ポルトガルの詩人の本。
前半がペソアのさまざまな原稿や書簡からの断章、後半が不穏の書である。これはベルナルド・ソアレスというペソアの別人格によって書かれた。
「詩人とはふりをすることだ」という聞き覚えのある言葉。感情を感じたふりをする、そう考えたふりをすることについて。
「私はおそらく、この地上ではいかなる使命も担っていないのだ」
自分が自分でない感覚をペソアは常に感じている。
芸術のうちには知識も哲学も倫理もない。あるのは意識と感覚だけだ。神も感覚のうちにある。芸術というのは還元不能の謎の物体ではないか。言葉、ポルトガル語にとりつかれた人間。
「私たちには誰でも二つの人生がある/真の人生は子供のころ夢みていたもの/大人になっても霧のなかで見つづけているもの/偽の人生は他の人びとと共有するもの/実用生活役に立つ暮らし/棺桶のなかで終わる生」
考えることをやめることは健康だ。意見をなくすことはすばらしい健康だ。諦めることは人工的な健康だ。
考えること、つまり理性の能力に対して、彼は疑いの目を向けている。ただ見ること、それどころかただいることによって人生を流れていくことが、もっともよいことだと彼は言う。
不穏の書
ベルナルド・ソアレスによる。会社勤めをしながら、ポルトガルの町並みを歩く日々の記録。彼は仕事場ではなにも感じない。それは家と同じだからだ。外に出ると、彼は自分が自分であることを忘れる。また誰にでもなる。自分は常に複数いることを感じる。
著者は散歩をするとき、郷愁(サウダーデ)を感じる。
「隷属状態が人生の法則である」
すべては無である。自分の意思からも自由になること。
「この小さな世界がどんなに醜悪に見えようと、それは私の一部だ。私はそれらとともに留まりつづけるだろう。それらと別れることは半分死ぬこと、死にも似たものだ、と」
会社で撮影した集合写真を見て、ソアレスはショックを受ける。無能で、役立たずの、粗野な顔が映っていたのだった。「君もうまく撮れているねぇ」と上司のモレイラに言われると、彼の「気分はゴミ箱のなかに真っ逆さまに落ちていった」。
――私がどんな感覚も記録しなくなってからずいぶん長い時――数日なのか数ヶ月なのかはわからない――がたった。もはや私は考えない、ゆえに、私は存在しない。私は自分が誰なのかを忘れてしまった。もはや存在することもできないのだから、書くこともできない。
――もっともたちの悪いことは、内面生活の素晴らしさと、日常生活の卑俗な面とのあいだの落差なのだ……倦怠とは、なにもすることがないという不満からくる病ではない。むしろ、もっと重症なものであって、なにをしてもしかたがないと確心しているひとの病なのだ。
するべきことが多ければ多いほど、倦怠も深くなる。
「私はつねに現在を生きている。未来は知らない。過去はもはやない」
「私には希望も郷愁もない。これまでの私の人生がどんなものであったのかを見れば――それは、私の望んだものとはあまりにかけはなれていた――いまさら未来にどんなことを期待できようか」
外界にあらわれる文は不完全なもので理想とはほど遠い。ソアレスのいう倦怠とは「世界の無感動になった不快感であり、生きていることを感じることの居心地の悪さであり、これまで生きてきたことにたいする疲労感なのだ」。
ソアレスは旅を嫌う。
「感じるために移動しなければならないのは、想像力が極度に脆弱な人間だけだろう」。私たちが見るものは私たち自身でできている。満足しきった豚にはなるな。
――<現実>しか生きることができないという倦怠と、<可能性>しか考えられないという倦怠。
夢想家であるには経済的余裕が必要だ。
「大いなる夢にはある種の社会的境遇が必須だ」
二つの真理。「生の現実の前では、芸術や文学の虚構はすべて色あせて見える」、また生全体を知ることは不可能だから、そうするには生を否定するしかない。
「実践的な人間であるための本質的条件は感受性の欠如で」ある。行動を妨げるものは感受性と分析的思考だ。
「行動するためには、他人の個性や彼らの喜びや苦しみを想像してはならない。感情移入をしてしまうと、動きは止まる」
――行動的人間はみなヴァスケス社長に似ている。
――企業や商社の社長、政治家、軍人、宗教や社会的理想に燃えるひと、偉大な詩人や偉大な芸術家、美しい女性、甘やかされた子供たち。彼らはしたいことはなんでもする。自分でしたくなければ命令をくだす。勝つために必要なものを考える人間だけが勝つのだ。
解説から……
ペソアのたいていの作品は未完であり、死後、廃墟の建設現場のごときおびただしい原稿が発見された。