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『モンゴル帝国の興亡』杉山正明 その1 ――モンゴル帝国の入門


 モンゴル帝国の成立から解体までをたどる。従来のペルシア語史料・中国語史料のみにとらわれず、世界史的な視野からモンゴルを再認識するのが特徴である。

 

 読みやすいが、帝国成立後の内紛過程は複雑である。

 モンゴルだけでなく、元朝、明朝、清朝ともに、単一の民族ではなく複数の集団が寄り集まることで成立していた。

 国民国家とは異なるコンセプトで運営されていたことを念頭に置く必要がある。

 

  ***

 系譜

 チンギス・カン(1)

  ジョチ

  チャガタイ

  オゴデイ(2)

   グユク(3)

  トルイ

   モンケ(4)

   クビライ(5)

    テムル(6)

    カイシャン(7)

     コシラ(11)

     トク・テムル(12)

    アユルバルワダ(8)

     シディバラ(9)

    イスン・テムル(10)

   フレグ

   アリク・ブケ(5)

 

  ***

 序

 14世紀初めにフレグ・ウルス(俗称イル・カン国)で成立した『集史』は、ペルシア語によるモンゴル正史であり、モンゴル、中央ユーラシア遊牧民イスラーム・イランの歴史を知る上で不可欠の資料である。

 『集史』はフレグ・ウルス君主ガザンの下で、宰相ラシード・アッディーンが編纂した。

 この時代の旅行記として後世にベストセラーとなったのがマルコ・ポーロ『東方見聞録』(正式には『百万の書』)である。マルコ・ポーロは大カアン(クビライ)への親書を持って旅をしたが、その実在は疑問視されている。

 コロンブスマルコ・ポーロを参考に大都に向かおうとしていた。

 ロシアの歴史家バルトリドやその他の歴史学者の業績により、遊牧民、モンゴルの歴史、ユーラシアの歴史が世界史において大きな意味を持っていたことが明らかになった。

 

 

  ***

 1部 時代の被造物モンゴル

 1

 11世紀末から12世紀にかけて、トルコ系遊牧民族が台頭し、また東西の交流・抗争が活発となった。

 1203年以降、史実に出現するチンギス・カンの半生は不明点が多い。

 チンギス・カンの「大モンゴル国イェケ・モンゴル・ウルス)」は、キタン人・女真人・諸部族ウルスからなる多重構造の連合体として出発した。

 チンギスは遊牧民を千戸制に組織化した。

 

・金征服戦争

・西遼国・ホラズム・シャー王国への遠征……モンゴルは東トルキスタンを掌握した。

 

 その後、サマルカンドに都を構えるムハンマドのホラズム・シャー王国を侵略した。母と息子ムハンマドで内紛をおこしていたホラズムは間もなく崩壊し、ムハンマドは遁走した。

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ウズベキスタンを過ぎてホラーサーン、アフガニスタン方面では、モンゴル騎馬軍団は殺戮や略奪を行ったが、戦争は泥沼となった。

・モンゴルに戻ったチンギスは西夏に遠征を開始し、南宋に向かう途上で死亡した。

 

 

 2

 1229年、最大の実力者であるトルイではなく、大人しい三男オゴデイが新帝となった。

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・第2次金征服戦争……帝国西方を押さえるチャガタイ、トルイ右翼軍、新帝オゴデイの山西南下、帝国東方を押さえるオッチギンによる進軍。1234年、金王朝は滅亡した。

・あまりに強力な権勢を得たトルイは、オゴデイらによって消されたと考えられているが、元明の正史はこの事実を隠蔽している。

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・政治都市カラ・コルム

・首都で書記事務をおこなったのはキタン人、ウイグル人、ホラズム出身者等だが、その役割はあまり大きくなかった。モンゴル人自身は、カラ・コルムから地方へとつながる統治官僚機構にほとんど関与しなかった。

・キプチャク草原(ウラル河以西)への遠征(ロシア・東欧遠征)……ジョチの次男バトゥらによる。コーカサスカスピ海周辺、黒海北部の草原を制圧後、ルーシ(ルースィ)を一掃した。「タタールのくびき」といわれるが、実際に破壊された都市は一部だった。ネフスキーはじめとするロシアの諸侯はモンゴルに臣従した。

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南宋遠征……オゴデイの第三子クチュらによる。1236年進軍間もなくしてクチュが急死し敗退。

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・当時のモンゴル軍は各戸から集められた少年兵によって成立していた。

・オゴデイの死によって遠征は中断したが、バトゥはヴォルガ河下流に残り、ジョチ家の王国である「ジョチ・ウルス」を形成した。これは領土をバトゥ、オルダ、諸子で分け、構成員の多くはキプチャク牧民からなる。

ジョチ・ウルスは急速にトルコ化、イスラーム化した。バトゥは黄金の天幕を構えたため「黄金のオルド」(Golden Horde)と呼ばれた。

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 3

 大カアンをきめるのはモンゴルの国会にあたる「クリルタイ」である。

 カアンの継承には父、母双方の血筋が重視された。

 三代カアンのグユケ死後、モンケは専制君主として反対派の粛清を行った。あわせて、東西遠征計画を建てた。東方面をクビライ、イラン方面をフレグに指揮させるものだった。

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 4 ヨーロッパ

 モンゴル成立前に、十字軍遠征が行われた。

 モンゴルのイスラム世界への進軍は、ヨーロッパでは「プレスタ・ジョン」伝説として伝播した。一方、ロシア侵攻はモンゴルに地獄の民のイメージを植え付けた。

 十字軍時代は、ローマ教皇インノケンティウス四世が最大の支配者だった。

 カルピニやドミニコ会使節がモンゴルを訪れた。これは教皇による敵情視察を含んでいた。

 

 

  ***

 2部 世界史の変貌

 1

 大カアン・モンケの死にも関わらず、東征に向かっていたクビライは迷わず南宋にむけて進軍し、長江を乗り越えた。

 モンケとクビライの間には確執があり、またカアン継承に際しても抗争が起きようとしていた。


 

 クビライとアリク・ブケが同時に即位について:

 アリク・ブケは正統と認識されており、立場としてはクビライが反乱者だった。即位5年後の1264年、アリク・ブケはクビライに対し降伏した。かれは同族モンゴル人を処刑し粛清したため支持を失った。漢地を根拠地に持つクビライが、軍事・兵站双方で優っていた。

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 [つづく]

 

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