うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『機関銃の社会史』ジョン・エリス

 この本は出版されると「殺人の機械化、産業化」についての論議、思索を喚起した。「互換性部品によって大量に生産される機械の時代の産物、つまり旋条銃身をもつ機関銃」がテーマの中心である。銃は社会的な歴史をもっているとエリスは主張する。

 一八八六年ハイラム・マクシムは自動機関銃を発明して、これを「殺人機械」と呼んだ。マクシム銃やカラシニコフ銃は、単なる武器をこえてひとつの象徴となった。

 「前者が帝国軍隊の力を象徴したのに対して、カラシュニコフは……テロリスト組織のイコンとなっている」。

 毛沢東曰く「権力は銃口から生まれる」。リチャード・ガトリングは自分の発明品の威力が戦争を抑制させるだろうと考えた。結果、軍拡競争により彼は金持ちになった。

 

 第一章 新たな殺戮法

 機関銃の普及には、技術以外の問題のほうが多かった。十四世紀に、銃身をたくさん束ねたオルガン銃が発明された。しかし、一度に大量発射するには、装填に時間がかかりすぎ、製鉄技術が未熟だったので、暴発により使用者を死の危険にさらすものだった。

 パーマーやパクルのアイデアは先駆的であったものの実現しなかった。ヘンリー・ベッセマー卿は一八五四年、蒸気機関による自動後装銃を生んだが、もしこれが実用化されていたら「英国軍は火夫の集団に成り下がっていたかもしれない」。

 

 炭鉱労働者への威圧のために巡回する機関銃武装列車。植民地では原住民の虐殺に、機関銃がおおいに活躍した。機関銃の売り込み競争……マクシム銃、ブラウニング銃、ホチキス銃、ルイス銃など。

 (略)

 第4章 植民地の拡大

 イギリス植民地進出の第一人者セシル・ローズは、機関銃の必要性を理解していた。イギリスはアフリカに踏み入れると、宣教師を使って部族対立をおこし(カトリックプロテスタントを分けるなど)、暴動を起こさせた。アフリカのローデシアは、ローズの名にちなんだものだ。この地では、反乱をおこしたマタベレ族にたいしてマクシム銃の掃射がおこなわれた。部族間の争いを作り出すのが、イギリスの戦略だった。

 マクシム銃は小型大砲用銃架のサドルに腰掛けて発射するため、「ごくふつうに小便をするような格好をしながら、液体ではなく、おそろしい金属の弾を放出する人間がやってくる」という伝説が広まった。

 ボーア人とイギリス人との対立は激化したが、これにはセシル・ローズとリアンダー・スター・ジェイムスン博士がからんでいる。アーサー・ハーディンジ卿曰く「原住民は、弾丸から屈伏を学ぶに違いない。学ぶものはそれしかない……アフリカでうまくやっていこうと思うなら、原住民にはまず第一に従順を教えこまねばならない。これを正しく教えられるのは、剣をおいて他にない」。

 旧ドイツ領東アフリカ、現在のタンザニアで、一九〇五年、ムブンガ、ポゴラ、ンゴニ連合軍がドイツ政府に対して反乱をおこした。ここではじめて部族同士に同朋意識が生まれたといわれる。この意識はのちにマジマジ教となった。

 植民地経営が陰惨な暴力にもとづいているということは、当時本国には知られていなかった。世紀末の詩人たちはこれを詩で訴えたが、「たかが詩」で、あまり効果はなかった。キプリングでさえ「キリスト教文明の本質を痛烈にいいあてた詩を少なくとも一篇は残している」。

 アシャンティ族は一九〇〇年にふたたび反乱をおこすが、マクシム銃にたたきつぶされる。

 「この戦いにかりだされた兵士のほとんどはアフリカ人で、士官だけがイギリス人だった」。

 士官がマクシム銃の操作法を保持していた。ヨーロッパ人は機関銃の操作法が他民族に知られることのないようにしていた。アフリカ人は機関銃に魂を奪われていた。

 ――今の戦争は戦争じゃない。マクシム銃が五〇〇ヤード、八〇〇ヤード離れた場所からフーラ族を殺した……黒人は戦ってなどいない……ただ白人だけが一方的に撃ちまくっていた。あれはよくない……遠くから白人が黒人を撃ち殺すだけの大戦争に比べれば、以前の奴隷狩りのほうがまだましだった。

