国際関係は、パワーのみではすべてを説明できないとする立場の本。
ナポレオン戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦後における、戦勝国の戦後構築を検証した後、現在のアメリカがいかにパワーを抑制し他国を秩序に組み込むべきかを論ずる。
冷戦の終結は米国にあらたな戦後構築の課題を与えた。ソ連および東側が消滅したとき、民主主義工業国をつなげる秩序の源がなんであるかといった疑問がおこった。
リアリストはパワーからすべてを説明するが、これは説明不足にならざるをえない。
「民主主義工業国がきわめて非対称的なパワー関係の中でも、安定した、正統的秩序を創り出すことを可能にしていることがわかる」。
第一章 秩序の問題
戦後構築に共通する戦略的状況について。主導国に示される選択肢について、戦後構築の解決はどのように発展したかについて。
主導国の手段にはdominate支配、abandon切捨て、transform変容つまり新秩序の形成がある。民主主義国のあいだでは、制度に立憲的性質(constitutional)を付与することで、勝敗のインパクトを薄めることができる、とアイケンヴェリーは主張する。協約に基づく秩序が力の極端な不均衡を修正し、また主導国の力にも制約を加える。よって、国際政治も一律に無政府的、パワー・ポリティクスなのではない。
一九四五年の秩序制度はいまだ長寿を保っている。リアリスト、ネオリアリストの提唱するイメージが勢力均衡と覇権(ヘゲモニー)である。しかし十九世紀英国および両大戦後の米国は、パワー抑止の術をも知っていた。
秩序構築とはパワーの非対称にどう対応するかである。
「剥き出しのパワーを法に裏付けられた権威に転換する」。
時代を下るにつれ国際制度の重要性は高まった。
第二章 多様な秩序――勢力均衡型、覇権型、立憲型。
パワーを抑制するには、主権の強化や、構成単位の解体、勢力均衡、制度的拘束、超国家統合といった手段がある。超国家統合については、EUが一例である。
政治的安定と平和を同一視する学者もいれば、「安定のために戦争が必要となる」とする勢力均衡論者もいる。
「ある政治秩序の安定度を測るためには、その政治秩序が妨害要因に直面したときにどれだけ弾力性を持っているかについての判断を行わなければならない」。
第三章 秩序形成の制度理論
立憲的秩序制度は、初期には覇権国の力を継続させ、後期には復興した弱小国の力を抑制する役割を果たす。制度的拘束を主導国が他国に信頼させるには、いくつかの手順を踏まなければならない(制度の透明性、力の強制行使をしない保証など)。
なぜ制度は拘束的性質をもつのか? アイケンヴェリーは説明にあたり「経路依存性path dependency」ということばを用いる。すなわち「ある制度の設立を目指すとき、当初に膨大なコストを支出しなければならないが、形成される新制度は大きな実を結ぶ」。また、一度制度が確立されると、代替制度がたとえよりよいものであっても乗り換えるコストが障害となる。
よって、大戦争後の秩序再編は新しい制度確立のまたとない機会なのである。
民主主義国家は秩序を構築しやすい、とアイケンヴェリーはいう。政治の透明性、極端な政策が不可能であることなど。
第四章 一八一五年の戦後構築
ナポレオン戦争後のウィーン会議は、制度を用いて多国家間の調整を実現させるもので、稀有な成功を収めた。なぜなら第一次世界大戦まで、当事国同士の戦争がおこらなかったからである。旧来の勢力均衡からの発展。
英国(カースルレー侯)は制度的拘束メカニズムを利用するため、いくつかの有利な立場をあえて見過ごした。戦時中結ばれたショーモン条約……つまり四国同盟の更新。アレクサンドルⅠはこれに同意した。
ナポレオン躍進の核は欧州最強の軍隊と「大陸システム」といわれる経済管理地域にあった。一八一二年ロシア侵攻。フランス崩壊後、英露は二つの極として情勢を仲介する役割を果たす。英国は「平衡状態equilibriumの構築」を提唱した。英仏露の競合の結果がナポレオン戦争である。
英国は補助金を交付し、またパワーを抑制するという信頼を得るためオランダ独立に尽力した。四国同盟は一八一五年には仏を加え五国同盟となる。ポーランド支配をめぐるロシア、プロイセン、オーストリアの緊張はカースルレーにより回避された。
――カースルレーは、「領土紛争は妥協と互恵のプロセスによって解決される」という理解をぜひとも確立させようと努めた。
ウィーン会議は「非欧州問題を切り離した」ので、英露はそれぞれ他大陸、オスマン帝国などに干渉することができた。
