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『Rationalism in Politics and Other Essays』Michael Oakeshott その2

 ◆政治教育

 政治は、イデオロギーや原理を原動力とする、組織への参加である。理想や原理原則がなければ、わたしたちの政治的行為は気まぐれな反応に過ぎなくなる。原理原則を持たない人間は政治を担う資格がない。

 政治的行為の基礎をなすイデオロギーは、ゼロから生まれた、または理性の力のみによって生み出された抽象的原理ではない。

 あらゆる政治的イデオロギーは、既存の慣習や伝統を基礎として、これらを抽象化、要約したものである。よって、原理原則を理解し政治を行うには、その背景となった慣習を身に着けていなければならない。

 オークショットによれば、フランス人権宣言はロックの思想に多くを負っているが、その思想もまた、英国人が連綿と受け継いできた伝統的な考え方を抽出したものである。

 時折、政治ではなく宗教や経済活動、戦争の慣習を抽象化したイデオロギーが政治に利用されることがある。しかし、こうした抽象化は不適切であり、その代表例はマルクス主義である。

 また、技術的知識のみを利用する政治も誤りである。イデオロギーが理性のみから生み出され、あらゆる伝統や慣習を超越するという思考は失敗につながる。

 イデオロギーのみを教える教育は正しい政治教育ではない。イギリスは民主主義の普及した国だが、イギリスの子供が皆、ロックの著作を叩き込まれているわけではない。

 政治教育は、政治の細部にわたる伝統や、歴史を学ぶものでなければならない。抽象的な理念や原理だけの教育では、実践的な政治知識は得られない。政治哲学はあくまで補足説明ができるだけである。

 また、政治の伝統や歴史は、自分たちのものだけではなく、多様な国、組織について学ばなければならない。

 暗示されているものの追求……政治教育は、われわれが実践していることがらに基づかなければならない。原理や一般理論は実践の助けとはならない。

 

 ◆政治的言説

 政治的な言説はある選択を正当化し、支持を得ようとする。政治は統治に関わるものが行う選択にかかわるものであり、そこには思案がある。思案には、その選択が及ぼす結果と、その結果が良いのか悪いのかについての判断が含まれる。

 あらゆる政治的言説は、状況の認識と自らの選択の弁護を含む。この認識と正当化に用いられる一連の語彙がイデオロギーである。それぞれのイデオロギーに固有の認識、解釈と語彙がある。

 イデオロギーは行為者に対しその方向性を示す。

 政治的言説は状況を診断し、適切な選択を提案し、説得し、選択の結果が善であるという同意をとりつけようとする。ある価値判断や選択について、証明はできず、あくまで説得ができるのみである。

 不確実な政治判断に確実性を付与するため、古代においては神託等が用いられた。確実性を満たすため、プラトンは論証できる政治的言説を追求した。

 マルクスは、抽象的な法則を提唱したが、これが現実にうまく適用されることはなかった。著者は、論証可能な政治的言説の失敗例、現実から遊離した抽象的法則、一般化の例としてマルクス主義を紹介する。

 政治的言説は、一般化、抽象化に近づけば近づくほど、現実から離れ役に立たなくなる。また、政治的言説が意見や推測を完全に排除することはできない。そして、イデオロギーの終わりを達成するという試みは絶対に成功しない。

 論証可能な政治的言説のみを追求することは、それ以外の言説を排除する独善につながる。

 わたしたちは自分の意志と責任で選択しなければならない。

 また、現実の状況に即して考えなければならない。意見と憶測を含む議論を扱っていると認識しなければならない。

 [つづく] 

Rationalism in Politics and Other Essays

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