従来の一向一揆説を検討し、新しいイメージをえがく。本願寺派は、近世になると東西に分裂し、対立する。この過程で、いくつかの、事実と異なる一向一揆像が流布することとなった。
一向一揆ということばは近世、本願寺派によってつくられたものである。
本願寺派だけでなく、高田派等、他の浄土真宗も一揆をおこなった。
一向一揆は、本願寺本山主義ではなかった。末端が顕如ら法主に従わない、また、上の意向と下の行動が矛盾するという例も多かった。
一揆衆は世俗権力の抗争に密着した。
織田が本願寺を亡ぼそうとしたという事実はない。石山合戦の終結後も、安土桃山、江戸を通して、本願寺は影響力を保持し続けた。
従来は、信仰、階級闘争、政治のいずれかひとつの観点から語られることが多かった。著者は資料を検討して、一向一揆の実像にせまる。
――「百姓のもちたる国」は消滅したが、その「国」を支えた門徒の、寺院に結集された力は存続し、少なくともついこのあいだまで、人びとの活動や日常生活にとって大きな要素であり続けてきた。
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本願寺教団は、とりたてて反権力の集団だったわけではない。戦国時代には、真宗諸派だけでなく、法華宗、時宗、その他の寺も一揆の指揮をとった。
――戦国時代の地侍や在地住民たちは、本願寺派に限らず、戦乱にさいしては、自らの信心を託した寺院を中核として一揆し、行動することが多かったのではないだろうか。
――……当時の民衆の間では、たぶんに現世利益の要求を含む、そして呪術的ともいうべき宗教が求められており、それはきりしたんも本願寺門徒も同様であったこと、少なくともそうした側面のあったことは否定しがたいようにおもわれる。
本願寺の東西分裂について……石山合戦の際、法主顕如は信長と和睦し退去した。しかし、息子の教如はこれに反対し籠城をつづけた。やがて顕如の意志を継いだ息子の准如が、教如と対立し、石山合戦での行動をめぐって、寺が分裂した。教如は家康から土地を与えられ東本願寺派(真宗大谷派)を分立した。
この法難は、あいつらの責任だ、と互いを非難するようすは、ほかにもどこかで見たことがある。