うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『告白』チャールズ・ジェンキンス ――小学生が夜勤して泥棒(軍人)を警戒する国

 米陸軍を脱走して北朝鮮の捕虜となり、その後軟禁生活を強いられたジェンキンス氏の自伝。

 北朝鮮での奇怪な生活や、妻となる曽我ひとみさんの話題、日本政府の介入によって脱出するまでを回想する。

 

 ◆メモ:北朝鮮自己批判教育
・日々の反省をする(5省)

 

 ――疲れないためのポイントは、自分が言っていることも、自己批判の会合自体も、まったく無意味なものと考えることだった――そして、それは事実でもあった。

 

 ――明らかにやってはならないことをわざとすることもあった。例えば桃か何かを盗んで、「これで総括のネタが1つできた」という具合だ。犯した過ちをすべて読み上げた後で、金日成の教えを守れるほどには、自分の革命的イデオロギーが鍛え上げられていなかったとかなんとか言って、遺憾の意を述べる。続いて党と金日成を失望させたことを詫びる。そして最後に……。

 

北朝鮮指導員のほとんどは「ちんぴら気取りの臆病者」、「けちな権威主義者と老いなる臆病者をかけあわせたような人間」だった。

 

  ***

 ――私は娘たちによくこう言った――「私たちは本当の世界で暮らしているのではない。ここは本当の世界などではない」と。……意味をなさないことがしょっちゅう起き、説明もされなかった。どうして10人の兵士たちの分隊が突然トラックでやってきて、我が家の裏庭に陣営を築いたりするのか?

 

  ***

 1

 ジェンキンス氏はノース・カロライナの貧しい家庭出身だった。かれは州兵に入隊し、軍隊に適性を見出した。

 

 2

 1958年陸軍に入隊し、韓国に配属された。このときの勤務は快適だったが、ドイツ転属の後、再び韓国に戻ってくると状況が変わった。

 韓国勤務は出世が早いということで元々は乗り気だったが、「ハンターキラーチーム」という威力偵察の指揮を命じられたため、拒否した。

 著者によれば、かれはその業務が嫌だったという。また、ベトナム戦争に送られた場合、悲惨な目にあうということでこれも拒絶したくなった。

 

 3

 米軍では脱走は日常茶飯事であり、当時は東側に脱走し、外交ルートを通じて西側に帰還するという例もあった。

 かれはある日、北朝鮮・韓国国境の警備の際、境界を越えて北朝鮮側に投降した。

 軍に監禁されて間もなく、ソ連北朝鮮が一枚岩でないことがわかり、また北朝鮮が米兵を返還する見込みのないことが明らかとなった。

 かれは、米兵4人で共同生活を行うことになった。他の3人も脱走兵であり、軍の落ちこぼれだった。

 朝鮮労働党のことを北朝鮮人は「組織」と呼んでいた。組織からは指導員が派遣され、米兵の動きを監視した。また、指導員たちは日々イデオロギー教育を課した。

 生活の利便のために、ジェンキンス氏らは市民権を取得することになった。

 

 4

 米兵4人の間で仲違いが起こり、ジェンキンス氏は1人の米兵に密告される。さらに、指導員の指示により、裏切った米兵はジェンキンス氏を殴った。このため氏の歯が下唇を貫通し穴が開き、針を縫うことになった。

 米兵それぞれに愛人をつくらせるために、女の料理人があてがわれた。

朝鮮民族と、汚い米人とを混ぜてはいけない」

との思想から、不妊を理由に家庭を追い出された女がやってきた。

 ジェンキンス氏の家にやってきた料理人女は、アメリカ人に恨みを抱いており、お互いに敵視しあった。

 

 その後、米兵たちは士官学校で英語を教えることになった。ジェンキンス氏は、でたらめな英語を教えたが、やがてばれて業務を外された。

 軟禁状態の米兵とはいえ、北朝鮮の一般市民に比べれば特権的な生活を送ることができた。

 町中や百貨店等で、他国出身の、拉致されたと思しき人びとが多数みられた。タイ、ルーマニアレバノンその他……仕事があるとそそのかされて人さらいにあった者もいれば、日本のように工作員によって拉致された者もいた。

