うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『太平洋戦争と新聞』前坂俊之 その2 ――マスメディアと権力との癒着

 8 滝川事件と機関説

 滝川事件:

 1933年、滝川教授の刑法学に対し、「マルクス主義的」であるという言いがかりがつけられ、京大から追放される。

 このとき新聞は滝川教授を擁護するものもあったが、「学者は何でも自由というわけではない」と軍部の論調にならうものもあった。

 

 天皇機関説事件:

 1935年、菊池武夫貴族院議員(陸軍少将)が「天皇機関説は不敬ではないか」と詰問したため、軍部批判の先鋒であった美濃部達吉は議会にて反論した。

 菊池議員も納得したが、新聞記事を見た軍と右翼は激高し、また平沼騏一郎らは他の政敵……一木喜徳郎らと合わせて失脚させようと動いた。

 美濃部は議員辞職を強いられ、後日暴漢に襲われ負傷した。

 

 

 9 ゴーストップ事件

 1933年のゴーストップ事件は、軍および軍人の特権的地位が拡大し、警察権力でも抑止できなくなったことを明らかにした。

 新聞社に対するテロ行為が相次ぐようになった。

 

 

 

 10 陸軍パンフレットと永田鉄山惨殺事件

 陸軍は1934年、「国防の本義と其強化の提唱」と題する冊子を発行した(陸軍パンフレット)。これは統制派による声明であり、軍を中心に国家再編成を行うべしと主張するものだった。

 政党は、軍による政治介入を明言するものだとして非難し、林銑十郎陸軍大臣らは釈明に追われた。一方、新聞はパンフレットに迎合した。

 その内容は北一輝の『日本改造法案大綱』に強く影響を受けている。

 

 ――たたかひは創造の父、文化の母である。試練の個人に於ける、競争の国家に於ける、斉(ひと)しく夫々の生命の生成発展、文化創造の動機であり刺戟である。

 

 ――此の有史以来の国難-然しそれは皇国が永遠に繁栄するや否やの光栄ある国家的試練である-を突破し光輝ある三千年の歴史に一段の光彩を添ふることは、昭和聖代に生を享けた国民の責務であり、喜悦である。冀(こひねが)はくは、全国民が国防の何物たるかを了解し、新なる国防本位の各種機構を創造運営し、美事に危局を克服し、日本精神の高調拡充と世界恒久平和の確立とに向つて邁進せんことを。

 

 

 1935年の永田鉄山惨殺事件の原因:

 統制派の林銑十郎永田鉄山らは、無軌道な皇道派を抑制するため真崎教育総監を更迭した。これに怒った相沢三郎は永田を斬り殺したが、根本博ら皇道派の仲間はかれを英雄として扱った。

 皇道派の増長は、その後の二・二六につながった。

 皇軍の一体性に疑惑を生じさせるのではという懸念から、軍の派閥争いはすべてが検閲対象となった。新聞はほとんど事実を報道することができなかった。

 

 

 11 二・二六

 1936年の二・二六事件は新聞の息の根をとめた。

 内務省はただちに報道禁止通達を出したが、号外はその前に発売されすぐに売り切れた。

 叛徒たちは新聞社も襲撃し、朝日新聞にも興奮した青年将校がやってきた。

 

 ――その将校はいきなり、右手を高くあげ天井を見ながら、大声で『国賊朝日をやっつけるのだ』とどなった。

 

 新聞は完全に委縮し、クーデタを表立って非難する新聞社はほとんどなかった。かわって、国民が不甲斐ないことにその責任を転嫁した。

 

 広津和郎(小説家・文芸評論家)の回想……

 

 ――第一の不満は、今の時代に新聞がほんとうのことを言ってくれないという不満です。日本のあらゆる方面が、みんなサルグツワでもはめられたように、どんなことがあっても何も言わないという今の時代は、……新聞が事の真相を伝えないということはたまらないことです。

 

 河合栄治郎(社会思想家)の論文。

 

 ――……この無力感の中には、暗に暴力賛美の危険なる心理が潜んでいる、これこそファシズムを醸成する温床である。暴力は一時世を支配しようとも、暴力自体の自壊作用によって瓦解する。

 

 時事新報の近藤、『他山の石』の桐生悠々は軍部批判を続けた。

 こうした零細または個人新聞が言論を守ろうとしたのに比べ、大手は自分の会社と職員を守ることに必死だった。

 

 

 12 粛軍演説

 1936年

 斎藤隆夫の粛軍演説が好評を博し、官報が飛ぶように売れた。国民の間に反軍感情が広がっていたことを示す。

 広田内閣は軍部大臣現役武官制を復活させた。以降、内閣の死命を軍部が握ることになった。

 

 

 13 同盟通信社言論統制

 1937年の腹切り問答をきっかけに広田内閣は倒壊した。

 『文芸春秋』の匿名批評に、当時の大手新聞社を皮肉るコメントが掲載される。

 