第五章 一九一九年の戦後構築
国際連盟と、主要戦勝国が民主主義体制であること、米国の優位。欧州が疲弊するうちに米国の地位は上昇したが、それでも完璧ではなかった。ドイツは無条件降伏をせず、米国は欧州に軍事的存在感をもっていなかった。在欧米軍司令官パーシングは休戦に反対した。
ウィルソンは制度的平和をつくることが不可欠と考えたが、国際連盟設立は難航し、フランスの意向によりドイツが賠償責任を負う方向になった。クレマンソー「安全保障にはドイツの軍事力大幅削減、戦費の賠償が不可欠」。
ウィルソンの構想は仏国と米国議会を納得させることができなかった。ウィルソンを補佐したのはハウス大佐である。英仏大衆からの熱烈な支持は得られたが、指導者層はそれを傍観するだけだった。
第六章 一九四五年の戦後構築
この戦後構築は大規模ながら、包括的にはおこなわれなかった。第一に、冷戦体制の構築があり、第二に、西側工業諸国と日本との構築である。
――二つの戦後構築には明確な起源と論理が存在した。一つは、史上最も軍事化された戦後構築であり、もう一つは史上最も制度化された戦後構築だった。
ここでは、国連憲章は直接の関連をもっていない。
イスメイ卿曰く「NATOを作った目的は、ロシアを締め出し、ドイツがのさばるのを防ぎ、米国を仲間に引き込むこと」。米ソ対立のはじまる前から、欧州諸国は米国を第三の力として大陸に参加させようと試み、成功した。
ルーズヴェルトやチャーチルの見解によれば、第二次世界大戦の原因は閉鎖的経済だった。よって大西洋憲章には、自由貿易の推進と資源への平等なアクセスが提唱されている。米政府も、米国の危機を経済的混乱、政治的動乱と認識した。
欧州連合の構想はジョージ・ケナン米国務省製作企画局長官によって生み出された。欧州諸国が欧州人としてのナショナリズムを持つことで、分裂、ひいては共産主義の勃興を食い止めることができるだろうと考えたのだ。
終戦前の取り決めで、英財務省代表だったジョン・ケインズは米国の自由貿易構想に反対した。
英仏は統一欧州を進める上でも、米国との安全保障協定が有益だと判断した。民主主義国家によって批准された制度や同盟は、破棄することがむずかしい。米国があからさまな帝国になることはこの先考えにくい、と著者は述べる。
また、国連はここではさほどの重要性をもっていない。あくまで米国主導により制度構築はおこなわれた。
第七章 冷戦が終わって
西側工業諸国の同盟は勝利し、ソ連が自分から白旗をあげた。米国対他国のパワーの非対称が明らかになると、各国はそれぞれの方針を定めた。それでも制度の力はゆるがなかった。
ベルリンの壁崩壊とドイツ統一は、大ブッシュ、ゴルバチョフ、ホーネッカー東独首相、コール西独首相、サッチャー、ミッテラン仏大統領のとき実現する。ドイツは周辺国から受け入れられるため、そのままNATOの枠組みに根を下ろした。
地域的経済主義(NAFTA、APEC)、NATOの拡大、WTOの創設。米国はこれらの協定に参入することで「こうした地域への「関与」を確実なものにし」た。新興通商国への関与、これらは冷戦後の秩序を定めるための新たな方策だった。
覇権国アメリカと、文民的国家である日本とドイツ。
フランスと米国は、NATOの南部司令部を米国の軍人にするか欧州の軍人にするかで意見を違えた。それでもフランスは軍事委員会には参加している。半主権国の日本とドイツは、それぞれ立憲的制度によって安定した。中露までがNATO加盟を希望している。G8、IMF、WTO。
結論
現在の秩序は、制度への報酬が大きく、パワーへの報酬が小さい状況であるといえよう。この秩序のもとでは、勝利は常に限定されたものであり、また永続的なものでもない。敗者もまた然り。
立憲的制度とはなにか。これは国家の憲法から考えることができる。憲法の意義とは「不平等の制度化」、すなわち「包含と排除」、「権利と報酬」の誕生である。
――こうしたものは、特定の領域における不平等を永続化するが、その一方で、不平等を差別化し、不平等に限度を設定する機能を持っている。
立憲的制度は利益闘争の緩衝の役割を果たす。
アメリカの近年の軍事作戦を著者は評価していない。制度の力を考えた場合、米国の課題は、一方的な力の行使を続けるのではなく、単独行動を抑制し、同盟国を納得させることにある。
国際秩序の三つの型と、覇権国による「支配」「切捨て」「新秩序への組込み」という三つの選択肢。立憲的制度の進展がすすんでいること。この制度から排除されたものは、直接力の闘争に立たされることになる。
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