うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『人口から読む日本の歴史』鬼頭宏

 日本史における人口成長には四つの波がある。縄文時代の波、弥生時代からはじまる波、十四・十五世紀にはじまる波、そして十九世紀から現代までつづく循環である。

 弥生時代の波は農業革命によるもので、十九世紀の波が公業革命によるものである。残りふたつ、縄文時代と中世とのそれは、縄文中期における気候変動に関連した人口増加と、十六・十七世紀の、市場経済化に伴う人口増加である。

  ***

 縄文時代初期の人口比率は西低東高だった。気候が寒冷化すると関東から東北にかけて人口の大激減が起こり、反して西日本の人口が急増する。その後また東日本に傾いていく。日本における人口推移はこうした移動のくりかえしであり、西日本の没落と関東武士の台頭などは、人口推移からも分析することができるだろう。

 弥生時代における渡来人の流入は想像以上に大規模だった可能性がある。この時代稲作が確立したが、死亡率は減少しなかった。農作物だけの摂取では栄養に偏りがあったためだ。

  ***

 江戸初期になると社会経済の変化がおこる。この時代の人口増加の原因のひとつに世帯構造と婚姻の変化があげられる。

 ――世帯規模の縮小が進んだ十六・十七世紀は婚姻革命の時代でもあった。こうしてだれもが生涯に一度は結婚するのが当たり前という生涯独身率の低い「皆婚社会」が成立したのである。

 世帯規模の縮小は、隷属農民を使った名主経営が崩壊し、小農制が主流となったことによった。また、このときに発達した貨幣経済市場経済を、速水は「経済社会化」となづけた。

 江戸後期の人口停滞は、飢饉と農村の搾取によっておこったのではない。十八世紀の世界的規模の寒冷化に伴う、東北、関東の人口減少や、蟻地獄的大都市(京大坂江戸)付近での人口停滞などさまざまな要因が積み重なって発生したという。また、地域別にみれば西日本は人口成長をつづけている。

 耕作可能面積の減少にともなう人口増加停滞という説にも疑問はある。どちらが原因にもなりえるからだ。

 江戸後期はマルサスの罠に陥っていたのだろうか。食糧の限界まで人口が増加し、これを養うのにいっぱいで、最低生活水準しか維持できず、貯蓄ができなくなる状態のことをマルサスの罠という。江戸後期はこうした成長のどん詰まりに直面していたのだろうか。

 別の解釈もある。長州藩の史料を見ると、藩人は高い生活水準を保っていたことがわかる。むしろ人口の停滞、間引きなどは、財産の貯蓄へとまわされていたのではないだろうか。そう考えると、日本の近代化が中国よりも円滑にすすんだことにも説明がつく。

  ***

 江戸時代の人口についてはまだ謎が多い。以前読んだ速水融の新書とかぶる部分ははぶくとして、重要なのは子殺し・間引きについてである。間引きは全国的に、とくに関東地方でよくおこなわれていた風習だが、近年の研究では必ずしも貧困を原因とするのではないということが判明している。前にも書いたとおり、予防的な人口調節の手段として積極的に用いられていたのである。人道的にどうかの判断は別として、この予防手段が人口をうまく調節し、社会の崩壊を未然に防いだということは否定できないという。

  ***

 先進国の特徴は低い出生率と死亡率である。一方、途上国はそのどちらもが高く、成熟した社会にいたるまでの過渡期にいることをあらわしている。

 少子高齢化をとめることは不可能であり、これを受け入れ、社会が変化することが必要である、と著者はいう。

 

人口から読む日本の歴史 (講談社学術文庫)

人口から読む日本の歴史 (講談社学術文庫)