ノーマン・シュワルツコフは、その後、ウェストポイントでの教官、ペンタゴンでのデスクワーク(とても時間のかかる業務)についた後、大佐となり、アラスカの旅団指揮官となる。
評判の悪かった指揮官は、毎週金曜朝に、全員にマラソンをさせ、砂場で格闘技をやらせていた。このため、部隊は「サーカス旅団」と呼ばれていた。後任者はすぐにサーカスを廃止し、真に必要のある、現実に即した訓練を行わせた。
チームの士気を高めるには現実的な目的が必要である。
その後、准将に昇任し、ハワイの太平洋軍で再び補佐となる。
太平洋軍は海軍の優位な部署で、著者は肩身の狭いおもいをしたという。
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師団長
グレナダ侵攻の際の陸軍担当
ベトナム戦争後の教訓を受けて、1980年までに多くの改革が行われた。訓練方法の改善、新しい装備、女性軍人の採用等。志願兵の質が段違いに向上した。
将軍になると、昇任しない限りは何年働いても約700万円弱の年収を超えることがない。退役すると、その4分の3の年金を毎年受け取ることができる。
シュワルツコフも引退を考えたが、参謀本部の作戦部長に配置されると、任務継続を決めた。
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著者は中央軍司令官となり、統合参謀本部議長コリン・パウエル(このとき陸軍大将だった)の指揮下となった。
中央軍は北アフリカからパキスタン、アフガニスタンまでを管轄する。当時は、太平洋軍、欧州軍よりも格下で、重要度は低いと考えられていた。
著者が司令官となった1989年、中央軍はきわめて可能性の低いソ連によるイラン侵攻シナリオを想定していた。
著者は中東諸国の軍首脳や国家元首と積極的に交流し、信頼関係を構築しようと努めた。地域の軍司令官は外交の一端を担う役目を果たしている。
かれはイランとの戦争を終えたイラクがアラブ諸国の最大の不安となっていることを認識した。
イラクを仮想敵国としたCPX(指揮所演習)を行った矢先、イラクがクウェートに侵攻した。アラブ国家がアラブ国家を攻撃したために国際社会は混乱に陥った。
著者はサウジアラビアの族長たちの前でスライドを用いて、イラクに対する防衛作戦を説明した。
部族たちは、いま決断を遅らせればクウェートの首長たちのようにホテル住まいになってしまう、と考え、米軍の介入を了承した。
中央軍は砂漠の盾作戦を発動し、サウジアラビアを守るために各部隊を展開し、イラクを海上封鎖した。
上官パウエルと著者は、今後、米軍の攻撃が行われることはないだろうと考えていた。当時の国際関係においては、サウジアラビアのためには戦うが、クウェートのためには戦わないだろうという見方が大勢を占めていた。
ところが、ブッシュ大統領が演説でイラク断固粉砕を主張したため、著者は攻撃計画を作成することになった。陸海空、海兵隊それぞれが作戦に向けて人員を輸送し、準備にとりかかった。
サウジアラビアはイラクや米軍の介入以上に、自分たちのイスラム文化と信仰が汚染されることを憂慮していた。
著者は、サウジアラビア国王と国民の意識を尊重し、駐留する全米軍に対し、文化の尊重と規則の遵守を徹底させた。
米兵は一切のポルノや酒を持ち込めず、市内で肌を露出したり、イスラームに反する行為をすることを禁止された。リヤドやメッカ、メディナといったサウジアラビアの主要都市は、いまでも外国人の流入を封じている。
米軍とサウジアラビア軍はそれぞれ自国の指揮系統で活動した。
政府と著者ら司令部との間で、攻撃するかしないかの押し問答が続き、兵隊たちは3か月以上待機させられた。
チェイニーは明らかに兵力が不足しているにもかかわらず、無謀な攻撃作戦を提案していた。
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2月24日に「砂漠の嵐」作戦が開始され、サウジアラビアから多国籍軍が攻撃を開始した。空爆によってイラクの戦車、防空システム、火砲等が破壊された。さらに地上軍が前進すると、イラク軍は次々と降参し、逃走した。イラク兵の士気は低く、大量の捕虜が生まれた。
戦争指揮によって得た教訓……
・状況は刻一刻と変わり、正解は1つではない。
・現場の指揮官には、上級司令部に報告するよりも重要な仕事がある。報告が遅いといってすぐに攻めてはいけない。
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最後に、著者はよく尋ねられた質問を紹介している。
その中で、なぜバクダッドを制圧しなかったのか、という質問については、イラクを制圧しフセインを追い出すことは、代わって民主主義政権を樹立させる責任が生じ、また治安維持や社会制度の復興にも着手しなければならないだろうと回答する。それは莫大なコストを伴うものであり、米国民がそれに耐えられるかは疑わしいとのこと。
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◆メモ
・WW2後の米軍の歴史や、実際の部隊の様子を知ることができる。
・ベトナム戦争は当初、少数の軍事顧問団派遣にとどまっており、戦争とは認識されていなかった。今のイラクやシリアに、軍事顧問団(特殊部隊)を派遣しているのと類似した状況と考える。
・湾岸戦争は成功したが、多国籍軍がイスラームの聖地であるサウジアラビアに駐留し、終結後もしばらく滞在したことで、ビンラディンら過激派の恨みを買った。私の意見ではビンラディンらの逆恨みに近いが、アルカイダによる国際テロリズムの原因の1つは、湾岸戦争である。
・「湾岸戦争のトラウマ」とされる日本の金銭的支援だが、大部分は多国籍軍に使われた。本書において、シュワルツコフは「日本の援助は米軍の後方支援(調達)に不可欠だった」と書いている。
しかし、その事実は伏せられ「金ではなく人間を出さなければならない」という風潮がつくられた。
- 作者: H.Norman Schwarzkopf
- 出版社/メーカー: Bantam Books (Transworld Publishers a division of the Random House Group)
- 発売日: 2013/02/27
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