『土台穴』を書いたロシアの小説家プラトーノフの短篇を集めた本。荒涼とした土地で生きる人びとに注目する。
「粘土砂漠(タクィル)」
――そしてこれから向こう百年間この場所は無人の地となることだろう。なぜなら、砂漠の民は噂と長期にわたる記憶とで生きるからだ。
――ジュマリはオーストリア人のことなど、一度もきいたことがなかった。定住した塚に人人が住んでいるのを二度見たことがあるだけで、この世に都市や、本、戦争、森や湖などがあることも、まだ知らなかった。
――「あたしの貧しい故郷はここにあるのだから」。
奴隷としてトルクメンにつれてこられた女と、その娘、そしてオーストリア人の孤独な兵士についての物語。彼らみなは故郷を失った人間である。しかしそれでもジュマリは、タクィルの塔を故郷と感じた。
過酷な環境にいても、かれらは憎悪をたぎらせない。希望が存在する。故郷というものを持たずに、生きていくことについて考える。根無し草と、奴隷たちはいかに生きたか。
「ジャン」
不毛な砂漠に住む流浪民族の中で生まれた青年の物語。チャガターエフは大学で孤独な女と結婚し、その後、出身地方へ仕事で赴任することになった。不毛の地サル・カムシュに住んでいたジャンという集団が、かれの故郷である。
ジャンという流浪の他民族集団は、飢餓状態にあり、領主に搾取される、生きる希望のない人人だった。彼らはひとつの建築も文化も生み出さず、ゾンビのように生きてきた。生きていること自体が不幸である彼らは、死を喜ばしいものと考えていた。チャガターエフはそういった故郷に戻ってきたのだった。
母親ギュリチャタイとも対面するが、母親に限らずジャンの民族は皆歩く死体のような人生を送っていた。
チャガターエフはアイドゥイムという十二歳ほどの可愛い少女に目をかけて、一緒に連れて行こうとする。
環境が厳しすぎるため、ジャン民族は皆生きる希望もなく、絶望もなかった。もはや自分たちがなぜ生きているのかもわからない状態になっていた。
「ジャンとは幸せをもとめる魂のこと」
チャガターエフは思った……果たしてこの既に生命力を失った人々をいかにして幸福にすることができるだろうか?
ムハメッドという役人はジャンの民族を漸進的に自然消滅させようと考えていた。彼らは精神を喪失しているから何をしても無駄だ、このまま砂漠に誘導して絶滅させるのがよいと彼は言った。
モスクワにいた妻は死に、十四歳ほどの少女クセーニャはチャガターエフが帰ってくることを望んでいたが、かれはモスクワには戻らず、この自分の生まれた民族をなんとかして助け出そうと考えるのだった。
羊を追い、食料にしつつ、ジャン民族とチャガターエフ、ムハメッドたちは不毛の砂漠で行軍を続けていた。
本当の生きる幸福とは一体なんなのだろうか、そういうことをプラトーノフは考えている。
チャガターエフと部族の娘アイドゥイムは粘土を用いて家をつくろうとするが、民族は生きる気力を失っていた。どうにか彼らは家をつくり、そこに住み込むようになる。
食料を探しにいったところ、偶然、政府から送られてきたトラックを発見し、食料その他の物資を集落に持ってくる。チャガターエフは彼らが幸せな生活を送れるように計画した。
ところが、健康を回復した民族たちはある日集落を去って、他の国、都市へ向かい散っていった。残ったのはチャガターエフとアイドゥイムだけだった。
健康を回復したジャンの人びとは、不毛の土地で集団生活を送ることを無益だと考えたのだった。こうしてジャンという民族は消滅した。幸せを求める魂は、それが現実味を帯びるようになると四散した。
過酷な環境での団結は意味をなさなくなった。
――チャガターエフはため息をつき、苦笑した。なぜなら彼は、自分1人の小さな心と、偏狭な思想や意気込みから、古代世界の地獄の底である、ここサル・カムシュの辺境に、真の生活を作り出そうと思っていたからだ。だが、どうすればより幸せになるかは、当人たちの方がよくわかっていた。彼らが生き残るのを助けてやっただけで十分なのであり、あとは彼ら自身に地平線のかなたで幸福をつかみとらせるがいいのだ……。