 マクシム銃で虐殺したあと、イギリス士官が一人、矢の傷で死んだ。するとイギリス人は「よく立ち向かってきた」と黒人に声をかけた。

 インドやビルマは、地形的に機関銃は適さなかった。曲射砲迫撃砲)のほうが効果があった。その後、義和団の乱チベット侵攻ではよくつかわれた。一九〇四年、チベットでの討伐で機関銃手は言った、「これは戦争ではない、虐殺だ」、「気分が悪くなった」。チベット人は自分たちが無力だとわかるとおじぎをして歩み去っていった。

 一八九八年、合衆国はフィリピンを併合し、植民地統治国の仲間入りをする。当時、英国には「小英国主義者」といわれる反帝国主義者がわずかにいるのみだった。ヘンリー・ラブーシェアは温情主義的統治と機関銃の威力に、密接な関係があることを見抜いていた。

 福音書とマクシム銃を携えて黒人の土地を進め。二〇世紀初頭には大半の部族は降伏していた。領土分割をきっかけに彼らに国家意識が芽生えるまで、抵抗と虐殺はおこらなかった。

 著者は言う、人種主義がなければ、あれほどのひどい虐殺はできなかっただろう。植民地の軍隊はほとんどが正規軍ではなく、またヨーロッパの戦争に比べればこちらは面白半分の気晴らしとみなされていた。ヨーロッパ人なら、原住民のように機関銃になぎ倒されることはないだろうという偏見が広く受け入れられていた。

 イギリス正規軍はほとんどがパブリック・スクール出身で占められていた。ここはスポーツの盛んなところである。スポーツにより自我をチームに昇華させる、スポーツ哲学。スポーツと戦争の違いは実際に死ぬか死なぬかである。

 槍と棍棒にたいして機関銃を用いるのは、フェア・プレイではない、だが相手が人間でないなら、うしろめたさもやわらぐ。イギリス人は、ヨーロッパの戦争では火力ではなく人間が、英雄が必要とされるだろうという神話をつくりあげていた。

 

 第5章 悪夢――一九一四~一八

 現代の戦争では、どんな小さなものでも負けたほうは立ち直れなくなるまで叩きのめされる。ナポレオン戦争はナポレオンにとって、またヴェトナム戦争はヴェトナムにとって全面戦争であった。

 英軍士官にとっては電話も唾棄すべき「技術」だった。精鋭の大隊より、兵士三人と機関銃一丁のほうが強い、この事実をイギリス軍司令官たちは三年以上も理解できなかった。一九一五年になってもなお、あまりに時代遅れの密集隊形による銃剣突撃の訓練がおこなわれた。銃剣および騎馬隊への信仰は根強かった。将軍イアン・ハミルトン卿は日露戦争を視察してこう言った。

 ――塹壕内に配置された機関銃を前に、騎兵のできることといったら、歩兵の飯を炊くことぐらいだ。

 時代錯誤の将軍により騎兵隊の無謀な突撃が何度も行われた。フランスも同じようなことをしていた。概して連合国は保守的で、適応できていなかった。突撃、突破作戦、銃剣隊、サーベル騎兵、槍騎兵、こういうものがどんな結果をもたらしたのか。

 一九一五年三月、ヌーヴ・シャペルのたたかいでは、ドイツ兵十人ほどが、イギリス軍二個大隊、およそ一五〇〇人をほぼ全滅させた。

 一九一六年、ソンムのたたかいでは、なんとイギリス軍はステッキをもった士官を先頭に行進をはじめたのだった。これはドイツ軍の機関銃になぎたおされた。あろうことか将軍たちはドイツ機関銃手をフェア・プレイの精神に基づいて称えた。結局、二十五万人のイギリス兵が死んだ。

