋介石は有能な指揮官を冷遇し、黄埔軍官学校出身者のみを取り立て、また、指揮官相互の対立を煽った。このため国民党軍は有効活用されなかった。

 一方、共産党は農民等の勢力を取り込み、高い士気を維持した。国民党からの寝返りや降伏が多発し、戦況が変化した。

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 ロシア及び中国に共通するのは旧支配層の弱さ、ひいては国としての弱さである。それが革命側による権力掌握を可能にしたと思われる。

 著者は中国革命の原因を「帝国主義の抑圧と農民の困窮」にあったとする立場をとる。

 中国における革命と、マルクス主義との整合性の問題について。

中国革命の起源 1915‐1949

中国革命の起源 1915‐1949