◆所感
公正に判決を下すことを期待されている裁判官の実情について。
裁判所は各裁判官を厳しく統制しており、また裁判官は業務に追われ狭い職場の中で生きている。統制によりかれらは小役人となり、検察の言うことをそのまま流して事件を手早く処理することだけに注力するようになる。
冤罪や、警察・検察による自白強要は昔から問題になっており、改善活動も進んでいるが、まだ理想には遠い。
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著者は裁判官として50歳まで勤務したのち弁護士となり冤罪事件に係わるようになった。
日本の刑事司法の最大の問題点は、起訴事実について「合理的な疑いを超える程度の証明」を必要とする原則が守られておらず、それにより冤罪がしばしば生み出されていることであり、しかも自らの能力に自信のある「エリート裁判官」ほど冤罪を生む危険性が多くある、そのように思えてきたのである。
1 裁判所と裁判官の生活
裁判官はその高い壇が示す通り被告たちとは隔絶している。裁判官は浮世離れしており、通常、取調・尋問、民事訴訟の実務などを経験せず、ただ論理的な解明力に頼りがちである。
外からみると裁判官の態度は横柄、待ちの姿勢であり、交友関係は職場に限られ、外での活動(野鳥の会など)や海外旅行も困難である。
新卒の優秀な若者が司法研修書を出た後に受ける教育は、先輩裁判官による合議体方式のOJTだけである。
かれらは社会経験や訴訟実務(供述調書作成など)に乏しいために、検察のでっちあげた調書を簡単に信用してしまう。
「裁判官を長くやっていると、警察官のつく嘘が見抜けなくなる」……「陪審員のほうが警察官のつく嘘を見破れる」
裁判官の最大の仕事は判決書きであり、期日までに作成するのに苦労する。
判事再任制度は、アメリカ等では弁護士等実務経験のある者を判事に任用する「法曹一元化」の制度となるはずだったが、現状日本では、気に入らないものを解任する「悪しき人事統制の手段」となっている。
裁判官の業務量……人口に対する法曹の割合は先進国の中でも非常に低い。裁判官は通常年間300件の裁判を担当する。平均して1日に25件ずつの事件をまわし、土日はそのための準備に割かれる。
各部ごとに事件処理数が示され、迅速に処理している部署は評価される。裁判官としての勤務評価は、事件処理速度、管理能力、協調性等であり、事件当事者からの視点はない。
業務をこなすために手抜きや形骸化が発生する。弁護士の証拠をあまり採用せず、手っ取り早く有罪判決を書くようになる。
業務量が多すぎるという問題を訴えるものはいない。言った者が無能と評価されるだけだからである。
業務の(個々の事件の特殊性を無視した)マニュアル化が進み、また国民や弁護士たちもそうした事情に詳しくなってきている。裁判官に対する国民の視線は厳しくなるだろう。
裁判官は毎日帰宅すると深夜に「記録読み・判決書き」を行う。かれらは市民と関わる暇がなく、官舎のなかで貧困な市民生活を送らされる。
一泊以上の外泊は許可が必要である。戦前の特権エリート官僚意識を受け継ぎ、また最高裁による統制が強まり裁判官の小役人化が甚だしくなった。
上には従順で下には威張る、小人物でありながら自尊心と栄進意欲のみは強い、「大過なく」をモットーとして万事ことなかれ主義、人間として冷たく、弱いものの立場を理解しようとしない、などがイメージされるような裁判官が少しずつ増えてくる。
裁判官は積極的な政治行為を禁止されているが、実態はあらゆる事象に対し沈黙を保つよう強いられている。
2 刑事担当裁判官として
著者の半生について。
著者は東大卒業後、民主主義の擁護や人権といった理念を実現するために裁判官となった。当時の弁護士には強欲というイメージがあったという。
1966年、最高裁が郵便局のストライキを無罪と判決して以降、政界・財界・自民党は裁判所に対する締め付けを開始した。このとき、勉強会団体である青法協がやり玉に挙がった。
憲法、平和、民主主義を標榜する団体、しかも裁判官までもが加入している団体を政治的な手法で攻撃するということは、掲げられた憲法、平和、民主主義という究極的価値を、裁判所から排除するように正面から要求されたことを意味している。
