うちゅうてきなとりで

the cosmological fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『オランダ東インド会社』永積昭

 最盛期オランダはスペイン・ポルトガルの時代とイギリス・フランスの時代をつなぐ。オランダ東インド会社は世界ではじめての株式会社である。この本はとくに東インド会社と現地インドネシアとのつながりを中心に据えるものである。

 

 一 香料への道

 モンスーン「ヒッパルスの風」を発見した紀元前のギリシア人ヒッパルスより、東西をむすぶ海上輸送路は発展していった。西の難所がスエズ運河や中近東の陸地だとすれば、東の難所はマレー(マライ)半島であった。海賊の跋扈するこの海峡には強力な王朝が必要だった。シュリーヴィジャヤ、マラッカ王国など。

 インド、インドネシア、フィリピン、中国、琉球、九州や中国地方のあいだの交易は、ヨーロッパの進出以前からすでに建設され栄えていた。ポルトガル第二代総督アフォンソ=ダルブケルケは、「本国から東洋までの海上交通を一貫して行うことにし、その貿易路線にいくつかの戦略上の拠点を得て、これを要塞化するという構想」を考え出したのだ。もっとも、ポルトガル貿易は、当時の全東西貿易のなかではあまり大きな割合を占めていなかった。

 

 マラッカは貿易の中心として繁栄した。香辛諸島は食料自給率が低く、輸入に頼らねばならなかった。香辛料の貿易相手が、香辛諸島の支配権を握った。ポルトガルは、スペイン人より一足先に本土からモーロ人(イスラム王国)を追い出していた。

 新大陸から流れてきた銀は東洋に行き、かわりに香料その他がヨーロッパに流れてきたのだった。ポルトガルの貿易航路は、のちのオランダやイギリスほど巨大なものではなかった。マラッカはすでにヨーロッパ諸都市を越える大都市だった。ポルトガルは王室貿易だったが、要塞を立てると維持費はかさみ、また商人たちは上納を避けて密貿易をおこなったた。そもそもポルトガルは、東洋を牛耳るにはあまりに小さい国で、人口不足に悩まされた。

 やがてスペイン人がポルトガルの後釜に居座ろうとモルッカ、香辛諸島にやってきて、対立のどさくさにまぎれてイスラム商人がやってくる。ファン=ルール曰く「貿易におけるポルトガルの戦闘活動は、スエズから長崎にいたる国々で行われた国際貿易という織物の中で、一本の余計な糸となった」。

 ポルトガルのマラッカ占領により、商人たちはここを避けてアチェを利用するようになる。スンダ=カラパ、のちのジャカルタを治めていたのは貿易王国バンテンである。一五八〇年になるとポルトガルとスペインは合併するが、実質スペインへの従属だった。ムガル朝、セイロンのカンディー朝の勃興などによりポルトガルは没落する。

 やがて一五九六年、バンテンにコルネリス=ド=ハウトマン指揮のオランダ艦隊が到着する。

 

 ニ V・O・Cの誕生

 ネーデルラントの北西部ホラントをポルトガル語でオランダという。明治維新を経ても、このオランダという名前はいまだに用いられている。正式な名称はNetherlandsである。オランダ・ベルギー付近の領土関係はもともとあいまいであった。

 『ゲルマニア』によればネーデルラントに住んでいたのはベルガエ族、フリーシー族、バターヴィー族で、バタヴィアはここからきた。もっとも民族大移動があって、これがオランダ人の祖先ではない。アムステルダムでは水中の棒杭の上に家をたてていた。政治的には周囲の大国に従属しながらも、文運さかんであった。

 一五世紀末、オランダの支配権はブルゴーニュ家からハプスブルク家にうつり、スペイン・神聖ローマ皇帝カルロス五世の植民地となった。彼はオランダ貴族や慣習を尊重したが、次のフェリペ二世はスペイン人を持ち上げ、またオランダで異端審問をおこなった。

 ホラント、ゼーラント、ユトレヒト三州を束ねるオラニエ公ウィレムを筆頭に国民的英雄エフモント伯、ホールン伯が立ち上がった。スペイン貴族の「たかが乞食が」の言葉に激昂してたちあがった中小貴族の「乞食党(ホイゼン)」。エフモント伯の処刑を機に、オランダはスペインにたいして独立戦争宗教戦争を行った。彼らはカルヴァン派だった。

 北部独立によりユダヤ人や南部アントワープなどの商人がアムステルダムに押し寄せた。

 「国際都市としての性格はカルヴィニストの排他的情熱を、かなりうすめる結果となったことはたしかであろう」。

 そのころ発展しつつあった風車が、技術の発展に貢献した。オランダ独立の八十年戦争のあいだ、海乞食党は海賊から艦隊に成長し、貴族が戦争をしているあいだ平民は商業を発展させた。『ファウスト』にあるように「海賊と軍隊と商業とは三位一体」だ。

