一部小説でよく名作として引用される小説。中短篇が集まってできている。ツルゲーネフ『父と子』といい、舞台は古いロシアだが、今読んでも納得のできる点がある。人間の精神は根底では変わっていないのかもしれない。
ナポレオン戦争後のロシア(推定)、エルモーロフ将軍はコーカサス(カフカス)地方を統括した軍人だった。この話もコーカサスからはじまる。ロシアは諸民族を束ねる帝国だったのでロシア人はコーカサス人、チェチュニア人(チェチェン人)、タタール人らをアジア人と呼び一段低い位置に置く。伝え聞くとおりここでもチェチェン人は一筋縄でいかぬ反抗的民族だといわれている。
主人公は道中で老将校マクシム・マクシームイチと出会い彼からチェチェンのカーメンヌイ・ブロードの要塞での思い出を聞かされる。帝国の末端、辺境、輪郭部ではやることがないので兵隊たちは一日中狩に出たりするらしい。
主役のぺチョーリンの話題に移る。彼は都会で散々奢侈と享楽をあびたあげく退屈してチェチェンでの戦役に参加した。彼は何ものにも動じることなく心を動かされることもなくなった。
要塞近辺の土人酋長(ムスリム)から娘を掠奪しても宗主たるロシア人はとがめられない。この冒険で手に入れた娘ベーラが死んでもあろうことかぺチョーリンは笑いだした。
ぺチョーリン曰く「ぼくの場合、魂は俗世間のおかげで腐り果ててしまい、妄想ばかりいたずらに湧いて、根性はさもしくなっています。ぼくにはなにもかもが不満なのです。悲しみにもぼくは快楽に対すると同じようにすぐに慣れてしまって、生活は日を追って空虚になってゆくのです。残された手段はただ一つしかありません――旅です」。
彼は異郷で野垂れ死にすることを目標に設定する。
――そこで私はこう答えた。同じようなことを言う連中はたくさんいる、おそらくほんとうのことを言っている人たちもいるだろう、しかし、幻滅感はあらゆる流行と同じく社会の上層からはじまって下層へとおよび、下層の人たちの間でもすたれてしまって、現在ではだれよりも実際に倦怠を感じている人々でさえ、欠点でもあるかのようにこの不幸をかくそうとしている、と。
彼の精神は感覚麻痺をおこし殺伐としている。
「おれは、他人の苦しみや喜びを自分に関連させてしか、すなわち、おれの精神力を維持してくれる食物としてしか見ない」、「なんら当然の権利もなしにだれかの苦しみや喜びの原因となることは――誇りをもつ者にとってはこのうえない珍味ではなかろうか」。
彼にはまだ他人を動かす膂力があった。だからこのような小説になるのだ。
――人より多くの観念がその頭に生まれた者は人より多く行動する。このゆえに役所の机にしばりつけられた天才は死ぬか、発狂するのが当然で、それはちょうど強靭な筋骨をそなえた者が、家の中に蟄居して運動不足でいると卒中で死ぬのと同じことなのだ。
――わたしは内気でしたが――みんなからはずるいやつだと非難されたので、うちとけなくなりました。わたしは善悪を深く感じるたちでしたが、だれからもかわいがってもらえず、みんなにばかにされたので、わたしは執念深くなりました。わたしはまた陰気な子でしたが――ほかの子供たちは朗らかでおしゃべりでした。わたしはそんな連中よりは自分のほうが上だと思っていたのですが――周囲ではわたしのほうが下に見られました。わたしはそこで嫉妬深くなってしまいました。また自分では世界じゅうをも愛するつもりでいたのに――だれひとりわたしを理解してくれません、そこでもわたしは人を憎むということを覚えてしまったわけです。こうしてわたしのぱっとしない青春は自分自身や世間とのたたかいのうちにすぎてしまったのです。
彼は自分を「精神的不具者」と呼ぶ。
決闘や、ロシアン・ルーレットといった殺伐とした展開が続く。
――「なぜおれは、運命が開いてくれたこの道に足を踏み入れようとしなかったのか、そこには静かな喜びと心の安らぎとが待っていただろうに……おれにはとてもそんな境遇にはなじめっこはない! おれは、海賊船の甲板の上で生まれて、育った船乗りみたいなものなのだ」