うちゅうてきなとりで

The Cosmological Fort 無職戦闘員による本メモ、創作、外国語の勉強その他

『現人神の創作者たち』山本七平

 江戸時代の朱子学を参考に、尊王思想の起源を探求する本。かなり専門的な分野なので事前知識はなかったが説明はわかりやすかった。

  ***
 尊王思想は朱舜水という中国人がもたらし、徳川幕府が官学として結実させた思想のひとつである。尊王思想は日本史においては特異なイデオロギーである。

 自らの思考方式の由来を認識せず無知でいることは、知らず知らずのうちに縛られていることになる。

 ――戦後社会は、自らが一定の思想のもとに構築した社会でなく、敗戦の結果「出来てしまった社会」である。このできてしまった秩序をそのまま認め、その統治権がいかなる正統性に基づいているかを問題にしないか、できてしまった後で何らかの借り物の正統性を付与するという疑似正統主義、すなわち戦後と同じ状態の「まやかし」に基礎を置くことは、実は、幕府なるものの伝統であった。

  ***

 熊沢蕃山は当時主流であった慕夏思想(古代中国を理想とし、日本こそその理想にもっとも近い国、すなわち中国であるとする思想)に対し、現実的な水土論を唱えた。このため、幕府のイデオロギーと対立し迫害された。

 江戸幕府は自らの正当性を確立するために儒学を援用した。

 ――幕府が体制の御用哲学として採用した朱子学の正統主義が奇妙な結果をもたらすことになった。というのは幕府の正統性を証明しようとしたところ、何が正統かの論議を起こす結果になったからである。

 

 政府の正統性は「人類普遍の原理」に基づくものでなければならない。そして、必ず模範となる理想国がなければならない。戦後はアメリカとソ連が理想国に該当したが、江戸時代は中国だった。

 山鹿素行は『中朝事実』によって、「日本こそ真の中国である」と主張した。このとき中国は異民族王朝である清によって統治されていたため、こうした思想が普及した。

 素行は尊王思想を唱えるだけでなく現体制をも擁護したが、これは本来の朱子学とは矛盾するものだった。

 ――戦後の日本で当時の朱子学のような絶対性をもっているのは民主主義だが、では一体日本で、何の理由で戦後34年間、民主主義という言葉が絶対化しているのか、その理由を論理的に説明できる者はいないはずである。

 

 戦後と江戸期に共通するまやかしとは……できてしまった体制を絶対化し、それを借り物の疑似正統主義で正当化し、現実問題の処理は、その正統主義に基づく「憲法」ではなく「自然法」で処理していくという行き方である。

  ***
 山崎闇斎、浅見絅斎は明治維新に多大な影響を及ぼした江戸期の儒学者である。かれらは朱子学とは異なる徳目を主張した。

 ――この2・26事件的な「誠」は、「自己の内なる義なる感情にあくまでも誠実」であり、それ以外は信ぜず顧慮せず、その義なる感情を充足するように社会に働きかけるためには手段を選ばない、という意味である。その意味では自己絶対化で、自己の内なる、これが「義である」と信ずる信念の絶対化が「誠」であるということになる。この行き方は新左翼にもあるが、「誠」という言葉の意味をこのように変えてしまった元凶が、実は、山崎闇斎なのである。その意味では闇斎・絅斎は未だに日本人に影響を及ぼしている。

 著者はこの態度が闇斎らの厳格な師弟関係から生まれたとし、日本独特の「教祖的絶対化」であると論ずる。

 

 徳川幕府は官学をおこすことにより自らの崩壊の種をまいた。

 朱子学神道は深くかかわっていた。元々神道は仏教と積極的に一体化しようとしていたため、「ごく普通の一般的日本人が神道と仏教を別の宗教と見るようになったのは、明治以降」である。

 山崎闇斎の弟子に佐藤直方がおり、かれは現在では忘れられている。直方の思想は中国儒学を忠実に継承しているため、日本には受け入れられなかった。

 中国において絶対なのは「天」であって「天子」ではない。天に叛く天子はすぐに蹴殺されなければならない。

 日本においては、日本独自の朱子学があるべきだ、とする論が受け入れられ、忠実に中国の儒学を学べと説いた直方は忘れられた。

 浅見絅斎は自己の正統性を絶対化した。維新思想や戦中の思想は彼の著作から生まれたが、明治時代に彼の名は消された。

 『靖献遺言』について……中国では政治は宗教であり絶対的な対象である。

 ――彼らには宗教的な意味の「殉教」はないが、政治的な意味の「殉教」はある。これを「政治的殉教」と定義するなら、これと対比しうるものは、聖書の宗教すなわちユダヤ教キリスト教にしか求めえないであろう。

