アデナウアーは現在でもドイツの復興、繁栄、建国イメージに結び付けられているが、その実像は複雑である。
また、日本ではヒトラーに比べて無名である。
本書は、自由民主主義体制の定着と西側路線への決断を軸にして、西欧化していくドイツの歴史を、アデナウアーの生涯をとおして検討する。
◆メモ
アデナウアーは民主主義を政治信念として持っていたが、本人の手法は権威主義的だった。かれの指揮によりドイツの方向性が定められ、結果としてプラスとなった。
・過去(ナチ政権)を否定し、公的に補償を行った。
・ソ連に対抗するため、西側との結合を重視し、再軍備を行った。
しかし、同じように権威主義的な人物が、市民を害するような方向に導いていくとしたらどうなるだろうか。
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1874年、ケルンで役人の子として生まれ、大学まで進んだ。ケルンはラインラント最大の都市で、プロイセンのなかでも比較的リベラルな傾向を持っていた。
アデナウアーはカトリックとして育てられた。
かれは当初検察庁で働いていたが、妻の家のコネでケルン副市長となった。第1次大戦中の食糧配給のときに活躍し評価され、1917年にドイツ最年少の市長となった。
ケルン市長時代には強力な権限を行使し都市の近代化を進めた。
ドイツ敗戦後、ラインラント分離構想が持ち上がった。これは、フランスがドイツからの緩衝地帯をつくるために、ラインラントを独立させるというものである。
アデナウアーは独立国家の構想には反対したが、自治は認めた。このため後年、政敵から分離主義者として非難されることになった。
ヴェルサイユ条約の結果、分離構想は英米の反対でつぶれ、非武装化と連合国による一時占領が決められた。
1933年、NSDAP(ナチス)が政権を掌握した。アデナウアーはナチ党を嫌っていたためヒトラーの訪問を無視した。その後かれは政権から市長を罷免され、身の危険を感じ修道院に逃れたのち、レーンドルフの山奥に隠居した。
1944年、ヒトラー暗殺未遂事件の後、逮捕され、しばらくの間拘禁された。
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敗戦後、アメリカ軍にケルン市長に任命されたが、その後統治権がイギリスに移った。イギリス軍は社民党寄りであり、アデナウアーと衝突したため、イギリス軍はかれを罷免した。
アデナウアーは政党政治家として、キリスト教民主同盟(CDU)の創設に向けて作業を開始した。
――アデナウアーによると、ドイツ人は長い間、国家、権力、そしてそれに対する個人の位置づけについて誤った考えを抱いてきた。ドイツ人は国家を神格化し、個人の価値や尊厳を国家に従属させたのである。……アデナウアーは以上のような国家権力への崇拝と、それに伴う個人の尊厳の抑圧というドイツ史の傾向が、ナチスを導いたと主張するのである。
アデナウアーは、代替えの価値観として「個人の自由、キリスト教倫理、民主主義」を掲げた。
外交においては、キリスト教的=西欧的世界と、ソ連・共産主義的=全体主義的・無神論的・アジア的世界との二元論を展開した。
アデナウアーのヨーロッパ統合は、こうしたアジア勢力に対抗して、西側世界を結合させるという思考である。
戦前は中央党に所属していたが、中央党はカトリック政党でありまたナチと協調し自己崩壊した。
かれは地方レベルからキリスト教政党の建設を進め、やがて平和、反共、統合を軸とするCDUが成立した。
1948年の議会評議会(憲法制定会議)においてアデナウアーは議長となった。
ボン基本法の性質……
・大統領の名誉職化
・建設的不信任制度(必ず後任を用意する)
・闘う民主主義(反民主主義政党の禁止)
・極端な小党分立の規制
1949年、アデナウアーはドイツ連邦共和国首相となった。
[つづく]