 シャンパーニュでも同じような悲劇がおこったが、フランス歩兵は暴動をおこしかけた。

 ――おれたちはばかじゃない。壊れてもいない機関銃に向かって、おとなしく行進などできるか。

 ロイド・ジョージは軍人の頑固さに手を焼いたが、彼によると「第一次世界大戦の死傷者の、ほぼ八〇パーセントが機関銃の犠牲者だったという」。西部戦線では精神的混乱がおこり、詩人はよくそれを表現した。戦争はもはや人間には理解できないものになった。

 

 第6章 時代の象徴

 一九一八年夏、トムスン大佐はトンプソン・サブ・マシンガン(短機関銃)を開発したが、戦争が終わってしまった。彼はこれを警察に売り込んだ。

 「暴徒はふつう一〇パーセントの悪者と九〇パーセントの愚か者からなっているものだ」。

 結局トミー・ガンはたいして売れなかった。二〇,三〇年代にこの銃をもっともよく使ったのは、大佐が壊滅させようとしていた当のギャングだった。

 アル・カポネ禁酒法下で一種の英雄となっていた。彼は短機関銃に目をつけた。敵対グループのワイスをトミー・ガンで殺してからは、頻繁に用いるようになった。彼はジャック・マガーンを筆頭にした錬成暗殺集団を組織した。有名なのは残虐なジェイムズ・サマンズなどだ。

 敵対グループのジョージ・モランの部下は聖バレンタイン虐殺で殺された。トンプソン銃は血に飢えた人間を生み出した。警察官にくらべ、悪党は総じて射撃がうまかった。

 「奪った金のいくらかを射撃練習にあてているのだろうか」。

 フロリダでは酒の密輸栓を狙う海賊<ゴースルー・ガイズ(横取り野郎)>が蔓延していた。中西部ではボニーとクライドなどのような、トミー・ガンを抱えた強盗が大量にあらわれた。ギャングは映画界のヒーローとなり、ギャング自身が映画のまねをした。

 「ギャングの卓抜さは、いつなんどき感情が抑えきれなくなるかわからないと思わせる点にある。彼らの強みは、他人よりも早撃ちができることや狙いが正確なことではなく、いつでも喜んでぶっぱなすという点だ」。

 禁酒法時代のギャング映画興隆も、アメリカン・ニューシネマにおける機関銃の復活も、シニカルな世相をあらわしたものである。だがニューシネマにはもはやギャングの気力はなかった。

 「世の中は枠から出ることを許さない。はみ出た者には銃口を向け、圧倒的な火力を浴びせかける」。

 生きる意味はなくなり、ただ機関銃によって敵を殺すことだけが生きる理由になる。主人公は機関銃になった。

 

 第7章 新しい戦争の流儀

 防壁としての機関銃の優位は、戦車の登場で失われてしまった。

 「当時の記録は、戦車がまず何よりも機関銃の威力への対抗策だったことを明らかにしている」。

 やがて戦車は塹壕戦を無意味にしてしまう。機甲部隊は戦争の決定的な役割を果たし、マジノ線のような待機型の防御の威力は弱体化した。機関銃の力も薄れていった。

 それでも、たとえば中機関銃は陣地の強化や撤退の援護に欠かせなかった。また、機関銃に対する対策が行われたのは一九一八年になってからである。

 なぜ連射銃の受け入れがこうも立ち遅れたのか、おそらくそれは何世紀ものあいだ軍事技術が停滞していたこと、とくに改良が必要とされていなかったことにある。

 産業革命以前、軍隊は財政難に悩まされており、死者が出ても十分な徴兵ができなかった。だから、大量殺戮を可能にする自動火器など、想像もつかなかったのだ。

 やがて産業革命中産階級の勃興、人口の増加により、戦争の方法も変化する。工作機械……旋盤、ドリル、やすりなどの出現は重要だ。これにより正確さ、生産速度があがった。また冶金術の強化により銃に適した鉄がつくられるようになった。

 産業化と大量生産、交通手段の発展により、南北戦争は大規模なものとなった。この形態が機関銃に最適だった。

 20mmバルカン機関砲、7.62mmおよび5.56mmミニガンは、ガトリング銃の二十世紀の子孫である。マクシム銃、ブラウニング銃の子孫もまだ使われている。

機関銃の社会史 (平凡社ライブラリー)

機関銃の社会史 (平凡社ライブラリー)