うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『馬仲英の逃亡』スヴェン・ヘディン

 探検家スヴェン・ヘディンが新疆(シンキャン)を探検した際、軍閥(Warlord)である馬仲英(マー・チュンイン)の軍と遭遇した事件について書かれた本。

 1933年、ヘディンは南京中央政府から新疆自動車道路設計のための探検指導を委任された。

 一行は馬仲英と現地政権との内戦に巻き込まれた。

 馬仲英は東干――回教を信じる漢族――の出身であり、「馬」はムハンマドのことである。

 

 ◆所見

 ヘディンらの自動車探検や、新疆に住む人びとの様子、細かい風景が描かれる。

 頑丈な自動車だが、悪路を乗り越えるためにはたびたび道や橋を補修したり、押して歩かなければならなかったようだ。

 古来からシルクロードとして知られる新疆地域は、常に軍閥や匪賊によって蹂躙されており、南京政府の権力はまったく及ばなかった。

 この地域には東干族、中国人、トルコ人白系ロシア人キルギス人、タルグート人等さまざまな民族が混在しており、また対立も深刻だった。

 馬仲英は冷酷で野蛮、かつ身の程知らずだが、同時に神秘的な存在として表現される。

 なお馬仲英は回族の馬家からなる軍閥(馬家軍)の出身で、この軍団自体はその後国民党政府とともに日本軍、共産党軍と戦い、後に台湾に逃れている。かれらは同じムスリム同胞を弾圧したため恨まれていた。

 

  ***

 新疆における戦争の歴史について。

 1795年、清朝乾隆帝が新疆を征服したのち、1865年、ヤクブ・ベクがカシュガルへ進出し、12年間独裁を行った。かれはイギリスから支援を受けていた。

 陝西・甘粛総督左宗棠(ツォーツンタン)が1878年にヤクブ・ベクを討伐し新疆を平定した。

 中華民国成立後、楊増新(ヤン・ツォンシン)が総督となり、省内の反乱や亡命ロシア人を鎮圧した。

 1928年、楊の暗殺後、後継者となった金樹仁(チン・シュレン)は圧政を敷いた。

 

 ――悪政と貪婪と抑圧とによってかれは暴動や内乱をひきおこし、こうして5年後には省内を荒野と化し、さらに新疆と中国本国とのつながりをことごとく断ち切ってしまった。

 

 1931年、金の暴政と中国人優遇に怒ったハミのトルコ人が、天山のキルギス人とともに反乱を起こした。ハミ王の腹心ホージア・ニヤズ・ハジとトルコ人部族首領ヨルバース・ハーンは、甘粛の東干将軍馬仲英に救援を求めた。

 馬仲英は馬歩芳将軍の部下だったが、反旗を翻し、その後匪賊の頭目となった。

 

 ――この敗北の後、かれは匪賊の頭目となって、略奪や襲撃や人殺しをやりながらうろつきまわった。

 

 1930年には蒋介石に面会し甘州総指揮官の職を得るが自分勝手な振る舞いをしたため再び追放された。

 1932年、金はトルコ人鎮圧のため盛世才(ションシーツァイ)将軍を派遣し、かれと馬仲英の副官が激戦を行った。

 その後、トルコ人ウルムチを包囲するが、主にロシア人の奮闘によって撃退した。しかし金がかれらを冷遇したため、ロシア人は反乱をおこし金を追放した。かわって、盛世才がウルムチ政府指導者となった。

 再びトルコ人ウルムチに向かって進撃し、その過程で馬仲英が再び参戦した。1934年2月、かれはウルムチから少しはなれた峠に陣地を築いていた。

 

 馬仲英について。

 

 ――彼自身の勇気は驚嘆に値する。何者にも怯まず、戦争などは屁とも思わぬ。町へ突撃するときにはいつでも真っ先に城壁へ上がる。だが途方もなく残忍で、開城を承知しないと、町中の人間を平気で殺す。

 

 かれは兵とフットボールを楽しむ一方、規律を乱した兵は自ら公衆の面前で射殺した。

 無限の名誉欲を持っており、かつてドイツ、ロシア、トルコをしたがえて世界を征服すると語ったことがあるという。

 

 ――かれにもし、近代の戦争方法を十分習得するまで待てるほどの精神力と忍耐力があったなら、その天賦の才と決意とによって、中国の主権者になれたかもしれない。だが、かれにはこの自制心が欠けていた。だから、新疆を呑みこむことさえできなかった。

 ――見よ、青ざめたる馬あり、これに乗る者の名を死といい、陰府(よみ)これに随う、かれらは地の四分の一を支配し、剣と飢饉と死と地の獣とをもて人を殺すことを許されたり。

 

  ***

 1934年2月、ハミ・オアシスに向かっていたヘディンの探検隊(車両5台、南京政府の証明書保有)は、荒廃したオアシスにたどりついた。

 村々は戦乱によって破壊され、農家は無人となり、畑や灌漑設備(カレーズ、地下水路)は使用不能になっていた。

 オアシスでは残った住民のなかからさらに徴兵が行われていた。

 ハミから先、ウルムチ近辺がどうなっているのか正確な情報はわからなかった。このとき、かれらは馬仲英が勝利しつつあり、新疆の支配者になろうとしているのだと信じていた。