 絅斎の著書にあらわれる中国人は「孔孟の教え」に殉じている。一方、現代日本人は自分たちがいかなる教えを遵守しているか自覚していない。これはわれわれが戦前を消したためである。そして、そもそもは明治になって絅斎を抹消したことが発端である。

 

 ――幕末から明治、さらに戦前・戦中の日本を頭に浮かべ、そのときどきのスローガン、「尊王攘夷」、夷狄に等しい「蒋政権を相手にせず」「英霊に相すまないから撤兵できない」「鬼畜米英」「道義に基づく東亜新秩序」「撃ちてしやまん」「一億玉砕」等々、その発想はすべてここに登場する。

 ――これでは「平和」を主張する者はすべて「亡国の徒」となってしまう。これが、宋の滅亡から絅斎自身が引き出した結論であっただろう。そしてこれが、情況が錯綜し、「複雑怪奇」となって対応できなかった戦前において、平和を主張すれば「亡国の徒」、いたずらに強硬であれば「愛国者」という図式になって、これが固定的、強迫的反応となって日本を拘束し、どうにもならない状態にしてしまった。

 その思想は、「「現実の体制の外」に絶対性を置き、この絶対性に従うことが「義」だと考え、その「義」のために、体性が自分を殺しても外敵に亡ぼされてもそれを甘受するという行き方」である。

  ***

 戦国時代後の徳川政権においては中国が絶対視された。しかし明が亡びると中国ではなく日本こそ真の中国であるという主張がおこった。朱子学は「正統論」として輸入され、浅見絅斎は天皇家こそ正統であると定義した。

 討幕運動につながる上では、水戸学が大きな影響を与えている。

 ――普遍主義はしばしばその国の歴史を無視して流入し、単純な普遍原則がその国の文化的蓄積の中のあるものと共鳴し、そこから何かを掘りかえしてくるが、普遍主義者はこれを無視する。

 朱子学は日本に入ると独自の形の変形を加えられた。官学者は逆に朱子学に基づいて朱舜水を批判した。

 栗山センポウによれば天皇家は規範を喪失したため政権を失った。具体的には肉親で争いを始めたため、親子の関係や兄弟の関係といった儒教における最重要徳目を踏みにじった。このため幕府の統治に正統性がある。しかし、天皇家が規範を取り戻せば政権は天皇家に戻らなければならない、と栗山らは言外に暗示した。

 大政奉還は、600年以上昔に政権を喪失した山城国の小領主に政権を返還したという点で世界史でも奇妙な現象である。

 戦国時代には「叛逆」という意識がなかった。徳川家は秩序の思想として朱子の正統論を導入した。

  ***

 赤穂浪士

 赤穂浪士たちの行動は本来の儒学からすれば否定されるべき行動である。しかし、当時の儒学者の大半、また幕府は、かれらの敵討ちを称賛した。

 「大石以下が、これが主君の心情と思ったことに自らの心情を託し、まったく私心なく、純粋にその通りに行ったことが立派だ」という説が主流となった。

 

 ――現代でも「殺人未遂で逮捕され処刑された。その判決は正しく、誤判ではない。従ってそれは怨まない。しかし未遂で処刑されては死んでも死にきれまい。ではその相手を殺して犯行を完遂しよう」などと言うことは、それを正論とする者はいないであろう。……理屈はどうであれ、私心なく亡君と心情的に一体化してその遺志を遂行したのは立派だという以外にない。これでは動機が純粋ならば、法を犯しても倫理的には立派だということになる。

 

 幕府は赤穂浪士を支持したが、ではもし浅野家が天皇家で、吉良が幕府だったらどうなるだろう。そもそも幕府が浪士を認めることは「幕府の法は義に反する」と認めているに等しい。

 著者はこれを、幕府自らが革命思想にかぶれたのだと考える。たとえ法に反していても、義に背かなければ、幕府を倒して王政を復古させることが許されるからである。

 幕府は自ら討幕運動の種をまいた。さらにその思想は戦中にも生きつづけ、戦後になっても、われわれに影響を与え続けている。

 

現人神の創作者たち〈上〉 (ちくま文庫)

現人神の創作者たち〈上〉 (ちくま文庫)

 
現人神の創作者たち〈下〉 (ちくま文庫)

現人神の創作者たち〈下〉 (ちくま文庫)