ヨーロッパの王宮にくらべ、紫禁城はあまりに巨大である。
これが独裁君主には必要だった。
「垂直に高さを計っても平面に距離を計っても、人民と天子との間には広大な空間が横たわっているのだ」。
独裁制を論ずるためにはその実例を綿密に調べてゆくべきで、理論だけで空回りしてはならない。
雍正帝は「恐らく数千年の伝統を有する中国の独裁政治の最後の完成者であり、また実行者であったといって過言でない」。
一 懊悩する老帝
康熙帝は子が多すぎた。中国では男の子がいなければ子がないといわれるのだった。三十五人の息子から後継者を選ぶのは困難だった。紫禁城の中には女官と宦官しかいない。康熙帝の皇太子は、老学者ばかりに囲まれ不良になってしまった。
「皇太子は何時の間にか、立派な政治ボスに成長していたのである」。
中国の官僚は朋党という派閥で成り立っており、賄賂が横行していた。
皇太子は朋党の親分ソエトのバックにつくなど悪行が過ぎたため廃位を宣告される。ところがすでに息子たちは皆天子の位をめぐって暗闘・姦計を繰り広げていた。
「太陽系にまたぞろ二つの太陽が輝きはじめたのであった」。
「あらゆる強敵と戦って光栄ある勝利を収めた帝王も、その家庭生活においては惨めな敗残者であった」。
親バカが国政を乱したのだった。お家騒動というものだ。
結局、康熙帝の四皇子が雍正帝となった。政争もまた残酷なものだ。官僚の親バカを見た康熙帝はその息子の処刑に親を立ち会わせる。
二 犬になれ豚になれ
雍正帝の実名は胤シンだったが、兄弟は皆允(イン)に改名させられた……「中国固有の古い習慣として天子の実名はタブーであり、口に唱えることも文字に現すことも厳禁されている」。
皇帝には兄弟というものはなく、あってもそれは臣下となる。
八皇子は雍正帝に目をつけられてしまう。あらゆる場所で帝の密偵が彼を見張り、邪推するのだった。八皇子は平民におとされ、さらに犬という名をつけられる。
「親子も、兄弟も、朋友も、君臣関係の前にひき出された時は、すべてその価値を失わなければならない」。
教えて厳ならざるは師の怠れるなり。犬と仲のよかった九皇子は豚と改名される。雍正帝は疑り深い君主のようだ。
「サスヘ(豚)が最初西寧の辺地に派遣されたとき、――遠ければ遠いほど私には好都合さ。 と口走ったことが雍正帝の耳に入り、反対に都に近い保定府まで呼びよせて、そこで独房に監禁された」。
兄弟潰しが続行される。
「時には嗜虐性とも見られる帝の執拗さは、独裁君主制の下において、君主たる義務を遂行するにはやむを得なかったとおもわれる」。
雍正帝も懲りたため、死ぬまで後継者を明かさないという太子密建の法を制定する。満州族の家族団結の伝統を捨てて、君主制という中国の方式を用いるためにはこの淘汰が必要だった。一方、臣下の身分をわきまえ重用された兄弟もいた。
三 キリストへの誓い
「世上から重んぜられなければ、ますます高くとまってその家系を誇り、清朝の嫡系はわれにありとして現皇室を見下そうとするのがスーヌ一族である」。
太祖の遠縁、地位の高いエホ部の貴族。この一族は皆熱心なキリスト教徒だった。
彼らは雍正帝に迫害されるが、キリスト教への篤信に帝は降参する。雍正帝は必要以上に宗教を敵視しなかった。仏教ももとは外来のものである、政治に支障がなければよいという考えだった。
四 天命の自覚
帝は国中の官吏と文通を行い彼らの行状をチェックした。相当忙しかったようである。
「恐らくこれほど良心的な帝王は、中国の歴史においてはもちろん、他国の歴史にもその比を見ないことであろう」。
地方官の文書に逐一返信したが、それらかなりの量の手紙が「清朝の末年まで宮中に山のように積み上げられてあったということである」。
ボス政治、党派政治を撤廃するにはどうすればいいか、そこで雍正帝が用いたのが密偵政治である。
「古くから独裁君主の常套手段である密偵政治」。
この密偵は忍者の域に達している。満州族は中国を征服した際に八旗とよばれる帝直属の軍隊を連れてきた。満州八旗、蒙古八旗、漢軍八旗の二十四旗。