 

  ***

トルファン

・馬軍の参謀長と虎王

・匪賊に襲われた村

 

  ***

 コルラへの道を進む。

 5台の自動車で悪路を進むには、橋をその場で補修したり、脱落しないよう荷物を下ろして人力で押したりしなければならなかった。

 

  ***

 コルラにたどりついたヘディンら探検隊は、守備隊長から車を1台貸すように命令された。拒否したところ、兵隊たちが取り囲み、銃を突きつけた。守備隊長は、馬将軍からの直接の命令で車を調達しなければならないと言った。

 馬も探検隊も、形式上南京政府の指揮下にあったが、馬将軍はウルムチに籠城する盛世才に勝てず、さらに別の軍閥にも裏切られたため、逃走手段を確保しようとしていたのだった。

 奇妙なのは馬将軍も、ウルムチの盛世才もどちらも国民政府から役職を与えられていることである。

 

  ***

 政府軍は馬軍を圧倒しつつあり、爆撃機がコルラに飛来し、探検隊のいる区画にも爆弾が落ちた。

 馬仲英は逃亡のためにヘディンら探検隊からトラックと運転手を徴発した。

 

  ***

 東干兵は次々と武器を捨て自分たちの故郷に帰り始めた。

 

 ――いまは馬はクチャに行く途中にある。だから、かれのにらみは効かない。以前はある程度までかれらを統御していたわずかばかりの組織も軍紀も今ではなくなってしまった。コルラに残っている数百人の敗残兵は誰の指揮も受けていない。かれらは普通の強盗や匪賊と何ら選ぶところのない単なる掠奪者の群れだ。

 

  ***

 敗退した馬仲英の軍は退却の途中でコルラを略奪した。東干兵はトルコ人を無差別に殺害した。町から町をつなぐ道の途中では、トルコ人商人たちの斬られた首が捨てられていた。難民が殺され放置された。

 ホージア・ニヤズ・ハジは、盛世才から南新疆すなわち東トルキスタンタリム盆地の統治を任されており、カラ・シャールに拠点を構えていた。しかし、軍事の才はなく、かれの部隊は馬軍に粉砕された。

 

  ***

 盛世才傘下の白系ロシア人とコサック軍団がコルラに入城し、ヘディンらを拘束した。

 ヴォルギン将軍、ベクティエフ将軍らは、ヘディンが馬仲英の協力者、スパイではないかと疑い、軟禁し取り調べをおこなった。

 

 ――アルタイの東干3000人が馬仲英に加わるために南へ進軍した。途中、断崖の間の峡谷を通らねばならなかったが、ここでロシア軍のために不意打ちを食らい、前後から挟撃された。500人は、ラクダも馬も武器も食糧もみんな放擲して、雪と氷の中を崖の頂上まで攀じ登ってやっと命を免れたが、残る2500人は一人残らず機関銃で撃ち殺された。

 

  ***

 コルラでヘディンらを尋問したベクティエフ将軍やその他の軍人は亡命ロシア人だった。

 

 ――われわれは戦争の中に巻き込まれたのですから、自分たちの安全のためにその成り行きを見つめなくてはなりません。しかしわれわれは、荒廃した町や火焔に包まれた村や、砂漠と化した畑や、飢餓と病気のために、死の運命に委ねられている生き残りの人びとを見ると胸がむかむかしました。この惨めな戦争はすべての人を乞食にし、幾世紀もかかって作り上げたものを滅茶滅茶にしました。

 

  ***

 大馬に強制徴用された探検隊メンバー……イエオリ、ヨッフェ、モンゴル人らは無事コルラに戻ってきた。

 かれらの話によれば馬仲英は非常に気持ちの良い、快活な人物だったということである。運転手らは、馬をナポレオンやティムールになぞらえて機嫌をとることで死を免れた。部下の参謀らは、探検隊メンバーを射殺することを主張したが、馬はかれらと車両を無傷で解放したのだった。

 

  ***

 馬仲英は退却した後、ホータン・ヤルカンドを襲撃し支配した。その後逃亡し、行方不明となった。英語版Wikipediaによれば馬はソ連に逃れたが最期は不明であるという。

 

 ――……あの男が砂漠の海を「さまよえるオランダ人」のように航海している限り、アジアのこのあたりには平和はありません。

 

 探検隊は盛世才(盛督弁)の許可を受けて、楼蘭とロプ・ノールに向かうことになった。

 

  ***

 金子民雄による解説では、スヴェンが南京政府顧問のフォン・ゼークト(元ワイマール共和国陸軍総司令官)と接触し、援蒋ルートの検証任務を帯びていたのではないかと推測している。

 

馬仲英の逃亡 (中公文庫BIBLIO)

馬仲英の逃亡 (中公文庫BIBLIO)