『失われた時をもとめて』の作者による文芸評論。たまたま古本屋で買ったがおもしろかった。
フローベールの文体は特殊である。線過去、点過去の用法に独自性があり、また「そして」を意外な場所で使う。多様な動詞をもちいる一方、「持つ」で済ませたりしようとする。
プルーストや、その議論の相手によれば、フローベールの文体は極度に工芸に近く、いわゆる「天才」のような自然さとはまったく異なる。彼の文体、語の配置、選択は、意図的につくりだされたものという印象を与える。
「そして」、「しかしながら」の配置、過去形の使い分け、表現や視点の縮尺、このような細かいところまで管理が行き届いてこそ、独自の文体がつくられるのではないか。
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ジョン・ラスキン評論において、プルーストは彼を信仰と倫理を兼ね備えた唯美主義者ととらえる。ラスキンはひたすら美を追求したが、この美は、信仰と一体化している。いわく、信仰が頂点に達した中世において芸術の美もまた頂点に達し、信仰が揺らぐとともに美もまた落ちぶれてしまったのだ。
しかし、ラスキンの著作のなかでも、美と倫理のあいだにはわずかな矛盾がみられる。美の「偶像崇拝」な要素について、ラスキンは次のように書く。
――異教徒の場合であれキリスト教の場合であれ――また言葉によって作られる幻影であれ、色彩もしくは美しい形の幻影であれ――語の深い意味でまさに偶像崇拝と呼ばれるべきものを援助するということは、よい側面もなかったわけではないだろうと私は思う……
芸術の美を、一種の偶像崇拝としながらも、これを信仰および倫理と両立させようとラスキンは腐心している。
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