 ――「(腹切り問答を)翌日、各紙が社会面で追いかけたが、東日(東京日日新聞)だけは依然としてそっぽを向いていた。幹部が三宅坂(陸軍)に脱帽するのは差し支えないにしても、本山精神と福地精神と福沢精神とを買う読者こそかわいそうだ」

 

 1936年、電通と連合の二大通信社に政府が働きかけ、同盟通信社を設立させた。以後、新聞社は同盟通信社からのみ記事の入手・提携が可能になり、政府は内閣情報委員会を通して新聞社を統制し、また世論指導に利用した。

 

 

 14 日中戦争

 1937年7月7日、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争がはじまった。当初、近衛内閣は不拡大方針をとるが、間もなく主張を一転させ三個師団を増派した。

 

 内閣情報部では挙国一致報道の方針が決定され、新聞社はこれにならい戦況を逐一報告した。従軍記者制度によって千人以上の記者が戦地報道を行った。

 各社は戦争特集や郷土部隊の取材、戦死者の名簿・顔写真争奪戦などにより売り上げを伸ばしていったが、一方で大手紙と中小紙との格差は開いた。地方を中心にラジオが爆発的に普及し、メディアは激しい競争をおこなった。

 このころから用紙不足が深刻になったため、政府はこれをよい機会として、用紙配分を言論統制に活用した。

 

 

 15 南京事件

 盧溝橋に続く8月の第二次上海事変で海軍陸戦隊が上陸し、中国軍の激しい抵抗に遭い苦戦した。その後松井石根率いる中支那派遣軍が南京に向けて進軍を開始した。

 南京入城を各社は華々しく報道したが、一方中国報道やアメリカ新聞社では略奪、虐殺、捕虜殺害の模様を伝えていた。

 

 

 16 戦争中

 新聞自らが言論の自由を非難した例。

 

 ――『言論の自由』はもとより尊重されねばならぬが、徒に取締に反抗し、禁を冒してまでも筆を進めることを自由の極致だと考えるのは1つの大きな誤りではなかろうか。

 

 1936年の排英運動は陸軍主導で新聞が扇動した。

 

 1941年国防保安法:


 ――当時の新聞は10をこえる言論取締法規によってがんじがらめにされていた。整理部員は日夜、時間に追われながら紙面の整理、編集を行い、何冊もある分厚い命令つづりをひっくり返しながら、記事が引っ掛からないかどうか目を皿にしてチェックしていた。

 

 一方で、外務省、海軍、陸軍の暗号(暗号表の鹵獲による)は筒抜けだった。

 石橋湛山は言論機関が完全に停止した様を批判している。

 

 17 日米開戦

 1940年の北部仏印進駐、1941年の南部仏印進駐により対日制裁が強化され、このままでは資源が枯渇することが明らかになった。

 新聞統廃合が進められるとともに、政府は内閣情報局を通して新聞を統制した。

 日米開戦をスクープしたのは「東日」(現在の毎日)だった。

 

 

 18 太平洋戦争下

・各新聞社に特高が常駐した。

・日米開戦と同時に外電は停止し、海外情報の取得は枢軸国・中立国に限定された。

・報道は、大本営発表と戦意高揚記事だけになった。

・各所で間抜けな検閲が実施された。

・新聞の統制ではなく、もはや軍部が新聞の構成を指導するようになった。

大本営発表……開戦後半年は比較的事実を報道していたが、やがて被害を過小に報告し、また虚偽の戦果を立て続けに報じるようになった。

 

 ――(論説と編集が)多少の角度(違い)ができることは敵を乗ぜしめ、場合によっては国論が二つになる。はっきり政府と同列の線に入っていくことが最も必要であります。戦争に勝つまでの間は、ただ政府の行わんとするところをいち早く国民に知らしめ、政府のいわんとするところを国民に伝え、国民をあくまで完勝に導いてゆくのでなければ勝つことはできない、すべてを犠牲にして、ただ勝つための新聞を作ってゆく時代になったと考えるのであります(朝日社報)。

 

・新聞戦闘員養成のため、各社の記者が神社道場にて修行を行った。

・軍部の横暴の最大の例が、1943年の竹槍事件である。

 

ja.wikipedia.org

・敗戦後、朝日の編集局長は次のようにコメントした。

 

 ――今まで一億一心とか、一億団結とか、玉砕とか米英撃滅とかいう最大級の言葉を使って文章を書き綴って、読者に訴えてきたのに、今後はがらりと態度を変えなければならない。これは致し方ないことだが、まあだんだんに変えていくことにしようじゃないか。あんまり先走ったことはよそう。

 

 局長の言葉に反し、責任追及の流れが高まり幹部らは辞職することになった。

  ***

 戦争によって報道が歪められ政府の片棒を担ぐというのは古今東西に見られる現象である。

 

太平洋戦争と新聞 (講談社学術文庫)

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  • 作者:前坂 俊之
  • 発売日: 2007/05/11
  • メディア: 文庫