信長の領土拡大が詳細に述べられている。
***
一五六八年、信長は足利義昭を奉じて上洛する。この後近江および畿内から逃れ、一五七三まで天下統一は進展していない。一五七三年、天正元年から本能寺の変で倒れるまでの九年間に日本の半分を統一する。四方の群雄である上杉、北条、毛利、長宗我部への働きかけは済み、残るは島津のみの状態となる。
この統一戦争は方面軍に任されたが、本書の題材とするのがこの方面軍指揮官である。
***
与力とは武将のもとで働く部将である。たとえば柴田勝家のもとで働く前田利家や佐々成政がそれにあたる。明智光秀の下の筒井順慶・細川藤孝(ふじたか)も同様である。与力は組下ともいわれる。
本書のテーマとなる方面軍とは、一万以上の兵力をもつ大軍団のことを便宜的に呼んだものである。方面軍より小規模であちこちに散在するものを遊撃軍と呼ぶ。
***
尾張弾正忠(だんじょうのじょう)織田家の信秀にかわり、信長が当主となったのは十九歳のときだった。信秀は自分の兄弟親族を尾張国内に散在させ、城を守らせていたため、信長はまず尾張平定にてこずることになる。弟・信勝を破り、桶狭間において今川を破り、尾張を平定する。この段階で出世したのが柴田勝家である。
つづいて美濃攻略がはじまる。斉藤道三と信長との仲は良好だったが、道三が息子の義龍に敗死すると、信長と斉藤氏は敵対する。義龍および息子の龍興との抗争、稲葉山城、西美濃の攻略を経て、丹羽長秀と木下秀吉が台頭する。
美濃の次に信長が目をつけたのは国人および地侍の割拠する伊勢北部だった。伊勢平定においては滝川一益が出世する。滝川は伊勢甲賀出身で、忍者出身とされることもあるが、これは飛躍だという。彼は殺人の罪で追放され浪人になっていたところを信長に拾われ、のち能力を買われ取り立てられた。
***
京都に上洛した際の行政は、はじめ柴田・森可成(よしなり)・坂井・蜂屋ら武闘派部将に任され、のち丹羽・木下・明智・中川重政ら行政向きの部将に移譲される。
京都上洛後の元亀年間から苦境がはじまる。越前(福井県)の朝倉氏討伐遠征に向かうが義弟の浅井長政が裏切り、交替を余儀なくされる。浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍は北近江の姉川を挟んで衝突する(姉川の戦い)。信長は勝利するが、翌月三好三人衆が大坂に篭る。信長は討伐に向かうが、大坂本願寺が信長陣の攻撃をはじめる。浅井・朝倉の南下にあわせて近江の一向一揆も動き出す。比叡山に篭った浅井・朝倉軍との戦い(志賀の陣)は信長がもっとも苦戦したいくさである。
元亀二年、信長は比叡山と日吉(ひえ)神社の焼き討ちをおこない近江支配を確立する。
***
以後の方面軍編成と諸国平定の過程は煩雑である。信長はある国を平定すると、そこに方面軍司令官を置き、そこを拠点にさらなる拡大を行わせた。北陸の柴田、中国の羽柴、畿内の明智、関東の滝川、四国の神戸信孝(信長の三男)に加えて、長男信忠も一大軍団を任されている。長篠の戦いにつづいて、勝頼を亡ぼしたのは完全に信忠軍団の功績である。
道三やほかの君主と異なり、信長は子供に裏切られることはなかったようだ。