――独裁政治下の密偵政治が失敗するのは、君主がかえってこの密偵に誤られるからである。密偵は劇薬のようなもので、副作用が強い。その上に分量を誤るととんでもない結果を招くものだ……専門の機関を設けるよりは、官吏同士をたがいにスパイさせるのが最上の策略である。
五 総督三羽烏
――独裁政治の下では特権階級の存在は許さないのが理想である。君主の前には大臣も地方官も商人も農民も、すべて一様な臣民でなければならない。
だが一人で政治をおこなうのは不可能なのでその手伝いとして官僚がいるのだ。
地方官として、雍正帝に気に入られたのは田文鏡、李衛、オルタイの三人だけである。当時地方財政は規則が定められておらず、官吏が私腹を肥やす恰好の場だった。とくに山東省では、清廉潔白の田文鏡が赴任したとき、誰一人弾劾を逃れられないだろうと、大恐慌をおこした。
ある商人の娘が、落とした銀を拾って、持ち主に届けたことを褒賞した。こうして雍正帝はその地の総督田文鏡をもちあげた。
――読者はこの話がいまから二百年も前のことで、当時はヨーロッパにも白昼追剥ぎが出る時代であったことを考慮に入れておいて欲しい。
六 忠義は民族を超越する
満州族の王朝である清にとって、攘夷思想はもっとも警戒すべきものだった。このため雍正帝の代に筆禍事件がいくつか起きた。苗族はじめとする異民族が次々と漢化されていくのは壮観である。やはり東アジアの中心は中国だったのだろう。
「中国人民の一部に根強い反満州思想がわだかまっている真相が明らかになって、雍正帝の自信を根底から揺り動かした」。
満州族ははじめ武力に秀でていたが銃が普及するともとが少数のため弱体化した。
七 独裁政治の限界
国土の広い中国では独裁制しかとることができないが、またその独裁制をも打ち倒してしまうのが中国である。乾隆帝は雍正帝時代とは異なりふたたび寛大の政治に戻した。彼らは満州族であったという文書を焼き、数代のちには誰も清朝が異民族の王朝であることを覚えていなかった。
康熙帝は当時より進んでいた西洋文化を優遇したが、雍正帝は中国を統一するために漢文化を重んじた。結局、中国における真の実力者は官僚と資本家だった。このふたつが結託するのを雍正帝は防いだのだが、死後再び実権を握った。
最後に著者は雍正帝の人格について書く。
――よくある間違いは、内気な性質を弱い性格と勘違いすることである。実際は内気で用心深い性質の人ほど気の強いものだ。あまりに勝気すぎる人は勝負遊びができない。雍正帝は正にその人であった……一層強い人間になりたいと念願して修養し、だまされまい、あざむかれまいと用心に用心を重ねたので、ここに堅固無類のコンクリートの要塞のような性格が出来上がったのである。
彼は戦争を不経済だとして嫌った。無力な人民をこよなく愛した。皮肉なのは、彼のような優秀な独裁君主がたまに中国には出現するため、新しい政治様式への欲求が生まれなかったことだ。
「独裁制に信頼する民衆は独裁性でなければ治まらないように方向づけられてしまった」。
「中国近世の独裁君主体制の理念は、君主と人民との間に特権階級が割りこむことを否定する」。
――清朝がその初期短時日の間に、中国社会何千年の歴史を縮小して経験しなければならなかったように、雍正帝はまたその即位の初期数年間に、清朝の歴史数十年分の縮図を経験しなければならなかった。
官僚の奢多で苦しむのは人民だが、その不満の矛先になるのは天子である。
「官僚はいよいよ形勢が悪くなれば降参しても助かるし、寝返りを打つという手も残されているが、天子ばかりは実権を失えば王朝と共に滅亡しなければならぬ」。
雍正帝の政治は、表向きの題本政治と、裏口の奏摺政治で成り立っていた。
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清朝初期、官僚と満州人との意思通達にはいちいち中国語と満州語との翻訳が必要だった。これは軍機処の設立によって解決された。