スペイン内戦に潜入したケストラーの本。オーウェルの『カタロニア讃歌』と読み比べてもおもしろい。
スペイン内戦は共和国軍の民兵とフランコ率いる叛乱軍の内戦である。フランコは王党派を名乗りファシスト・イタリアの援助を得た。ケストラーは英国の新聞記者として共和派に同行することになった。
『カタロニア讃歌』にも書かれているように、スペインはいまだ人間の合理的利用を達成していなかった。兵隊はよく眠り、前線ではのんびりタバコを吸い、食糧は運び忘れる。こうした有様の民兵が、精密な訓練を受けたフランコの軍およびイタリア軍に勝てるはずもなかった。
のんびりしている一方、苛烈な面もあらわれる。陥落した都市では市民や敵兵が殺戮され、叛乱軍は拷問をおこなう。このときのスペインはいまだに異端審問や征服者との共通項をもっていたのだろうか。
主人公はかつて王党派のふりをしてボーリン大尉やケイポ・デ・リヤーノ将軍に接近したが、ほどなくして身分がばれる。そしてマラガ陥落とともに、このボーリン大尉に捕らえられた。英国人はジブラルタルに逃げなくてはならなかったのだ。
戦車・戦闘機はイタリア軍が持っており、戦艦はフランコがもっている。羽のついた鉤十字、ナチス・ドイツも参加していた。
内戦に潜り込んでの生活を、典故やスペインジョークを交えて語る。おおざっぱなラテン気質は英国人にとっては格好のジョークになるのだろう。
マラガの監獄からセビーリャの監獄に移送される。ファランヘ・エスパニョーラ党員による拷問・銃殺はおこなわれなかった。ケストラーが英国の新聞記者だということを考慮してだ。
『真昼の暗黒』にも書かれていたような独房生活がふたたびはじまる。
――局面が劇的になればなるほど、人びとの反応の仕方は型にはまったものになって行く。人生が最も劇的になるときは常套的文句からのがれるのが最もむずかしい時だ。最も大きな興奮の瞬間には、我々はみな三文小説めいたふるまいしかできない。言葉の真価は抽象ということにある。明白な事実の前には、言葉は色あせる。
社会においては、ある人がどういう人かということにはほとんど価値がない。
「大事なのは、社会がその人にどんなはたらきを課するかということだ」。
逮捕されてからはじめて本を借りることができた。
「書物というものがまだ長い巻物に筆写するものだった頃のローマ人は、きっとこんな風に敬虔な気持ちで、一句一句、愉しみを明日にとっておくために、毎日の読む分を幾インチかに制限して呼んでいたにちがいない、とぼくは思う」。
セビーリャ刑務所にはまだ人間味が、スペインらしさが残っていた。下士官にとっては下士官からが人間のはじまりだが、囚人にとっては下士官からが非人間性のはじまりだった。
奴隷の精神は数の力をも萎えさせてしまう。上位の人間を自明のものとおもう力は大きい。民兵銃殺の理由は必ず「武力擾乱」である。
独特だがゆったりした監獄では、しかし夜な夜な銃殺が敢行されているのだった。ものごとの核心はいつも自分のいない場所でひっそりと起きる。
ケストラーはついに、人質交換を通して解放される。審査をおこなったファランヘ士官はおそろしく無知だった。共和制が守られれば読み書きを習えると信じて銃殺された民兵をさして、ケストラーは彼らは生の兵隊だという。彼らは死の兵隊ではないから、死ぬことをおそれていた。
全体主義と監獄の話という点では『真昼の暗黒』と同様だが、スペインを舞台にするとなにやら中世的で異様なものになる。