フランス革命が、フランスの歴史、フランス国民にとって劇薬であったことを伝えるという趣旨の本。
著者は、革命が人間の偉大(理想)と悲惨(現実の殺戮、恐怖政治、戦争)を体現していると考える。
岩波ジュニア新書ということで、子供向けにわかりやすく書かれている。
1
フランス革命の理想は、この世の不幸や悲惨を絶滅して人間の尊厳を回復することにあった。ロベスピエールやサン・ジュストは、国民の生存権こそが最重要であると説いた。
フランス革命は、紆余曲折を経て「自由・平等・友愛」の価値観をある程度実現させることができた。一方で、革命は恐怖政治や戦争を引き起こした。
キュリー夫人は、フランスの自由な空気に憧れてソルボンヌ大学に入学した。しかし、革命については、科学者ラヴォワジェを、かれが徴税請負人であったという理由で処刑したことから、その意義を否定した。
著者はフランス革命を劇薬と考える仮説を提示する。
2
フランス旧体制の行き詰まり
・18世紀末、フランスは、世界貿易と植民地の覇権をイギリスに奪われつつあった。
・工業力はイギリスに比べて遅れていた。第三身分(平民)のブルジョワ(中産階級)たちは、国内の体制変革を求めた。
・旧体制……身分制(聖職者、貴族、平民)、領主制、絶対王政
・絶対王政下でも貴族の特権や領主制が既得権益として残されたため、平民の間には不満が蓄積した。
・革命の担い手は、2つの社会階層……ブルジョワと民衆・農民だった。かれらはお互いに異なる要求を掲げていた。
――ブルジョワが求めていたのは、……資本主義の発展のための、自由と、所有と、権利の平等でありました。ところが、民衆の求めるパンの価格統制は、経済活動の自由とまっこうから対立しますし、農民の求める土地の分配は、土地の所有権に対するまっこうからの挑戦でした。そして、民衆や農民がパンと土地を求めるということ自体が、財産の不平等の是正を求めるということを意味します……。
フランス革命は、貴族と第三身分の対立であると同時に、ブルジョワと民衆・農民の対立でもあった。
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革命の前に、王権と自由主義貴族との対立が発生していた。貴族に課税しようとする赤字財政の王に対し、貴族が抵抗した。
1789年……全国三部会の開催。全身分合同の国民会議の誕生と、憲法制定の方針(球戯場の誓い)。
7月14日にバスティーユ牢獄の襲撃。地方での領主に対する暴動。
8月4日の封建制度廃止と、26日の「人権宣言」。
人権宣言の内容……「人間は、生まれながらにして、自由であり、権利において平等である」。国民主権、参政権、所有権の神聖不可侵。
その後の革命は、反革命(貴族サイド)と徹底的革命(民衆・農民サイド)との間をぶれながら進行していく。
1792年、オーストリアやプロイセンとの戦争が始まる。大衆蜂起により反革命路線が崩壊し、王政が倒れ共和国となる。
しばらくの間、大衆の反資本主義運動が優勢となるが、1794年のテルミドールクーデタによりロベスピエールが失脚し、再転換となる。
1799年、ブリュメールのクーデタによりナポレオンが支配権を握る。
1791年のル・シャプリエ法は、私的な独占・談合を容認しており、また労働者の団結を禁止していた。このため、貧しい人びとは不満を抱いた。
山岳派は大衆の圧力を利用してジロンド派を議会から追放し、公安委員会に権力を集中させた。93年から1年間、恐怖政治が行われた。
政治的デモクラシー(参政権の平等)は、19世紀終盤に実現した。
社会的デモクラシー(社会的地位の平等)は、民衆・農民の理想ではあったが、実現は困難だった。
革命時に課題とされたパンの問題(食糧価格の統制)、土地の問題(土地の分配)、福祉の問題(公的扶助と生存権)について。
ロベスピエールが処刑された後、95年に「総裁政府」が樹立した。
――総裁政府のもとで、左翼からは、平等主義の社会をめざすバブーフが政府転覆の陰謀をくわだて、右翼からは、王政の復活をめざす王党派が政府攻撃を強めます。左右両翼からの脅威を前にして、ブルジョワは、ただ軍隊の力に頼るほかはありません。
こうしてナポレオンが台頭し、クーデタで権力を掌握した。
4
大衆運動の2つの面
・秩序だった要求
・血みどろの暴動……不安と恐怖、リーダーの不在、扇動者
ジャコバン独裁=恐怖政治をもたらした原因……
・貴族・ブルジョワ・大衆の利害対立が深刻であり、話し合いで解決するレベルではなかった。
・「敵対者は一般的利害を顧みず個別的利害を重視している」と主張し、正義感に基づく異論の排除を行った。
――……こういう正義感こそが、寛容の心を失わせ、人間を残酷にします。
・恐怖政治は大衆運動と連携した。
――「革命時における人民的な政府の原動力は、徳と恐怖である。徳のない恐怖はいまわしいが、恐怖のない徳は無力である」
恐怖政治時代に、革命裁判所によって処刑された人数は3万人から4万人である。
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テルミドール以後、山岳派は迫害・追放され、王政復古後は「国王殺し」として永久に国外追放となった。
――フランス革命は、リーダーも大衆も含めて、偉大でもあり悲惨でもある人間たちがあげた魂の叫びであり、巨大な熱情の噴出であった、と私は思います。