 オランダの毛織物工業はスペインを圧倒し、銀はアムステルダムに直接やってくるようになる。東洋進出のために一五九四年、前期諸会社(フォール=コンパニーエン)である「遠国会社」Compagnie van Verreが商人により設立される。

 その後一六〇一年までに会社が林立し、競合してしまったので、翌年、連合東インド会社がつくられる。これがオランダ東インド会社であり、イギリス東インド会社、フランス東インド会社とともに有名である。オランダ語の頭文字をとってVOCと呼ばれた。

 定員六〇人の取締役団の上に「十七人会 Heeren ⅩⅦ」と呼ばれる重役会がおかれた。アムステルダムの少数の商業資本化が連邦議会やこの会社を牛耳った。

 

 三 征服者クーン

 オランダは海外進出にさいし、手付かずの北アメリカや、ポルトガルがほそぼそと守るマラッカ、ブラジルを狙った。東インド会社は宗教ではなく利潤のために動いた。スウェーデン国王カールⅩやギニア住民は彼らを拝金主義と評した。東インド総督は、「十七人会」の召使だった。

 オランダ東インド会社の基礎を築いたのが、ポルトガルのアルブケルケやイギリスのクライヴと並べられる事務総長クーンである。ユダヤ人は金儲けに長けておりオランダ人は金の維持に長けている(ケチ)といわれるが、クーンはユダヤ人と同等に金儲けの才をもっていた。また彼は人を操る能力を身につけており、「マキャヴェリスムの権化」と当時から言われていた。

 イギリスとの抗争が激化し、クーンがオランダ軍を指揮する。ジャカルタを占領しバタヴィアに改名すると、彼はジャワ島へのオランダ人の植民をすすめる。クーンはバンダ諸島の原住民を虐殺、奴隷化し、植民者に区画を割り当て奴隷を使わせた。会社重役や職員も、これをやりすぎだと感じたが(しかしこれはイギリスへのジェスチャーであるともいわれる)、クーンはつづいてモルッカ、アンボンでも同じようなことをする。英人、日本人を殺したアンボンの虐殺。

 オランダはマラッカをポルトガルから奪うが、すでにこの頃からオランダの没落ははじまっていた。一六五一年、クロムウェルの発布した航海条例によりオランダは大打撃を受け、また二年後の英蘭海戦の敗北により、衰退は決定的となる。

 アベル=タスマンはタスマニア島ニュージーランドを発見する。ニュージーランドは新ゼーラントということか。

 

 四 日本貿易

 オランダは厳しい制限にもかかわらずなぜ日本との貿易をつづけたか……十七世紀の一時期、日本の銀の産出量はボリビアポトシ銀山に匹敵するものだった。金、銅の産出量も厖大だったが、幕府はこれをオランダへの支払いにあててしまったのだ。オランダは日本に生糸、織物などを輸出していたが、日本はこれに見合う産物を持たなかったので、金や貨幣を輸出した。オランダ貿易において日本はもっとも利益をあげる国であった。

 鎖国により衰退する前の、日本町の日本商人は、オランダ人にも匹敵するがめつさだった。

 

 五 陸にあがる

 オランダは領土に関心がなく、交易だけを重視していた。オランダ植民も農業を嫌って働かなかった。

 十八世紀になると貿易から領土へ関心を移り、オランダ自由市民のコーヒー栽培がはじまった。彼らは熱帯の気候に苦しみ、赤痢でかなりが死亡した。バタヴィアは当時もっとも不健康な都市とよばれた。オランダ人は酒を朝から飲み(ジン発祥の地はオランダである)、パイプをふかした。

 オランダはバタヴィアにおける栄光を死守するために、苛烈な支配をおこなう。ドイツ系資産家エルベルフェルトは転覆を計画したとして拷問のすえ殺され、首を塗りこめた記念碑を建てられる。一七四〇年の華僑虐殺事件ののち、マタラム王国の反乱は失敗し、実質インドネシアの支配はオランダ東インド会社が担うことになった。

 

 七 ジャワの支配

 マタラム王国と同時期に、西部ジャワのバンテン王国も会社が統治するようになった。そして、圧倒的な軍事力に頼る時代はおわり、外交による抑え込み、調整がおこなわれた。武器が浸透し、オランダ軍の優越がなくなったこと、反乱が都市から内陸部へ移り、単純に火力だけでは勝てなくなったこと、東インド会社の支配による原住民の不満が加速度的に高まってきたことがその理由である。

 

 八 落日

 一七九八年、オランダ東インド会社は解散し、オランダによる直接統治がはじまる。以降政治的支配の傾向を強め、強制栽培制度は莫大な利益を生む。オランダは独立戦争を終えてからは目標を失い、英仏の二大国のあいだで苦しむしかなかった。植民地も保守的な政策が一貫して継続された。

 ――保身のための外交には理念や原則は必要ではない。連邦議会を支配していたオランダ商業ブルジョワジーは、利潤追求の技術屋であった。そしてオランダ東インド会社を支配していたのは、ほかならぬ彼等だったのである。

 

オランダ東インド会社 (講談社学術文庫)

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