以降、裁判所の変貌は日本の人権状況に明確に影響を及ぼした。
……すなわちそれは、裁判所が権力機関としての機能だけは急速に肥大化させながら、市民の権利を守る機能の方は徐々に無力化していく「官僚司法」へと大きく脱皮、変貌していった経過だと考えられる。
日本の裁判官の多くは、真犯人に騙されまいとおもって裁判に臨んでいる。
難しい事件については、最終的には「被告人は怪しいとは思うけれども、絶対に犯人かどうかはよくわからない」という状態になることが多い。……その場合、どうしても……心構えの問題に帰着してくるのである。
裁判官だけでなく社会全体にも、「疑わしきは罰せず」の理念が普及していない。有罪判事のほうが順調に昇進する。
3 再審請求の審理
著者が第6次再審請求を担当した徳島ラジオ商殺し事件について。
この事件では被害者の内縁の妻が疑われ、警察によってつくられた嘘の偽証をもとに、無実の罪で有罪判決を受けたというものだった。犯人とされた女性はすでに死亡していたが、事件後32年を経て無罪判決となった。
そもそも、冤罪であることが公式に明らかになったとき、わが国では、具体的な担当者や当該機関の最高責任者が、明確な謝意を表明したという例すら、私は寡聞にして知らない。
4 証拠の評価と裁判官
1966年の袴田事件では、警察による情報提供をもとに、マスコミが袴田を犯人扱いしバッシングを始めた。その後の自白調書、証拠等の真正性に強い疑いがありながら、裁判官はこれを顧みず死刑判決を下した。
5 犯罪事実の認定とは
1996、1997年以降問題化した、痴漢冤罪事件について。
痴漢を犯罪として扱うようになった結果、ずさんな証拠と供述のみで有罪にされる者が多発するようになった。
本章では長崎冤罪事件を検討する。
※ ただし、本事件の長崎満氏はその後電車内盗撮で逮捕されている。
要するに、一人の被害者の供述だけから、物的・科学的証拠の補強もないままに、それが「真実に合致した供述」なのか、あるいは「思い違い」なのかを見分けたりすることは、「神ならぬ」人智のとうてい及ばないところなのである。
裁判官は、「合理的な疑いを超える程度の証明」の基準を引き下げて、女性の供述のみによって事件を処理している。
人間の供述にはバイアスや誤りの傾向があるため、一人の供述だけで有罪を認定することはよくない。
痴漢冤罪裁判では、日本で確立している「疑わしきは被告人の利益に」「無罪の推定」の原則、および「合理的な疑いを超える程度の証明」の原則に違反し、前近代的な裁判基準で裁判しているからこそ、有罪判決が多数出ているのだと言える。その意味で、痴漢冤罪裁判は、21世紀の日本においては絶対にあってはならない裁判である。だからこそ、冤罪の被害者たちは、罰金5万円の事件に対しても、「人間としての尊厳」をかけて、激しい憤りの下に無罪を訴え続けているのである。
6 裁判官はなぜ誤るのか
裁判における証明の原則について……刑事裁判は、規範的に構成的に証拠資料と素材とを明示して被告人の納得するように判決がなされるものでなければならない。
日弁連が示す冤罪の原因は以下のとおり。
- 見込み捜査
- 自白の強要と偏重
- 証人の誘導、証拠偽造・隠匿
- 客観的捜査の不備
また、緊急に実施すべき防止策は以下のとおり。
- 被疑者・被告人に対する弁護人の権利の拡張
- 捜査の可視化
良心的裁判官として知られた木谷明氏は次のような提言を残した。
- 物的証拠について捜査官の作為がありえることを認める
- 自白の任意性に関する判例の基準は緩すぎる
- 自白の信用性を慎重に判断しないと事実認定を誤る
- 適正な事実認定をする上では検証がきわめて有用
- 事実認定については判決で十分に説明すべき
現実の裁判は「裁判所・検察」対「弁護士・刑訴法学説」という形になっており、裁判所と検察の一体化が進んでいる。
裁判官の精神……重大事件や、被告が好ましからぬ人物の場合、秩序維持的発想、必罰思想が湧きおこり、有罪にして罰しようという先入観が強くなる。
凶悪事件であるほどこうしたバイアスが働き、冤罪による死刑などが発生する。
おわり