 

 5

 ある日、指導員は日本人の曽我ひとみを連れてきた。ジェンキンス氏は曽我氏とすぐに親しくなり、結婚した。

 

 6

 その後の生活……

 

・映画出演……映画産業は貧しく、かれら米兵たちが、悪の博士役や、母国を裏切るイギリス人役等を演じた。その結果、アメリカ人が映画スターのようになってしまい、市民からの人気者になった。

・4人の米兵とその家族たちはアパートで共同生活を行った。

・小学校……夜の小学校では、子供たちの見張り当番がある。なぜなら、陸軍の軍人が学校の備品を盗まないように、警戒監視しなければならないからである。

 

 7

・一般市民に比べればましとはいえ、米兵たちの住居は劣悪だった。電力、水、寒さ対策等……。

・子供を学校に行かせていたが、一方、このまま教育を受け続ければ、洗脳されて工作員になってしまう可能性も高かった。

 

 8

 2002.9.17、小泉首相日朝首脳会談において、日本人拉致被害者の帰国が話題に上った。

 曽我ひとみは当初、日本の拉致疑惑一覧には含まれていなかった。北朝鮮側がミスをしたのか、北朝鮮側リストに曽我ひとみの名が入っていたため、日本政府は驚いた。

 妻が一時帰国したことで、ジェンキンス氏の精神は不安定となり、アル中になった。日本政府が、曽我ひとみ北朝鮮に返さない方針をとったため、この時期ジェンキンス氏は日本に恨みを抱いた。

 

 9

小泉首相ジェンキンス氏の面会

・面会の期間中、心ある北朝鮮指導員がこっそりとジェンキンス氏につぶやいた、「あなたが戻らなかったとしても、我々としてはどうすることもできないんですよ」

 

 ――私は耳を疑った。この指導員は自ら大きなリスクを冒しながら、たったひと言で、私が北朝鮮を離れることを容認し、そうしろと勧めていたのだった。

 

・日本到着後、かれはキャンプ座間に出頭し、軍法会議を受けた。

 

 当時の報道に対する反論……日本政府は曽我ひとみジェンキンス氏の脱出に尽力したが、軍法会議に関しては日本政府は介入していない。

 日本は米国の裁判制度を尊重した。また、軍も自分たちの規則を守る務めがある。

 禁固数十日が命じられ、服役した後、家族の下に帰った。

 

・洗脳されかけていた娘たちは、横田基地のBXで買い物ができるようになると北朝鮮に戻る気がなくなった。

 

 ――「見てごらんよ。北朝鮮の連中は何というだろうね? あなたに二千ドル渡したばっかりに、娘たちに対する共産主義教育の成果はあっという間に消えてなくなってしまったんだから。米軍基地でたった数分間買い物をしただけでね!」

 ――金銭に限ったことではなかった。日本に着いて2日としないうちに、娘たちは北朝鮮を離れたのは人生で最高の決断だったと確信するようになっていた。

 

・その後、ジェンキンス氏一家は佐渡島で生活している。

 

・米国に戻ったときの印象……将校と兵が、分け隔てなく会話している(兵が将校に口を利くには上司の許可が必要だった)。店や自動車のサイズが大きい。白人と黒人が対等な関係になっている。

 

  ***

 ジェンキンス氏は佐渡島で運転免許をとり、地元の施設で働いているという。

 

 ――私のために日本政府があれこれ手を尽くしてくれたことを、快く思っていない人も日本には大勢いる(政府がひとみの帰国に尽力したことすら気に入らないという人もいるぐらいだ)。私が「ただ飯」を食っていと批判的にみている人もいる。だから私と家族のために安定した収入を確保することは、私にとって重要な課題だった。

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告白 (角川文庫)

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